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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




川梅商店。中央区銀座1-24。1988(昭和63)年2月14日

写真手前が、新富町から新富橋を渡って銀座1丁目に入ったすぐの四つ角で、右奥への通りの向かい側は京橋公園。右手に銅板張り看板建築があるが、そこから手前の角の家まで、戦前築の看板建築と思われる。現在も銅板張りの家が「鮨 石島」になって残っている。その手前は「銀座マスキービル」(1992年11月築、8階建)と「パークサイド銀座」(1993年4月築、9階建)というオフィスビルに建て替わっている。
「川梅商店」は、そのHPによると、「創業以来「生かんてん」を中心としたあんみつ材料、和甘味食材の製造卸販売会社」。本社と店舗が築地3丁目にある。創業は1899(明治32)年。写真の店舗(兼工場?)は関東大震災で被災した後、1924(大正13)年に再建したもの。1966(昭和41)年に本社を築地へ移転する。「1983(昭和58)年「Sweet Shop KAWAUME」現住所(築地)に移転」ともあるから、それまで写真の店舗が使われていたのかもしれない。
昭和30年頃の火保図では、住所は「銀座東1-15」で、写真左から「桜井印房、川梅ミツ豆材料、砂場そば、木挽町食料配給所」。砂場は昭和10年頃の火保図に「そばや」とあるから戦前からの店だったのかもしれない。銅板張りの家は米屋だったわけだが、1986(昭和61)年の地図でも「中央精米」。

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三原ビル。中央区銀座4-8。2000年(平成12)年1月18日

晴海通りの、最近まであった三原橋センター(三原橋地下街)から北へ入ったところで、写真の通りは三十間堀川を埋め立てた跡の道路。Googleマップでは「中京429号」となっている。戦後、三十間堀川は戦災残土の処理場とされ、昭和27年7月に埋め立て工事は完了している。写真の通りの中央がかつての川の中央になり、川の両岸は建物が建った。そのため、そこに建った建物は南北に長く、幅の狭いものが多い。三原ビルもそんな形のビルだ。
昭和30年(1955)頃の火保図に「三原ビル(コンクリート造5階建)和泉金属KK/ニュー東京観光バス」と載っているビルと思われる。2013年に取り壊されて2015年9月に、現在の8階建地下1階のビルに建て直された。「串八珍」は新しいビルに移っている。写真奥の赤い看板は「和人餃子房 俵屋」。

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奥野ビル、中央区銀座1-9。1990(平成2)年1月21日

中央通りの東の2本目の裏通り(銀座三原通り、平成元年度の命名)にある、有名なレトロビル。『 nippon.com>銀座で…』や『 buuuu chan’s Trip>かつての銀座アパートメント…』によると、オーナーの「奥野商会」の先祖がアパートとして建てたビル。「銀座アパートメント」の名称だった。RC造6階地下1階建て、7階が増築されている。2棟のビルが接していて、南側(左)の「本館」が1932(昭和7)年、北側の「新館」が1934年の竣工。各階に通路があるようだ。全70室の各部屋は3.5坪ほどのワンルーム。現在はギャラリーやアンティークショップなどが主に入っている。銀座の高級アパート、と言われたらしいが、ワンルームマンションだったわけだ。「奥野ビル」と名称変更したのは昭和32年。
設計は川元良一で、施主と交友があったという。九段会館(軍人会館、昭和9年)の設計者である。同潤会の建築部長を務めたこともあり、それもあって集合住宅の設計を依頼されたのだろうか。
外観も内部もあまり改修せずにきて、今ではかえってそれが人を引きつけている。建物を見学に来る人もけっこういるようだ。日々変化している銀座に、昔と変わらない空間がある、というのが老人にはほっと出来るし、若者には興味を引かれるのだろう。


2009(平成21)年8月21日
大日本図書ビルが取り壊されて奥野ビルの南の側面が見えている。

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左:三原橋地下街北側入口。右:食事処 季節料理 三原。中央区銀座4-8
2013(平成20)年5月19日(1~6枚目とも)

銀座・三原橋地下街と都市の輪郭 ―オーラル・ヒストリーと資料からの考察―(大絵晃世)』によると、東京都が戦災残土の処理のために三十間堀川等の河川を埋め立てることを決定したのは1948(昭和23)年3月末。4月には埋め立て工事が始まり、三十間堀川は1949年に埋め立てが完了した。この時、晴海通りに架かる三原橋は撤去されずに残された。都電が通っていたからという説が有力で、妥当だと思える。GHQが露天整理令を出したのが1949年8月。三十間堀川の跡に銀座館マートなどを建てて露天商の換地としたが、三原橋の下も活用しようとしたのだと思う。三原橋地下街の原型ができたのは1951(昭和26)年。
三原橋は1929(昭和4)年に架け直された3径間鋼桁(連続桁)というタイプの、長さ30.2幅36.0m(中央区内の橋めぐり/旧・三原橋)の震災復興橋。3径間の中央の桁の下を通路に、東側の桁の下に「テアトルニュース」という映画館、西側の桁の下に「三原橋地下街ゲームセンター」というパチンコ屋がまず入ったらしい。
1953(昭和28)年8月に三原橋センター(地上の2棟)が竣工し、1954年には撤退していたパチンコ屋の跡に「銀座東映」が開館する。飲み屋などが開店するのもこの頃のことだろうか。1967(昭和42)年10月、テアトルニュース跡に「銀座地球座」が開館しポルノ映画を上映するようになる。1968年9月には銀座東映は「銀座名画座」と変わり、こちらもポルノ上映館になる。1988(昭和63)年名画座・地球座は「銀座シネパトス1・2・3」の3館体制で一般の映画をかけるようになった。2013年3月3末に閉館。



左:季節料理 三原。右:おでん小料理 一柳。一柳の看板に「味は一流 名は一柳」とあるから店名は「いちりゅう」と読むらしい。一柳の右は「ギフトショップ(大人のおもちゃ)アラジン」。アラジンになる前は立食いそば・うどんの「相模屋」だったらしい。オレンジ色の壁は「牛かつ(ぎゅうかつ、メンチカツ・コロッケ)」、その右は「かごっま料理 おごじょ」。



左:映画館のポスターが並んでいた西側の壁。右:カレーコーナー三原、理容室 遠藤。カレーコーナー三原は1964(昭和39)年の開業という。小さな表札は「三原カレーコーナー」となっている。




左:地球座と名画座の看板。1987(昭和62)年5月24日
上:南側の階段。2000(平成12)年1月18日

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三原橋センター。中央区銀座4-8
2013(平成20)年11月5日

銀座と木挽町の境になっていた三十間堀川は、戦後、戦災残土を放り込んで埋め立てられた。しかし、晴海通りを渡している三原橋は残された。理由はよく分らないようだが、撤去が難しかっただけかもしれない。下の資料では都電が通っていたからかも、とある。
ネットで『銀座・三原橋地下街と都市の輪郭 ―オーラル・ヒストリーと資料からの考察―(大絵晃世)』というレポートが読める。それによると、橋の地下部分は1951(昭和26)年に完成した。一度埋められた橋の下を掘り起こしたのだという。露天商の移転先の問題が発生したからだろうか。1951年12月頃、地下にニュース映画館(昭和30年頃の火保図に「テアトルニュース」と「銀座東映」の記載)ができた。露天商は「銀座間マート」に収容されたという。1953年8月31日に2棟の「三原橋センター」が土浦亀城の設計で完成した。
取り壊しが決まって、2013年頃から店の退去が始まり、2014年4月末で全店が退去、5月には取り壊しが始まった。なにができるという計画はないという。



三原橋センター北棟の裏側。2013(平成25)年5月19日

設計者の土浦亀城(つちうらかめき、1897-1996年)は、ライトの弟子だったが、1935年の土浦亀城邸はモダンデザインの住宅。以後、モダニズム風の作品が多い。三原橋センターも横長の大きい窓などがかっこいいと思って見ていたが、窓は後の改修によるものだった。『 aki's STOCKTAKING>三原橋・銀座/傳八』によると、1987(昭和62)年に「傳八」が開業するとき、Aki氏が店内を設計したが、同時に窓枠も新しくしたという。元の窓は細い壁の間に縦長の4枚のガラスがはまったもの。
南棟のほうは表側の写真を撮っていない。いつ頃からか南棟の2階はパネルで隠されてしまっていて、撮影しようという気にならなかったらしい。パネルの裏には建築時の窓が残っていたのかもしれない。

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今泉ビル。中央区銀座1-14
1988(昭和63)年3月6日

昭和通りの新京橋交差点の一つ南の横丁を西に入ったところ。写真左端の「中村ビル」が昭和通りとの角にある。1986年の住宅地図は左から、中村ビル、今泉ビル、銀座ウイングビル、煉瓦亭、第二サトウビル。
今泉ビルはスクラッチタイル貼りのように見えて、戦前築の建物かと思えるのだが、昭和10年頃の火保図には載っていない。昭和30年頃の火保図では「車庫 今泉ビル 共同石油 新生商事(コ)(四)」とあり、1階の大きな開口部は車庫で、共同石油が入居していたと分る。
現在は中村ビルと今泉ビルが「プレリー銀座ビル」(2003年築、12階建)という賃貸オフィスビルに替わった。
看板が小さく見えるだけの煉瓦亭は、有名な銀座三丁目の店とは別。『バンド・オブ・トーキョー☆>銀座「煉瓦亭IS銀座一丁目店」のナポリタン』によると、「煉瓦亭IS(アイエス) 銀座一丁目店」で、煉瓦亭の暖簾分けを受けた新富町の煉瓦亭アイエスの支店、ということだ。2009年10月27日で閉店した。

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電通銀座ビル。中央区銀座7-4
2008(平成20)年11月5日

今は大分減ってしまったが、銀座にある戦前に建てられたビル。1933(昭和8)年竣工、設計は横川工務所、施工は大林組、RC造8階建地下2階。大震災の復興が一応なった後の建築になるためか、これという特徴のない普通の外観だ。玄関に近寄って吉祥天と広目天のレリーフに気がつけば、あれっ、となるくらいだろうか。1階の壁に(窓なのかもしれない)ガラスブロックが使われているのが珍しい。2階以上の窓はガラスが3枚の横長の形で、シカゴ窓というのだそうだ。真ん中の大きいガラスが固定で、左右の窓は上げ下げ窓。
電通はこのビルを1967年まで本社として使った。このビルを建て替えないのは、会社の出発点として、よりどころのように思っているのだろうか。建て替えてもたいして床面積は増えないと踏んでいるような気もする。

「電通」は電気通信から来ているのかとなんとなく思っていたが、「電報通信社」からだった。1901(明治34)年に光永星郎(みつながほしお)は「日本広告株式会社」という広告代理店を創業し、次いで本当はやりたかった通信社を設立、その2社を1907(明治40)年に合体して「株式会社日本電報通信社」として通信と広告の両方をやるようになったらしい。その頃は通信手段として電報が大きい地位を占めていて、無線通信も電話も軍隊が使うくらいだったのかもしれない。
現在の電通がどういう業務をしているのか、想像しがたい。広告そのものの業務はごく一部ではないかと思う。1936年、「同盟通信社」が出来て電通が広告代理業に専念するようになってから昭和30年代までなら、広告代理業がどういうものか想像が付く。新聞雑誌ラジオの広告を広告主からメディアに仲介するのだろう。今は電通のHPには「顧客と社会の持続的成長に貢献する統合ソリューションを提供」するとしている。なんでもするように聞こえる。

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区立京華小学校。中央区八丁堀3-17。1987(昭和62)年4月29日

鍛冶橋通りと新大橋通りとの交差点が八丁堀駅前交差点。1990(平成2)年に京葉線の八丁堀駅ができる前は本八丁堀交差点といったらしい。その交差点の一つ西側の裏通りが「鈴らん通り」で、戦前は都内でも有数の繁華街だったという。京華小学校は鈴らん通りの入り口の角にあり、現在は「京華スクエア」という施設に転用されて建物は健在だ。
京華小学校は1901(明治34)年に開校し、1993(平成5)年に鉄砲洲小学校と合併して中央小学校となり、校舎は鉄砲洲小学校の校舎を改築して移転した。その間の沿革はネットでは調べられなかった。

『日本近代建築総覧』では「区立京華小学校(旧東京市京華尋常小学校)、建築年=昭和4年、構造=RC3階建て、設計=東京市、施工=銭高組、備考=「東京市教育施設設復興図集」による」。その『東京市教育施設設復興図集』(東京市役所編纂、昭和7年、2円70銭)には、「京橋区元島町二番地」の住所で、起工:昭和3年5月4日、竣工:昭和4年4月20日、請負者・本工事:銭高組、建設費:市費負担=436,906円・区費負担=34,430円、などとある。
外観を他の復興小学校と比べると、これという特徴に乏しい。規模が小さいためデザインに凝るような余裕がなかったのだろうか。





京華スクエア。2011(平成23)年11月7日

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鵜沢家住宅。中央区入船1-5
2017(平成29)年7月15日

新大橋通りの入船一丁目交差点の裏の路地にある、この辺りではごく珍しい専用住宅。『東京都の近代和風建築』(東京都教育庁編集、2009年)によると、昭和元年(1926)頃の建築で、構造は「木造2階建、寄棟造(玄関:入母屋造)、桟瓦葺(庇:銅板葺)」。築地市場の仲買商「虎武商店」の住まいである。玄関脇に洋間の応接室がある他はすべて和室で、1・2階の東南側に広縁が廻っている。欄間や建具に良質の材料を使った細工がなされ、ガラスや照明器具も当初からのものが残っていて、極めて保存状態がよい、という。
中央区>近代建築物調査>鵜澤家住宅』には、「雁行配置された主屋と玄関、塀越しの庭が趣を伝える、入船の専用住宅」という副題で「正面外観と板塀、門、前庭の松が歴史的な街路景観を生み出している。建物を雁行型に配置し、入母屋破風玄関を設けた、近代和風建築の代表例である。組子状の高欄、正面と東面の開放的なガラス窓、引き寄せの垂木など凝った意匠が見られる。」と解説されている。
築地に市場が開場するのに伴い、その近くに、家を建てたのだろう。そのような家が建築当時のままで残っているのはほとんど奇跡である。


小筆印刷。入船1-5。2017(平成29)年7月15日

鵜沢家住宅の隣にある家。看板建築としてよさそうな外観だが玄関が二つあってアパートのようなものかもしれない。軒下の歯状の飾りと、中央上部に小さな洋風のレリーフがあり、関東大震災後に建てられた看板建築のように見える。

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杉田産業。中央区新川2-20。1987(昭和62)年12月20日

鍛冶橋通りが亀島川を渡すのが高橋。写真は高橋から東南の方向を撮ったもので、写真左は橋際の高橋児童公園。杉田産業が『杉田産業株式会社』なら、沿革に「昭和30年|中央区越前掘(現新川)に本社ビルを建築し移転」とあり、そのビルになるかと思う。現在は2005年12月開業した「ドーミーイン東京八丁堀」というホテルが建つ。



亀岡商会倉庫。新川2-29。1987(昭和62)年2月1日

亀島川が隅田川に出る河口からすぐ北の裏手になるところ。写真の倉庫は1棟に見えるが、手前の、塀と接している小さな棟があり、その後ろに同じ形の2棟の倉庫がある。写真右の道路は、現在は中央大橋(1993年8月竣工)への、延長された八重洲通りになっている。
撮影時なら、倉庫の向かい側に「都営越前堀アパート」がまだあったかもしれない。越前堀とは1827(明治5)年から1971(昭和47)年まであった町名。江戸期は松平越前守(越前福井藩)の屋敷で、そこを囲っていた掘割が越前堀である。その南の部分が戦後まで残っていて、河口には栄橋が架かっていた。そこを埋め立てた跡に建てられたのが越前堀アパート。

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