頭がいいということは物事の因果性が判るというか見抜けるということのようです。数学の出来るひとは予め定められた公理や定理を記憶し、それからの演繹や帰納によってこれしかありえないという回答を見出します。
シャーロック・ホームズや明智探偵は、かすかな痕跡を手がかりにそれがそうあることの必然性、あるいは因果性のようなものを突き止め、まるでジグソーパズルを完成させるかのように事件の全体像を明らかにします。
ときとしては、犯人がいつどこへ現れるかの未来予測までやってのけ、よせばいいのにその犯人は探偵の予測したとおりにノコノコと現れ、かくして捕縛されるところとなるのです。
しかしながら、世の中のことや歴史についていえば、どんな頭のいい人にとってもそんなふうにクルリンパッと事態の全体性が明らかになったり、ましてや未来予測などはできないように思います。
株などをやっている人で、自分は科学的な法則を知っていて、必要なデータさえあればちゃんと稼いでみせると豪語する人がいますがそれはウソでしょうね。人びとの思惑によって動くようないわばゲームとしての性格のものは、そこにある種の法則性のようなものを見いだせるとしても、それはあくまでも事後的なものであって、事前にはそれらはただ経験の蓄積となっているだけでしょう。加えて「必要なデータ」という点では、世界中のあらゆる出来事が複雑にこんがらかっている今日ではそれらを揃えることも、そしてそれらのうちどれが「必要な」ものかを確定することも困難だと思います。
エドワード・ローレンツという気象学者が1972年に行った講演のタイトル「ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか」に端を発する「バタフライ効果」という考え方もあるようで、それを力学的に緻密に計算するような研究もあるようですが、そうした計算の能力をまったくもたない私としては、例の「風が吹けば桶屋が儲かる」という論理(?)との区別があまりよくつかないわけです。
蝶が羽ばたけば、もっとでかい鳥類も羽ばたきますし、オスプレイさえ飛ぶ世の中です。
もっとも、冒頭で述べた数学という公理や定理で限定された世界でも、「ゲーデルの不完全性定理」とかいうものがあって、なにやら自己言及を含まずして数学の完全性は定義できないなどといわれると、まったく五里夢中でますますわからないわけです。
まあ、これらからいえることは頑固な原理主義(科学的社会主義者を含む)が思い描くように、世の中はある種の法則によってある一定の方向に進んでいるわけではないということです。
それらは錯綜したものの中から不意に、しかも意外な表情をもって現れます。たとえば夜店のくじ引きを思い出してみましょう(最近パクられた当たりなしの詐欺事件は例外です、というかそれすらありうるということでしょうか)。私のいうのは、いろいろな玩具などに紐が結び付けられていて、それが途中で複雑に絡み合っているため、目の前にもう一方の端があるにもかかわらず、どの紐がどれにつながっているのかがわからなくなっているものです。
それらを目が痛くなるほど見つめ目で追って、思い切ってエイッと引きます。欲しかったのは新幹線のプラモデルだったのに、その紐の先には着せ替え人形のキットがということがあります。結果としては目が痛くなるほど見つめても、目を閉じて引いてもさほど変わらないのです。
私達の未来を、夜店のくじ引きと一緒にしたら叱られるかもしれませんが、そうした予測不可能性は決して今後への絶望を意味するのではなく、むしろ、暗い予兆を伴った時代においては、私たちを励ましてくれさえするのではないでしょうか。
時代の趨勢が暗いままで予測通り進行するとしたら、こんな嫌なことはありません。しかし、白馬の王子は現れないまでも、そんなに予定調和的にことが進むものでもありません。
もちろん、いい意味でも悪い意味でも、私たちの予測は外れ続けるかもしれません。
したがって、具体的になしうることは現実的にちゃんとすべきなのですが、同時に、現れるもの、そして開かれるものを意を決して待つことも必要なのだろうと思います。
歴史は因果性のうちで継起するものではなく、自分自身を不意打ちにする
ジャン=リュック・ナンシー
シャーロック・ホームズや明智探偵は、かすかな痕跡を手がかりにそれがそうあることの必然性、あるいは因果性のようなものを突き止め、まるでジグソーパズルを完成させるかのように事件の全体像を明らかにします。
ときとしては、犯人がいつどこへ現れるかの未来予測までやってのけ、よせばいいのにその犯人は探偵の予測したとおりにノコノコと現れ、かくして捕縛されるところとなるのです。
しかしながら、世の中のことや歴史についていえば、どんな頭のいい人にとってもそんなふうにクルリンパッと事態の全体性が明らかになったり、ましてや未来予測などはできないように思います。
株などをやっている人で、自分は科学的な法則を知っていて、必要なデータさえあればちゃんと稼いでみせると豪語する人がいますがそれはウソでしょうね。人びとの思惑によって動くようないわばゲームとしての性格のものは、そこにある種の法則性のようなものを見いだせるとしても、それはあくまでも事後的なものであって、事前にはそれらはただ経験の蓄積となっているだけでしょう。加えて「必要なデータ」という点では、世界中のあらゆる出来事が複雑にこんがらかっている今日ではそれらを揃えることも、そしてそれらのうちどれが「必要な」ものかを確定することも困難だと思います。
エドワード・ローレンツという気象学者が1972年に行った講演のタイトル「ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか」に端を発する「バタフライ効果」という考え方もあるようで、それを力学的に緻密に計算するような研究もあるようですが、そうした計算の能力をまったくもたない私としては、例の「風が吹けば桶屋が儲かる」という論理(?)との区別があまりよくつかないわけです。
蝶が羽ばたけば、もっとでかい鳥類も羽ばたきますし、オスプレイさえ飛ぶ世の中です。
もっとも、冒頭で述べた数学という公理や定理で限定された世界でも、「ゲーデルの不完全性定理」とかいうものがあって、なにやら自己言及を含まずして数学の完全性は定義できないなどといわれると、まったく五里夢中でますますわからないわけです。
まあ、これらからいえることは頑固な原理主義(科学的社会主義者を含む)が思い描くように、世の中はある種の法則によってある一定の方向に進んでいるわけではないということです。
それらは錯綜したものの中から不意に、しかも意外な表情をもって現れます。たとえば夜店のくじ引きを思い出してみましょう(最近パクられた当たりなしの詐欺事件は例外です、というかそれすらありうるということでしょうか)。私のいうのは、いろいろな玩具などに紐が結び付けられていて、それが途中で複雑に絡み合っているため、目の前にもう一方の端があるにもかかわらず、どの紐がどれにつながっているのかがわからなくなっているものです。
それらを目が痛くなるほど見つめ目で追って、思い切ってエイッと引きます。欲しかったのは新幹線のプラモデルだったのに、その紐の先には着せ替え人形のキットがということがあります。結果としては目が痛くなるほど見つめても、目を閉じて引いてもさほど変わらないのです。
私達の未来を、夜店のくじ引きと一緒にしたら叱られるかもしれませんが、そうした予測不可能性は決して今後への絶望を意味するのではなく、むしろ、暗い予兆を伴った時代においては、私たちを励ましてくれさえするのではないでしょうか。
時代の趨勢が暗いままで予測通り進行するとしたら、こんな嫌なことはありません。しかし、白馬の王子は現れないまでも、そんなに予定調和的にことが進むものでもありません。
もちろん、いい意味でも悪い意味でも、私たちの予測は外れ続けるかもしれません。
したがって、具体的になしうることは現実的にちゃんとすべきなのですが、同時に、現れるもの、そして開かれるものを意を決して待つことも必要なのだろうと思います。
歴史は因果性のうちで継起するものではなく、自分自身を不意打ちにする
ジャン=リュック・ナンシー
大人のみならず私たち子供も
活き活きしていました。
それは〈希望〉といった生半可なものがあったからではなく、
先が見えなかったからではないか、
と思うのですが・・・
どうなんでしょうか?
敗戦まではある進むべき道が、もうそれ以外にないまでに示されていて、そこから逸れることができないかのようだったと思います。
そのタガが外されて、希望や不安をも抱え込んだまま、新しい可能性へと放り出されたということではないでしょうか。
重石がととれた、予定調和的な未来は撤回された、さあ、次は・・・でしょうね。
敗戦の勅語を聞き終えて空を見上げたら青く広がっていたという感想が良くありますが、その折の状況を象徴しているようです。