六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

♪青春時代が夢なんて後からほのぼの思うもの…♪

2013-07-19 22:36:18 | 想い出を掘り起こす
 所用で出かけた先が私が卒業した高校の近くだった。
 用件が予定より早く終わり、車での移動ばかりで今日は歩いていないなと思っていた矢先にそこを通りかかったのだ。
 幸い、車を停めることができたので、少し探検してみた。

 ここを卒業したのが1957年だからもう半世紀以上前になる。それ以来ここへ来たことは数回ほどしかない。一番最近来てからももう10年以上は経っている。

 
 
 卒業して以降、最初に訪れたのはサラリーマンをしている折の求人活動のためだった。そのころはまだ、顔見知りの教師がいて、男子の求人を申し込む私に、「六君、窓の外を見てごらん」といった。おりからの放課後で、校庭は生徒たちの嬌声が渦巻いていたが、私は彼の言わんとするところをすぐ理解した。
 
 そこでは、圧倒的に多数の女子高生の間に、チラホラと男子生徒がいるのみだった。私の在校時には、この学校の男女の比率は、男子7.5に対し女子は2.5ぐらいの割合であった。それが一気に逆転してしまったのだ。
 私の在校時の幣衣破帽のバンカラ時代はとっくに終わっていたのだった。

 さて、それ以来何度目かの訪問であるが、建物などには往年の面影はまったくないものの、思い出だけは結構鮮明に残っている。
 そのほとんどは教師や友人たちとのものだ。
 甘酸っぱい話も一欠片ぐらいはあったが、見事、失恋に終わっている。

 
 
 中学生の時の担任が私に教えてくれたのは、人間に必要なのは、真・善・美だということだった。あとで知ったのだが、この区分はカントのそれだ。
 真=「純粋理性批判」、善=「実践理性批判」、美=「判断力批判」というわけだ。昨年亡くなったこの恩師は、カントの哲学のエキスを私に教えようとしたのだろう。

 「商売人に学問はいらぬ」と渋る父を説得して高校進学を可能にしてくれたのもこの教師のおかげだった。ただし「実業高校なら」という条件付きだったが。
 そうして入ったのが、この高校だった。
 ついでながら、父の言葉は全く正しかった。
 この高校で文章に馴染んだり、ものの考え方なんてどうでもいいものに足をすくわれたおかげでどうしても大学に行きたくなり、ついに家業を継がなかったのだから。
 今となっては、父への忘恩と不孝を詫びるばかりだ。

 

 ここで学んだものはおそらく権威への懐疑、そして反抗とその表現であろう。
 懐疑の対象、反抗の対象はいくらでもあった。
 たとえば校則の厳守を要求する教師、そのもとになっている校則そのもの、そして暴力による「指導」。
 同時に、自分の周辺と世界にあふれる不条理の数々。
 
 校歌斉唱もその対象であった。この学校ではそれを歌わされる機会がとても多かったように思う。最初はともかく、途中からはほとんど口パクであった。
 だいたいにおいてこうしたものは、国歌がそうであるように、所属する組織への帰属意識とそれへの従順の表明だと決めつけていた。

 

 しかし、いっておくがそんなに悪い校歌ではない。
 その証拠に、今でも三番までちゃんと歌える。
 また、甲子園などでこれが流れると、ウルウルとして一緒に口ずさむというようなことは決してないが(そうする人もいる)、それ相応の懐かしさは覚える。

 そうした青臭い反抗心を抱いたままここを巣立った。
 今はほとんどその鮮度をなくしてしまったが、それでもそれは今日の私の姿勢のなかになにがしかの残滓を留めているのかもしれない。
 そうしたさまざまな意味で、ここが私のターニングポイントであったかもしれないとは思う。

 

 しばらく校内を散策したが、なにせ時代が離れすぎていて、いろいろな思い出がどの場所でのものか同定することはとても困難だ。そのうちに、本当にあの時代、私はこの場所で過ごしたのだろうかとすら思えてくるようになった。
 思い出と現実とを擦り合わせようにも、あまりにも遠くへ来てしまったということなのだろう。

 校門を出ようとしたら、二階の辺りからブラスバンドが高らかに校歌を演奏し始めた。もちろん、私のためにではない。


コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする