*写真は下の記事にも書いた会で、先月出かけた妻籠宿でのものです。
私はそれなりにデベソだから、この地域のあるサークルに入っている。
月一度の集まりだが、ある月はどこかへでかけ写真を写しに行き(私にとっては貴重なアウトドア・ライフである)、その翌月にはそこで撮った写真を講師である写真家の先生と、仲間たちでガヤガヤと評価しあうのである。
私のようなリタイア組はともかく、まだまだ現役のひともいてなかなか全員が揃うこともない。春先以来の農繁期には、田植えだから欠席、などといったひとも当然いる。
女性陣は賑やかだ。ドカッと撮ってドカッと持ってくる。しかし、私のよう素人がいっては失礼だが、こうした合評会のせいもあって確実に腕を上げている。
独自の領域をもった人もいて、私とほぼ同年代の人に針穴写真専科という人がいる。原理は、私が子供の頃、少年雑誌の付録にあったような、ブラック・ボックスの一辺にパラフィン紙を貼り、その対称面に針穴を開けるとパラフィン紙に倒立した像が現れるといったもので、それをフィルムに収めるのである。
こういってしまうと簡単だが、そうした撮影装置そのものをコンマ何ミリの精度で仕上げ、撮影も秒数の計算などまさにデジカメの対極ともいうべき手作業といっていい。したがって、その作品にも私たちの視野とはまた違った広がりと深みあって、幻想的で面白い味が出ている。
このメンバーで一番若いのはまだ20代か30代の初めの男性で、彼の写真は光と影を特に意識したものが多く、ときにアブストラクトな作品も見せてくれる。
その彼が昨年末ぐらいに結婚した。私がそれを知ったのは、庶務係のようなことをやっていて彼の住所変更を受け付けたからだった。
わぁ、新婚だというニュースがグループ内に伝わったのだが、当の本人は割合クールで、どことなくそれ以上踏み込ませない雰囲気をもっていた。もちろん、私事に踏み込むような会ではないからそのままになっていた。
それがだ、先週末の会にいきなり彼が可愛い女の子を連れて現れたのだ。
エッ、エッ、エッ、去年の結婚でもうこんな子?
それに対する彼の答えは「ぼく、再婚なんです」とのこと。
概略わかってはいるものの改めて聞いてみた。
「で、この子はどっちの子?」
「先方のです」
さて、この親子であるが、まさにベタベタなのだ。
だいたい、お父さんの趣味の会についてくるくらいだからそうだろう。
普通の親子以上にお父さんと女の子で、見ていてもいじらしくなるくらい仲がいいのだ。
私は訊いた。
「何年生?」
「一年生」
「名前は?」
「〇〇サラ」
〇〇はもちろん連れてきた彼の姓と同じである。
おそらく昨年までは違う姓を名乗っていたのに、今は全く自然に彼の姓を名乗っているのだ。
「サラ」が沙羅であるか佐良であるかその字まではわからない。
この辺りで私はグッと来た。
ここの読者はご存知かもしれないが、私自身、生後、暫くして病死と戦死とで両親を亡くし、養子として育てられた。そのせいか、こうしてなさぬ仲の親子が極めて自然に仲良くしているだけで私には感激なのだ。
私がそれにより生を長らえ今日に至ったように、彼女もまた、この世界にしっかりとした場所を確保してその生を謳歌してほしいものだと思う。
その若いお父さんとそれにすっかり馴染んでいるサラちゃんとの双方に率直に「いいなあ」と思った。
帰り際に、「サラちゃん、さようなら」といったら、キョトキョトとしていたが、やがて微笑んで手を振ってくれた。
どのような新しい命であろうが、それらが世界へとデビューし、そこで成長することは世界へと新しい可能性が到来することだと思っている。それは特定の命のことではない。まさにあらゆる命のことである。
昨日私は、そんな命のひとつ、サラちゃんに出会った。
私はそれなりにデベソだから、この地域のあるサークルに入っている。
月一度の集まりだが、ある月はどこかへでかけ写真を写しに行き(私にとっては貴重なアウトドア・ライフである)、その翌月にはそこで撮った写真を講師である写真家の先生と、仲間たちでガヤガヤと評価しあうのである。
私のようなリタイア組はともかく、まだまだ現役のひともいてなかなか全員が揃うこともない。春先以来の農繁期には、田植えだから欠席、などといったひとも当然いる。
女性陣は賑やかだ。ドカッと撮ってドカッと持ってくる。しかし、私のよう素人がいっては失礼だが、こうした合評会のせいもあって確実に腕を上げている。
独自の領域をもった人もいて、私とほぼ同年代の人に針穴写真専科という人がいる。原理は、私が子供の頃、少年雑誌の付録にあったような、ブラック・ボックスの一辺にパラフィン紙を貼り、その対称面に針穴を開けるとパラフィン紙に倒立した像が現れるといったもので、それをフィルムに収めるのである。
こういってしまうと簡単だが、そうした撮影装置そのものをコンマ何ミリの精度で仕上げ、撮影も秒数の計算などまさにデジカメの対極ともいうべき手作業といっていい。したがって、その作品にも私たちの視野とはまた違った広がりと深みあって、幻想的で面白い味が出ている。
このメンバーで一番若いのはまだ20代か30代の初めの男性で、彼の写真は光と影を特に意識したものが多く、ときにアブストラクトな作品も見せてくれる。
その彼が昨年末ぐらいに結婚した。私がそれを知ったのは、庶務係のようなことをやっていて彼の住所変更を受け付けたからだった。
わぁ、新婚だというニュースがグループ内に伝わったのだが、当の本人は割合クールで、どことなくそれ以上踏み込ませない雰囲気をもっていた。もちろん、私事に踏み込むような会ではないからそのままになっていた。
それがだ、先週末の会にいきなり彼が可愛い女の子を連れて現れたのだ。
エッ、エッ、エッ、去年の結婚でもうこんな子?
それに対する彼の答えは「ぼく、再婚なんです」とのこと。
概略わかってはいるものの改めて聞いてみた。
「で、この子はどっちの子?」
「先方のです」
さて、この親子であるが、まさにベタベタなのだ。
だいたい、お父さんの趣味の会についてくるくらいだからそうだろう。
普通の親子以上にお父さんと女の子で、見ていてもいじらしくなるくらい仲がいいのだ。
私は訊いた。
「何年生?」
「一年生」
「名前は?」
「〇〇サラ」
〇〇はもちろん連れてきた彼の姓と同じである。
おそらく昨年までは違う姓を名乗っていたのに、今は全く自然に彼の姓を名乗っているのだ。
「サラ」が沙羅であるか佐良であるかその字まではわからない。
この辺りで私はグッと来た。
ここの読者はご存知かもしれないが、私自身、生後、暫くして病死と戦死とで両親を亡くし、養子として育てられた。そのせいか、こうしてなさぬ仲の親子が極めて自然に仲良くしているだけで私には感激なのだ。
私がそれにより生を長らえ今日に至ったように、彼女もまた、この世界にしっかりとした場所を確保してその生を謳歌してほしいものだと思う。
その若いお父さんとそれにすっかり馴染んでいるサラちゃんとの双方に率直に「いいなあ」と思った。
帰り際に、「サラちゃん、さようなら」といったら、キョトキョトとしていたが、やがて微笑んで手を振ってくれた。
どのような新しい命であろうが、それらが世界へとデビューし、そこで成長することは世界へと新しい可能性が到来することだと思っている。それは特定の命のことではない。まさにあらゆる命のことである。
昨日私は、そんな命のひとつ、サラちゃんに出会った。
私の友人も針穴写真をやります。アラ還の彼はピンホール写真と呼んでいます。針穴を英語に言い換えただけですね。ふだんはあちこちで普通の写真を教えながら、たまにピンホール写真の個展もやっています。柔らかいけれど深みのある陰影が、リアルというより幻灯のようで独特な味がありますね。
私も、人懐っこいサラちゃんと、サラちゃんにここまで慕われる若い父親の関係にとても安堵しています。
漂着者さんにもいろいろおありになったとのこと、口幅ったい言い方で恐縮ですが、それをも含めて栄養にされ、今日があるのかもしれませんね。
針穴写真について、とくにそれで撮したものの画質などについてのご感想はおっしゃるとおりですね。
私も暇ができたら、もう使っていない35ミリカメラを改造してチャレンジしてみようかなとも考えています。
ありがとうございます。
あのベタベタぶりからすると大丈夫ですね。
さんこさんもいろいろあっておばママのところ来たのですから、これからも応援してやって下さい。