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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

中禅寺湖・赤城大沼・那珂川の魚たちと「金」の話

2013-07-04 02:04:26 | よしなしごと
 「朝日新聞」に連載の「プロメテウスの罠」のなかのさらに小さな区分の連載「釣ったら放せ」(全20回)があり、7月3日に終了した。
 かつて渓流魚と親しんだ者としてはとても悲しい内容であった。
 話は、中禅寺湖に生息するニジマス、ヒメマス、ブラウントラウトなどが規制値100ベクレルの倍から数倍近い放射能汚染を受けているため、いまなお食用にはできないというのである。むろん、あの忌むべきフクシマ第一がしでかした人災の結果である。
 
 渓流魚というのは、上に挙げた外来魚のほか、日本固有のヤマメ(アマゴ)、岩魚なども含めて一般にサケ・マス科の陸封型といわれる。
 かつては彼らも、現在のサケやマスと同様、河川の上流で生まれ、海へと下り、そこで大きくなったものが故郷の河川に戻り産卵するという循環をしていたのだが、おそらく氷河期の終わりに、途中の河川の水温が上昇し、海へと還れなくなったものたちが水温の低い上流部に居ついてしまった、すなわち陸封されたものといわれている。

 しかし、なかにはその一部が降海するものもいて、長良川のアマゴの一部は先祖返りしたかのように伊勢湾に下り、大きくなって遡上してくる。その時期がちょうど5月頃なので「サツキマス」と呼ばれたりする。
 しかし、これも激減している。あの無用の長物、長良川河口堰のせいだ。
 ついでながらこの河口堰は、かつてはこの周辺で豊富に獲れたヤマトシジミをほぼ全滅させた。

 話が逸れた。陸封型のサケ・マスに戻ろう。
 その他にも、琵琶湖には琵琶湖を海に見立てたようなビワマスがいるし、福井県の九頭竜川にできた九頭竜湖では、そこを海に見立てたのか57センチの鼻曲がりのアマゴが獲れたことがある。また、奥只見川ではやはりダム湖を海に見立てたのか、なんと75センチのイワナが獲れたこともある。

 もうひとつ書き足せば、淡水魚は特有の匂いがあるとして嫌われる向きもあるが、上に述べた魚たちはもともと淡水魚ではないせいかそうした匂いはない。ついでながらアユもマスなどとは違い、河口で生まれて遡上するもののやはりサケやマスの仲間である。
 これら魚類の簡単な見分け方は、背びれと尾びれの間に、アブラビレといってほとんど退化して今ではなんの用をなすのかがよくわからない小さなヒレがあることだ。

                              恥ずかしながら40年ぐらい前、自分が釣った魚のスケッチ

 さて、最初に戻ろう。中禅寺湖はそうした陸封型マス釣りのメッカであり、それを目当てのヴィジターが多い。また、これらサケ・マス科の魚はとても美味しいのでそれを目当てに釣果を楽しむ向きも多い。
 しかし、それらが放射能に侵されてしまっていて食することができないというのだ。
 漁協や周辺での対応は深刻である。釣り人が激減し、漁協の入漁料収入が落ち込むとともに、周辺の宿泊施設も大打撃を受けた。訪れるひとは盛況時の二割か三割だという。
 
 それにもかかわらず、漁協には新たな義務が課されたというのだ。
 それは、そうした状況を承知の上で来てくれた釣り人を監視し、釣り上げた魚を持って帰らせないようにする仕事だ。ひどい時には、釣り人一人に監視が一人つくという状況だったという。

 釣った魚を放すというのは「キャッチ・アンド・リリース」といって、食用ではなくスポーツ・フィッシングなどで行われたり、あるいは資源保護のため規定より小さな個体は放してやることである。
 私が渓流に入っていた頃の目安では、ほぼ手のひら大(十数センチ以下)は「来年またおいで」といってリリースしていた。

 なお、このキャッチ・アンド・リリースであるが、逆にこれを禁止しているところもある。それは例えば琵琶湖などで、ここでは釣り上げた外来種のブラックバスやブルーギルについて、漁協が「釣った魚はお持ち帰り下さい」という要請を看板などでしきりにしている。
 なぜそんなことをするのかというと、これらの魚が琵琶湖の貴重な資源である稚鮎をはじめ淡水産のエビなど小魚を食い尽くしてしまうからである。
 にもかかわらず、釣り上げたものを放し、もっと大きくなってから釣り上げようという不心得者がいるから困ったものだ。

 中禅寺湖に戻ろう。すでに見たようにここはサケ・マスの仲間の、しかもその環境のせいで大型のものが釣れるメッカなのだが、彼らはこの湖においては生態系の頂点にある。それだけに放射線量は食物連鎖で凝縮されて体内に蓄積されることにより最も大きくなる。
 時間とともに減少すればという願いも虚しく、今年の6月末での測定でもなお、数百ベクレルの値を示しているという。

 問題は中禅寺湖のみではない。
 関東地区では唯一結氷した上で穴釣りができる赤城大沼のワカサギも今なお食用にはならないという。
 また、鮎漁の名所、栃木県の那珂川でも、鮎の線量は基準値を越えたという。ただし、鮎の場合には年魚と言われて一年ごとに個体が変わり、しかも川での移動が激しいため、その値はやっと落ちてきたらしい。 
 ただし、同じ那珂川でも、あまり移動をしないウグイでは今なお放射線量はさほど下がらないという。

 フクシマで被災した人たちは今なお大変だが、それに伴い、多くの家畜やペットが汚染地区に放置され死に至っている。立ち入りできないため、鎖に繋がれたままの犬などが餓死したという痛ましい話もザラだ。
 そして、そこからかなり離れた中禅寺湖や関東の湖沼、河川などでも、いまなお汚染が収まってはいないのが実状なのだ。
 水を掛けるだけの「除染」ならぬ「移染」ではどうにも解決はしないのだ。
 
 その折から、多くの原発が再稼働の動きを見せ、さらにこの国の総理大臣は重化学工業のセールスマンよろしく、原発の諸外国への売り込みに奔走している。
 何のためか。すべて「金」のためである。「金」は必要かもしれない。しかし、「金、金」と恥ずかしげもなく喚きたてる行為は醜い。ましてや国のトップがまずは「金」だと臆面もなく言い立てるなんて、この国はいつからこんなに品格のない国になったのだろうか。もちろん、なんとかミクスもつまるところ「金」の話である。

         

 「釣ったら放せ」が終わった同じ日の「朝日」にはコラムニストの天野祐吉氏が、添田唖蝉坊(1872~1944 明治・大正を通じて活躍した演歌師。「のんき節」「ラッパ節」など作品多数。幸徳秋水や堺利彦とも親交があったという)が1925年頃に作ったという「金々節」を紹介していた。
 それの一部を転載しておこう。

    金だ金々 金々金だ
    金だ金々 この世は金だ
    金だ金だよ 誰が何と言おうと
    金だ金だよ 黄金万能

    金だ力だ 力だ金だ
    金だ金々 その金欲しや
    欲しや欲しやの 顔色目色
    みやれ血眼 くまたか眼色

    一も二も金 三・四も金だ
    金だ金々 金々金だ
    金だ明けても 暮れても金だ
    夜の夜中の 夢にも金だ
             (以下略)

 共同体の成員がその未来をどう開いてゆくのかを論じ合うのが政治だというのはもはや空論となってしまった。まずは「金だ金々 金々金だ」なのであり、それがまた共同体成員間の格差の拡大などを増進する悲劇の循環を生み出しているのが現状なのだ。
 そして、その「金」の原則によって動くことこそが「政治」だという人たちがこの国の政治を牛耳っている。


   

 

コメント (9)
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