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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

所得が伸びた時期とそれが食いつぶしてきたもの・完

2013-07-27 00:30:20 | 想い出を掘り起こす
          
 
 <承前>前回は60年代の高度成長期の模様を、私の給与を例に取りながら見て来ました。
 今のような格差のない、ほぼ万遍ない所得の上昇、そして失業者が少ない就職難とは逆の求人難の時代、一見、けっこう毛だらけ猫灰だらけの時代にあって、長期的に見たら私たちはとんでもないものを食いつぶし、かつ生み出してきたのでした。
 今回はそれについて述べましょう。
 
ひとつは農山村の疲弊と過疎化です。
 それ以前、農山村はそれなりにひとつの経済単位として自立していました。
 しかし、高度成長の波は農山村を貨幣経済の荒波に晒し、その労働力を都会へと奪い去り、あっという間に山村の集落を過疎化し、もはや生活不能な地区にしてしまいました。
 
 1970年代は、日本経済発展の頂点を極めたといわれていますが、その影で多くの村落がもはや存続不可能として離村を宣言し、村ごとなくなるという事態が起きました。私が先月訪れた長野県の大平村が集団離村決議をしたのは1975(昭和50)年でした。
 私はその頃、渓流釣りに凝って、あちこちの谷川沿いに歩いていますが、そうした廃村跡を無数に目にしています。

 こうした現象をまざまざと思い起こさせたのが一昨年に訪れた中国山西省の山村です。あとで調べたら、ここにとどまらず、内陸部の農山村から都市部への人口流出は膨大な数で、残されたのは老人と子どもたちだけという典型的な過疎化がドンドン進行しつつあるようです。
 
もうひとつは環境破壊でした。水俣、四日市、川崎、神通川などなどで、人の命にまで及ぶ環境破壊が蔓延し、河川、海洋、そして大気の汚染は留まるところを知りませんでした。
 サラリーマン時代、私はよく四日市へ行ったのですが、名古屋を出て桑名を過ぎた辺りでもう空気は異様な臭気を漂わせていました。
 そのあまりのひどさと、実際に人命に関わる被害が続出するなかで、さすがに各種の規制や改善が実施されましたが、その余燼は今もなおくすぶり続けています。

さらには、エネルギー政策の転換に伴う問題がありました。
 1960年の三井三池の大争議で炭労を片付けた後、石油への転換がまっしぐらに行われました。それが、先に見た四日市や川崎の石油コンビナートによる公害の拡散に繋がって行ったことはいうまでもありません。
 
 そればかりではありません。石油を外国に頼らざるを得ない事態から脱却すべく、63年に東海村に原子力発電所ができて以降、74年には原発を作るごとに交付金が支給される「電源三法」が成立し、この狭い国土に50基を越える原発が設置されるという恐ろしい事態もこの期間に端を発しているのです。そしてそれがフクシマの大惨事につながったことはあらためていうまでもないでしょう。


 こうして一見、結構尽くめに見えた高度成長期は、同時に日本列島に回復不能な深い爪痕を残しました。
 農山村の経済的な破壊とその抹消、自然に刻み込まれた鉄とコンクリートの侵略は、もはや半世紀前の日本の姿を遠い記憶の中へと追いやってしまいました。それに代わって現れたもっともグロテスクなものたちの象徴が、本来は風光明媚であった箇所に設置されたあの禍々しい原発群です。

 これらに加えて、眼に見えない共同体のあり方やそこでの人びとのありよう、人の心の重心や矜持のありようの変化といったものにも触れるべきかもしれませんね。
 
 現代は山林の中の地下茎(リゾーム)のようにすべてが複雑な関連で絡まり合っている時代です。
 そこからあたかも都合のいい部分のみを切り取ることができるかのように叫ばれているのがアベノミクスと呼ばれる経済政策でしょう。この格差社会のなか、あるいは私のような老人が多いなか、収入は増えないのに負担のみが増加する事態はすでに始まりつつあるようです。


コメント (9)
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