ベンヤミンは収集と引用の大家であったという。
後年、そうした引用ばかりによるシュールなモンタージュで本を構成したいと思っていたようだが果たせなかった。
ベンヤミンが持ち歩いていた黒いカバーの小さなノートには、そのために収集したさまざまな引用文が記入されていたらしい。たとえば、18世紀の無名の恋愛詩の次には1939年のウィーンからの報道が書き込まれていたという。それによればこうだ。
「ガス会社は、ユダヤ人へのガスの供給を停止した。ユダヤ人のガス消費はガス会社に損失を与えている。最大の消費者の中にガス代を払わないものがいるからだ。ユダヤ人はとくに自殺をするためにガスを使用しているのである」
このいい方と理由付けは、ユダヤ人を徹底して追い詰めている閉塞した時代であっただけにある種のブラックジョークめいたものとして聞こえる。
そして、こうしたものいいが、あるいはこれと類似した要求(「在日の特権を許すな!」)が、現在この国で行われている日の丸の旗を先頭とした野蛮な「殺せ!」デモと軌を一にしていることを感じてしまうのはまったく自然なことだろう。心なしかそれらの罵声は、安倍政権成立後は一層勢いをましたようにも思える。おそらくそれらは、政権の中にある同質の体臭を嗅ぎつけ、その先鞭をつけているつもりなのかもしれない。
話をもとに戻そう。
大切なことは、上のブラックジョークめいた言い分が、それをはるかに凌ぐさらに大きな、そしてもはやブラックジョークともいえないような出来事として帰結したということだ。それがすでに70年前の出来事だとしてもまったくもって悲憤やる方ないものがある。
ようするに、ユダヤ人から取り上げられたガスは、より濃縮化されて彼らの最期に供給されたのだった。
自身ユダヤ人であったベンヤミンが、その黒いカバーのノートにそれを書き付けたのはまさにそれを予知していたかのようにすら思われる。
ベンヤミンはといえば、すでにナチの手に落ちたフランスからスペイン経由でアメリカに亡命を企てたのだが、スペインへの入国を拒否され、ピレネー山中で自死したといわれる。
彼はその黒い小さなノートに、世界の諸相を、それを並べるだけで何かが見えてくるエピソードを、死ぬまで書き付け続けたのだった。
アウシュビッツ、ヒロシマで頂点に達したかのような野蛮な時代は決してまだ終わったわけではない。フクシマもまた、21世紀に生き延びた野蛮の一つの象徴である。
それらの文章を書いたことと、ピレネー山中での自殺との間にはなにがあったのだろうと、考えています。
戦中の京都で反ファシズム運動を展開した「土曜日」を支えていた一人にベンヤミンがいた、
という話を聞いたのは、新村猛さんからで1950年の63年前のことでした。
それから60年を経た3年前、
「ちきゅう座」というグループから、
「いまなぜベンヤミンか」
という講演の呼びかけビラを受け思ったのは、
時代は1930年代に似てきた、ということなのか?! ということでした。
「フラヌール」は『パサージュ論』のなかの「遊歩者」という概念ですね。定住者に対する遊牧民、留まるものに対する逃亡者、などと似ていながら微妙に違うようです。もっと対象に寄り添いながら見るという眼差し、しかしながら、都市の機構に取り込まれず、あくまでもよそ者の眼差しを保ち続ける・・・。
それらとその死は直接には関係ないように思います。ただ、世事に疎く大変不器用だったようで、亡命についても周りが急かせたのに従っていれば悲劇は避けられたのにという話があります。
それから、煩雑になるので書きませんでしたが、自死ではなく謀略による暗殺説も根強くあるようで、それをもとにした映画もあるようです。
ベンヤミンが直接日本にどうか変わったのかは調べてみてもわかりませんでしたが、ユダヤ系ドイツ人である彼が1933年にパリへ亡命した折、付き合いだしたのが「コレージュ・ド・ソシオロギー(社会学研究)」のメンバー、バタイユ、カイヨワ、コジェーヴらであり、彼らは後にフランス人民戦線へと参加し、その人民戦線の機関誌が「金曜日」でした。
日本の「土曜日」はそれをお手本として発刊されたわけですから、まわりまわって影響があったのか、あるいはベンヤミンの書いたものの翻訳などが載ったのかもしれません。
ベンヤミンの今日性は、おっしゃるように情勢の問題もありますが、彼の立ち位置が公認のマルクス主義(科学的社会主義)とは異なり、言語論的転回をも含んだより広い視野をもった抵抗の姿勢を内在しているからではないかと思われます。
「どんな真理も言葉の中にその本拠その祖先の館をもつ。科学が言語の符号的性格という確信に満足している限り、科学の用語の中では無責任な恣意しか生み出されない」