六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

一枚、二枚、三枚、四枚・・・&沖縄

2009-06-18 04:28:30 | よしなしごと
 まるで番町皿屋敷のようなタイトルですが、何がいいたいかというとカミソリのことなのです。しかもこの話は沖縄からはじめねばなりません。
 単純な話が下手なストーリーテラーの手にかかると、回りっくどくてしかたがないという見本のようですね。

 私が学生の頃、まだ沖縄は日本ではありませんでした。
 1945(昭和20)年の敗戦以来、沖縄はアメリカの支配下に置かれ、その後、1952年に琉球政府が発足するのですが、それは形のみで、アメリカの支配は継続していました。

 私の知り合いにA君という沖縄からの「留学生」がいました。日本ではない国から来ていましたから留学で、ちゃんとパスポートをもっていました。
 当時、日本では、自民党から共産党まで、口を揃えて沖縄即時返還をアメリカに求めていました。

 ただし、A君やその仲間たちは日本への返還というより、沖縄(琉球)の独立を求めていました。もともと独立した王国だったのですが、1879年の琉球処分により、琉球王国が滅亡して沖縄県が設置されたという経緯があるからです。
 しかも、その日本支配のもと、すぐる戦争では唯一の地上戦が展開され、軍の楯にされた多くの島民が命を亡くしたばかりか、軍の撤退に際しては機密漏洩の防止のため島民に自決を強要したような事件もあり、そんな日本に復帰などしたくないという人たちが少なからずいたのです。

  
               レザー剃刀の軽便型

 もちろん、米軍の支配の継続を望んだわけではありません。また、蒋介石の台湾や、毛沢東の中国への隷属を選んだわけでもありません。彼らは敢然と琉球の独立を主張したのです。
 A君の熱意にほだされて、ビラ作りを手伝い、それを撒いたことがあります。なぜ私たちがやったかというと、もし、A君がそれに関わっていることが発覚した場合、彼は直ちに「国外退去」の処分を被ったからです。

 沖縄のアメリカ支配はその後も続き、私はとある会社へ就職しました(日本に編入されたのは、その会社を辞めて居酒屋を始めた1972年でした)。
 その会社は、沖縄へ繊維機械を「輸出」していて、あるとき、そのメンテナンスのために先輩社員が出かけることになりました。「海外出張」です。
 壮行会が催され、私たちが負担した餞別が渡されました。

 その先輩社員は律儀な人でしたから、土産を買ってきてくれました。「舶来品」ですよ。私には、Schickインジェクターの替え刃用カートリッジ付きの片刃の安全カミソリでした。
(どうです、やっとカミソリの話になったでしょう・・・自慢することはない!)

 どうして片刃の安全カミソリを強調するかというと、ここでカミソリの歴史というか、私のひげそりの歴史を語らねばなりません。

 私が髭を剃り始めた頃、一般的だったのはいわゆるレザーカミソリで、それは、今でも伝統的な床屋が用いる二つ折りの鞘付きのものをもっと簡単にしたものでした。
 床屋で頭や顔をいじくり回されるのは嫌いですが、このカミソリを皮の板で「タッ、タッ、タッ」と研ぐ軽快な音は好きでした。


  
            現在使用中の使い捨てT 型剃刀

 それに対して、安全カミソリというものがありましたが、これは最初は両刃で、ホルダーの上部がねじ式で開閉したりしてそこに両方に刃がついた幅の広い刃を取り付けるものでした。ようするに、現在のT字型のカミソリを背中合わせにくっつけたような形状でした。

 それに対して私がもらったのは片刃のいわばT字型のそれで、しかもカートリッジによって刃の交換が効くものでした。当時としてはとてもハイカラで実用性も高いものでした。私はこれをとても気に入って、刃がなくなればカートリッジを購入し、本体(ホルダー)の方はなんと30年にわたって使い続けたのでした。

 しかしやがて、TVのコマーシャルなどで二枚刃とか三枚刃とかが宣伝されるようになりました。私にはそれが理解できませんでしたし今も理解していません。なぜそんなに仰々しく刃を並べて髭を剃らねばならないのでしょうか。
 それはその方がよく剃れるかも知れません。しかし、親の敵ほどに髭を憎悪してそこまでやっつける必要があるのでしょうか。

 私にはそれは、潔癖性の強迫神経症への誘導としか思えません。
 TVが何をがなり立てようが、それに人々が乗ろうがわたしにはそれはどうでも良いことでした。しかしです、しかしあるとき、その潔癖性強迫神経症が大勢を占めたのか、その被害が私にも及びはじめたのです。


  
                新旧のクロス

 例によって替え刃のカートリッジを買いに行きました。
 「Schickのカートリッジを下さい」
 「何枚刃用でしょうか」
 「一枚用ですが」
 そのとき私は、その若い売り子の表情を見逃しませんでした。そこには、近代合理主義者が古い呪術的世界に住むものを見下す驚愕と憐憫の情があふれていました。
 「二枚刃用以上のものしかもうありませんが・・」
 
 呆然とした私は、またしても売り場を彷徨いました。
 そしてその結果、私は奇跡の発見をしたのでした。というのは、フェザーのカートリッジがほぼSchickに似ていることに気づいたのです。ものは試しと購入しました。私の勘はドンピシャリで、しばらくはSchickのホルダーにフェザーのカートリッジという組み合わせで使用することが出来ました。

 しかし、それもつかの間でした。フェザーのそれも店頭から消える日が来たのです。店員さん曰く、いまやカートリッジもホルダーも二枚刃、三枚刃、四枚刃の時代だというのです。

 私にはよく分かりません。一枚刃でも、よほど濃い人でない限り一日はもちます。よしんば、アフター・ファイブに青いそり跡がかすかに浮かんだとしてもそれは働く男の魅力のうちではないでしょうか。
 一年中つるつるした顔の潔癖強迫神経症はどこか気味が悪いのです。ひょっとして、マッチョなマザコンだったりしないかなどと思ってしまうのです。

  
            なんやらゴチャゴチャと

 ところで、困った私のとった手段は、T字型の使い捨てを使うことでした。さいわい、以前使っていたSchickのそれを見つけることが出来ました。もちろん一枚刃ですが、使い捨てといっても一度や二度では切れ味は衰えません。けっこう何度も使えます。しかも価格は、半ダースで数百円なのです。
 私にはこれで充分なのです。

 もしあなたの横で、横顔にかすかに浮かぶ翳りのような髭のそり跡を浮かべた男が、バーテンダー相手に、
 「ヤー、ジミー。相変わらず競馬場に馬の餌を寄付しにいってるかい。
 ところで、とびっきりのマルガリータを一杯くれないか」
 などといっていたら、それは私です。






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枇杷の実が熟す頃・・

2009-06-16 02:02:22 | よしなしごと
 梅雨に入ったとか入らないとかいうたびに枇杷を思います。
 というのは我が家に枇杷の木が一本あって、世間が梅雨がどうこうという時期に実るからです。
 「沖縄地方が梅雨に入った」などと報じられると枇杷を見上げます。
 「ふーむ、まだだな」などと思うまもなく、東海地方もうんぬんという頃には実が熟します。

 もとはといえば、当時はそうではなかったのですが、今は行きつけの歯科医の屋敷に生えていたものです。その木を持ってきたわけではありませんよ。そこにはでっかい枇杷の木があって、その前年の実がこぼれて発芽したのでしょうか、10センチぐらいの枇杷の苗木が路傍にありました。そのままにしておいたら雑草共々に抜かれていたと思います。それを持って帰って我が家に植えました。二十数年前でしょうか。

 それが今や親をしのぐような大木となって(その歯科医へは今は行きつけですから、親にもよく会うのです)茂っています。どういう訳か、親は横に広がっているのに、我が家のそれは真っ直ぐに高く高く伸びているのです。
 これは、素直に真っ直ぐ伸びるという私の気質にならったものであることは容易に想像できるのですが、問題は高いところの実が採りにくいということです。

      

 今年も、東海地方も梅雨入りという頃から果実の色が緑から黄色、そして橙色へと深みを増し、食べ頃になりました。
 スーパーなどでも栽培種が売り場に出ています。それに比べると大きさも果実の色合いも劣るのでしょうが、味は遜色ありません。特に、木にある間に完熟したものは甘くなおかつ特有の香りと味わいを口中に残します。

 今年は、桜ん坊がやや不作だったのですが、枇杷はどうやら豊作です。
 第一回の収穫をしました。私の背が届く限りの実です。
 それでも随分採れました。
 きれいに洗って、娘が勤める学童保育のおやつに持たせました。

 採りきれない実が上の方に残ります。前には木に登ったりして採ったのですが、今はもう無理はしません。
 それらは鳥たちに任せます。ヒヨドリ、ムクドリ、ハトやカラスも来ます。
 朝方は彼らのお喋りがかしましく聞こえます。

 欲張って上の方まで採らなくとも、下の方だけでもあと、2、3回は採れそうです。
 その頃には学童の子らにも飽きが来るでしょう。

  

 私が疎開した母の実家は農家で、柿や無花果、栗などはありましたが、枇杷はありませんでした。
 枇杷をはじめて食べたのは1944(昭和19)年、母と一緒に行った淡路島の母の実兄のところででした。
 神戸の港からの舟でしたが、空襲警報か警戒警報が出てなかなか舟が出ませんでした。やっとでた小舟で、生まれて初めて船酔いというものを経験しました。そんな苦痛のあとの枇杷の実でした。

 ですから枇杷は、敗戦前夜の食い物が何もない頃に、私が口にした甘露として強烈に記憶に刻まれた果物です。
 でも今さら、そんなことを子供たちにいっても分かってはくれないでしょうね。
 ですから、それはともかくとして、出来うる限り、学童保育の子供たちにこの実を届けてやりたいと思うのです。
 

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パワー・ストーン 石と私たちの願い

2009-06-14 05:29:17 | よしなしごと
 私にはひとりの姪がいます。私の妹の娘です。
 
 この姪とは仲がいいと思っています。むこうにとっては年老いた叔父をいたわってくれているだけかも知れませんが、私はこの姪に感謝しています。
 それは彼女が、私の母がまだ入院する前にも、その介護に積極的に関与してくれたのと、入院後も見舞いなどを厭わずしてくれるからです。
 若いのによくやってくれます。あ、もうそれほど若くはないか・・(この一言が余分じゃ)。

  

 その姪が、なにやら石についてこだわっているのをしばらく前にききました。
 私もいっとき、いわゆる自然石に魅力を感じ、それらを撮った写真を「石の微笑」と名付けて密かにアルバムをこしらえたことがありますが、どうもそれとは違うようです。
 様々な天然石を用いて装身具などの小物を作るのですが、ただ、マテリアルとしてのそれにとどまらず、それらの石が本来持っているといわれる力の組み合わせにより、それを身につける人の願いを実現しようとするものらしいのです。こうしたムーブメントを和製英語で「パワー・ストーン」というようです。ちょっと、風水に似ていますね。

  

 それを勉強するために、あちこちへ行っていると聞きました。そしてついに、アメリカにまで石の買い付けに行くと聞いて、病膏肓に入ったなと思いました。
 果たせるかな彼女はついに、それらの石を組み合わせ、クライアントの「望み」にかなったものを作製し頒布するに至りました。これまでにも、口コミでけっこう受注があったようですが、この度、ネット上のホームページで改めてデビューすることになったようなのです。

  
           私のために作ってくれたストラップ

 それを祝って、私も携帯のストラップを注文いたしました。
 でも、「では作りましょう」とはいいません。
 「おじさんの願いはなんですか?」と訊かれます。しかもその願いは、呪詛やネガティヴなものではなく、ポジティヴなものにしろと言います。
 で、私は、ただ健康であるのみではなく、能う限り他者と触れ合い、それに感化されるものであり続けたいといいました。

  
            こんな可愛いパッケージで・・
 
 それでやっと「口頭諮問」が終了し、その願いを込めた石の組み合わせを受け取ることが出来ました。身につけるものと言うことで、私の場合は携帯のストラップを選びました。
 私の年齢に合わせてくれたのか、とびきり目立つ石はなく、全体にシックで、満足しています。
 こんな小物でも、8ミリが一個、6ミリが三個、4ミリが四個と、それぞれ違った八個の石で構成されています。

 人の願いが、石で表象されるというのは、もちろん、幾分オカルティックなものを含みます。
 ただし、人が石に託してきた思いは古く普遍的です。
 古代よりの巨石信仰は、オーストラリアのエアーズロックが原住民アボリジニとって聖地であったように、また古代大和に残る巨石の遺跡が示すごとく、あるいは、イギリスをはじめ北欧諸国に残るストーン・サークルが古代人の祈りの場であったように、世界中にくまなく普遍的です。
 ドイツの哲学者が言う、人間の想像力を越えた存在を崇高さとしてあがめる意識に共通するのかも知れません。

  
           使用上のマニュアルが付いています

 パワー・ストーンはこうした巨石に比べればむろん規模を異にします。
 しかし、こちらも、本朝で勾玉が珍重されたように、また、西洋でも王の印が宝石に飾られた王冠授受(戴冠式)であったように、あるいはまた、今日でも宝石がその人の誕生石として意味付与されるように、石への思いやそのの痕跡は明らかなようです。

 なぜでしょうね。確かに石は美しいのですが、その段で行けば、動物も植物も美しいわけです。
 それを分かつものがあるとしたら、動植物に比べて、鉱物はより恒常性をもつと言うことではないでしょうか。
 確かに、その鉱物がもつ耐性を越えた物理的、化学的攻撃があったとき、さしもの鉱物もそれに屈します。しかし、それらの鉱物のもつ恒常性は、人の無常観をも越えて存続し続ける可能性をもちます。
 確かにすべてのものは有限ですが、人のもつたかだか百年の生命、しかもその中でも変転著しい人生に比して、石はなんというストイックなことでしょう。
 人はその願いを、より確かなものに託します。
 星に願いをの星は、また鉱物の塊に過ぎません。

  
   マニュアルに即したイニシェーションのあと早速携帯に取り付けました

 この対比にこそ、人が石に惹かれる要因があるのではないでしょうか。
 石は、地球の生誕や変転とともに生まれたものです。
 従って、石への憧憬は、あと四五億年の寿命をもつという地球と、あと何年かの猶予しかない私を繋ぐ原始からの因縁の表象であるのかも知れません。
 
 いずれにしても、私のために、そして私の願いのために、これを作ってくれた姪に感謝しつつ、これらの石を大切にしたいと思います。

 姪のホームページを以下に記します。
 興味のある方は覗いてみてください。

   http://www.garbo-deco.com

 

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「泰山木」と「河骨」の話

2009-06-13 03:52:04 | 花便り&花をめぐって
 植物というものは、強烈な色彩や香りをもつもの以外は積極的にこちらへ働きかけたりは余りしませんから、こちらが関心を払わない限り、そこにあっても見過ごしてしまう場合が多いようです。
 それだけに逆に、改めて出会うと、「え、こんなものがここにあったの!」と変に感動したりします。
 今日はそれらの二題。

  

 最初は、タイサンボク(泰山木あるいは大山木)の花です。
 いやあ、鼻がでかい・・おっと、シラノ・ド・ベルジュラックじゃないんだから花の方でした。直径20センチ以上あろうかというハスの花ほどのでかいのが木に咲いているのです。
 
 このタイサンボク、もともとはアメリカ大陸から渡来したモクレンの仲間だそうです。この花の大きさは、若い頃見たアメ車のでっかさに通じるものがあります。
 日本へやって来て130年ほどというこの植物、花の大きさのみならずその樹高も大したもので、20メートル越えるものがざらだそうです。
 花の形状は、モクレンというよりハナミズキの花を十倍ぐらいにしたようだと思いました。

  
        白いものが見える三本の樹がタイサンボクです

 この撮影は養老公園でしたものです。
 ここへは何度も来ているはずなのですが、前に来たときには気づきませんでした。きっと季節が違ったのか、あるいは私がぼんやりしていたからでしょう。

  
              移動中にあった麦畑

 続いては、関ヶ原にあるスイレンとコウホネの咲く池です。
 スイレンはモネ君の家でよく見ましたが(嘘です)、コウホネという花はそれと注意して見たのは初めてです。
 やはりスイレンの仲間ですが、葉がスイレンより細長いのと、花の茎が突き出ていて花の色は黄色一色のようです。

  
               これはスイレン

 ところで、このコウホネ、漢字では河骨(あるいは川骨)と表記するのですが、調べたところ、根茎が骨に似ているからとのことです。しかしながらその根茎は池の底、そこまでは見えませんでした(ここんとこ洒落です・・わざわざことわるな)。

  
               コウホネの群落

 ところでこの池、その上に架橋があって、東海道新幹線が走っているのです。
 それがまた、上下線で5分と経たないような間隔でビュンビュン通り過ぎます。改めてそのダイアの過密ぶりを実感しました。
 この線をよく利用される方、岐阜羽島と米原の間に、この池の上を通る箇所がありますので注意してみて下さい。ただし、東京に向かって右手(大阪に向かって左手・・当たり前の補足)はある程度広いのですが、その逆は狭いので見過ごしてしまうかも知れません。

  
               これがコウホネ
 
 いずれにしても、乗客からは、池の上を渡っているというより、池の傍らを走っているように見えるのではないでしょうか。
 ましてやあのスピードで、スイレンやコウホネの花がご覧になれる方は、よほど動体視力のいい方です。大リーグ入りをお進めします。

  
       スイレンとコウホネの池の上を疾走する新幹線

 私が見た新しい花たち、花好きの方だったら当たりまえだのクラッカーでしょうね。
 でも、冒頭に述べたように、対象が静かな場合にはこちらに見ようとする意志がない場合にはあっても見えない場合があります。
 残された余り長くない命、どん欲に出来うる限りのものを目に灼き付けながら生きて行きたいものと思います。

 え?もう目が霞んでいるって?
 ほっとけ!その場合は心眼で見るんじゃ。
 


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梅雨入りの「川柳もどき」

2009-06-12 00:39:19 | ポエムのようなもの
 日本全国が梅雨入りだそうです。
 ただし、北海道と小笠原諸島を除いてです。
 どうも、梅雨の中心は私のようです。
 涙雨ではありません。
 乾いていて、濡れそうにないのに、ずっしりくる雨です。
 きらいです。


  

食い物たちは・・
 
 海老フライ衣は厚くリアリズム
 団欒に飼い慣らされた手巻き寿司
 突つかれた穴が恨みの明太子
 たこ焼きのたこの確かさ明日は晴れ
 月天心 焼き鳥の串降るごとく

生き物たちは・・
 
 蝸牛 堅牢な家などはない
 突如鳴く 蛙おまえも怯えたか
 かるがもの仔が減って行く一羽ずつ 

  

軽~い思想 
 
 なまくらな言葉で刺されても痛い
 アカペラの悲劇喜劇は千鳥足
 呟きで済ます怠惰なフィロソフィア
 哲学はさておき今日のかけうどん

あるいは別れの歌 
 
 錠前の音が背後で捻れてる
 さよならの語尾が残した薔薇の棘
 花吹雪 昭和を生きた友が逝く

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歴史は二度繰り返す。どちらも喜劇として・・。

2009-06-11 00:59:34 | 社会評論
 標題ですが、本当は、「歴史は繰り返す。一度は悲劇として、二度目は喜劇として・・」で、歴史の教訓を学ばない愚かさを指摘したものなのですが、ここに挙げるのは、どちらも喜劇としかいいようのない事実なのです。

 ことは私が6月7日付で掲載した「川のカクテル?」
 http://pub.ne.jp/rokumon/?entry_id=2206748
 という記事に関連するのですが、6月9日付の「朝日」の夕刊を見て驚きました。

 
        徳山村をすっぽり飲み込んだ無為な水たまり
 
 私が先に述べた、揖斐川水系の水を長良川や木曽川へ導水するという訳の分からない話と全く同じことが、関東地区の霞ヶ浦と利根川の間ですでに実施されていて(利根導水路)、こちらは2.6キロと距離が短いため175億円の支出ですんでいるのですが(岐阜の場合は何十キロですから900億円の予算です)、問題はこの導水路が出来てからすでに13年も経っているのに、それが一度も利用されていないし、今後も利用される見通しがないのだそうです

 それだけではありません。この関連工事として、さらに、那珂川ー霞ヶ浦間の導水路(42.9キロ)が実施されようとしているというのです。こちらの方は距離からして、1,000億近い支出になることでしょう。
 これにはさすがに、地元の漁業関係者が反対に立ち上がったようです。というのも、私は知らなかったのですが、この那珂川は天然鮎の漁獲量が日本一なのだそうです。それが他の河川と連結されたりすれば、水質もその生態系も変わることは必至で、鮎の漁獲高に変動があることも充分予測されるのです。
 そして何よりもそれは全く必要のない事業なのです。


         だた水を堰き止めただけの虚しいダムサイト

 いずれも国交省管轄の水資源機構の為せるところです。
 こうした歴史的経験があるにも関わらず、それに懲りないどころか、それをひた隠しにしてさらにその愚を重ねるとしたら、そこにはむしろ人為的なものを感じずにはいられません。ようするに、ゼネコンへの血税ばらまき機構としての実態です。

 冒頭に「喜劇の繰り返しだ」といいました。確かに笑うべき事態の繰り返しなのですが、実は納税者にとっては、「歴史は繰り返す。一度は悲劇として、そして、二度目も悲劇として・・」に他なりません。
 何とかして、この悪連鎖を絶ち切りたいものです。

 

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続・「寿限無の南天」物語

2009-06-10 02:31:16 | 想い出を掘り起こす
 前回に書ききれなかった話の続きです。 

 二代目「フー」の最後が凄惨だったのでしばらくは犬を飼う気力も失せていたのですが、当時やっていた店の顧客に勧められて、今度は生まれたばかりの子犬から飼うことにしました。

 その客がもってきたモルモットほどの彼をボロ切れを敷き詰めた段ボールの箱に入れて助手席に置き、うちへ連れて帰りました。
 深夜の名岐国道は夜間運送のトラックなど交通量も多く、油断は許されません。ところがこの仔犬君、実に甘えん坊で、頼りない動きで段ボールの縁を乗り越え、私の膝へとやって来るのです。その都度、段ボールへと帰すのですがまたやってきます。ビュンビュンと高速トラックが走る中この作業はとても危険なものでした。

  
         まだ精悍だった頃の寿限無(1980年代中頃)
         寿限無の写真はすべて当時の写真のスキャン


 なんとか家まで着いたのですがそれからも大変でした。終生、彼は甘えん坊でそのくせやんちゃでありました。
 名前を決める家族会議が開かれました。その色合いからして、「三代目フー」は除外されました。様々な案が出ました。私はそのどれにも賛成できないまま、家長権限(?)で却下しました。
 私の主張は一貫しています。一万匹の犬がいたとして、そこでうちの犬の名を呼んだ時、彼のみがやって来るような名前にしろというです。

 しばらくして、愚息が「寿限無ではどう?」と提案しました。やっと落語を聴き始めたのでしょうか。名前と寿限無が反応したようです。
 私は即座に賛成しました。ただし本名は、あくまでも
 「寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚、水行末、雲来末、風来末、食う寝る所に住む所、薮ら柑子のぶら柑子、パイポ、パイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助」
 であること、略称として「寿限無」であるという条件付きでです。

  
     どこかの子犬にさせたい様にさせてやっている大人の寿限無

 かくして命名は終わり、彼は「寿限無」と呼ばれ、さらに省略されて「ジュゲ」と呼ばれたのですが、どう呼ばれようと甘えん坊の彼ははせ参じるのでした。
 彼との歴史は語りますまい。それから癌に侵されなくなるまでの11年間、彼は家族でありました。

 あんなに元気であった彼がぐったりしているので、はじめて獣医というところを訪れました。消化器系の癌で、ヘルニア、尿毒症を併発していてもはや講じるべき手段はないとのことでした。そして数日後、仕事の関係で深夜帰宅した私に残されていたメモで、寿限無の死を知りました。来た時と同じように段ボールの箱に入った彼は、玄関の土間にひっそりと静まっていました。
 かつて、私の車のエンジン音を敏感に聞き分けて、あんなにもはしゃいで私を出迎えてくれた彼がです。

  
     なくなる5ヶ月前の寿限無 もうすっかり老犬(1991年)

 私は土間から彼を引き上げ、その傍らに座って彼のお通夜をしました。
 その頃のナイトキャップはウィスキーでしたから、水割りのセットを用意し、彼の傍らで飲みました。まもなく東の空が白んできました。

 翌日、市の火葬場へ連れて行きました。私ども立ち会いの下に焼かれるものと早とちりした私は、葬儀にふさわしく幾分地味な服装で出かけました。
 「あ、犬ですか? それじゃあそこへ置いて。この書類に記入して下さい。手数料は○○円です」
 それだけです。どうも、その日の分が溜まってから一緒に焼くようで、仕事の都合でとても立ち会うことはできません。何度も何度も振り返りながらその場をあとにしました。
 おかげで、段ボールにはいって出会った彼とは、やはり段ボールに入ったままで別れることとなりました。

 あ、そうそう、南天の話でしたね。
 寿限無が逝ってからしばらくして、彼が好んで寝ていた日陰で風通しのいいところに小さな緑を見つけました。
 南天でした。輪廻転生の考えは私たちにある程度しみついているのでしょうか。私は即座に、「寿限無の南天だ」と思いました。

      
            寿限無の南天のいまの全貌

 しばらくして、陽当たりのいい場所に植え替えました。今ではそれが2メートルを超える高さです。しかもそれは、我が家には一本もなかった白南天でした。
 この木に花が咲き、実がなるたびに、いいや、この木に水をやるたびに寿限無を思い出します。
 散歩に連れて行ってもこちらのいうことをなかなかきかないわがままな犬でした。広いところでは放してやるのですが、なかなか帰ってきません。
 しかし、そのくせ甘えん坊で、こちらが帰る素振りをすると慌ててどこからかすっ飛んできます。
 可愛い奴でした。

 寿限無と歩いた散歩道などを撮した写真集を作りました。各種の写真展に入賞しているセミプロに見せたら、技術的にはともかく私の思い入れが溢れていて感動したといってくれました。
 
 それ以後20年近く、生き物は飼っていません。もう飼うこともないでしょう。
 「親父の柳南天」と「寿限無の南天」は今年も揃って花を付けました。
 小さな地味な花ですが、よく見るとその中にも色彩の変化があって可愛い花です。







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「寿限無の南天」の花が咲いた!

2009-06-09 01:43:47 | 想い出を掘り起こす
 私の家のさして広くない空間にあちらにひと株、こちらにひと株と数本の南天があります。
 そのほとんどが気がついたらそこにあったというずぼらな飼い主によって、水だけ与えられて大小それぞれに育っています。そして今、それらが一斉に小粒な花を付けています。

  

 南天なんてどれも似たようなもので特定したり名付けたりはしないのでしょうが、二本だけ例外があり、特定することができるのです。
 そのうちの一本は亡父の家の裏庭にあったもので、その小さな坪庭を取り壊す際、記念にもらってきたものです。この南天、他のものに比べて葉の形状が柳のようなので、私は密かに「親父の柳南天」と名付けています。
 この「柳」のイメージは、一五歳の折に、福井県は九頭竜川の源流にある山村から「柳行李」ひとつをもって油坂峠を越え、岐阜へ奉公に来た亡父の経歴を想起させます。
 高等小学校しか出ませんでしたが、頭のいい人でした。知識はともかく、「知恵」に関することはこの亡父に多くを教えられました。

      
       これが「親父の柳南天」の葉 ね、柳みたいでしょう

 しかし、今日述べるのはもう一本の方で、こちらは「寿限無の南天」と呼んでいるものです。

 私はかつて、犬を三匹飼ったことがあります。むろん、同時にではありません。それら三匹はれっきとした血統書付きの(?)雑種でした。
 そのうち二匹は、私が無造作に育てている植物同様、いつの間にか迷い込んだものです。
 一番最初のそれは、白っぽい犬で、家に居ついて離れようとしません。いればいるで、こちらも親近感を持ちますから残飯の餌をやったりします。するとまた懐くという次第です。

 それでもどこかの愛犬かもと、通りに面したところにしばらく繋いでおきました。飼い主らしい人はいっこうに現れません。放してやると、近くにいるだけですっかり私の家を自分のねぐらと心得ているようで、すぐに帰って来ます。
 そのうちに、子供たちの「飼ってくでぇぇぇ」という猛攻もあって、本格的にわが家の犬と認定して飼うことにしました。名前は、当時、NHKでやっていた幼児向け番組の「ブー・ウー・フー」からとり、「フー」にしました。
 勘のいい方はお分かりのように「お前だあれ?」の「Who?」でもあります。

      
         よく見ると均整がとれた美しい形ですね
 
 この犬はとても温和しかったのですが、ある日、安らかに自然死を致しました。だいたい来た時の年齢が分かりませんから、享年は不明です。
 この犬は、今はなき初代の桜ん坊の木の元に埋めました。翌年には大粒の実がたわわに実りました

 その後、また同じようなことが起きました。
 今度は鎖を付けたままの犬が迷い込んできたのです。しかも、その鎖が柵の根っこに絡んでとれなくなり、ギャンギャン鳴いています。そのくせ、それをはずしてやろうとすると、牙をむきだしてどう猛な表情で威嚇するのです。
 持久戦でした。
 水をやったり、餌をやったりして懐柔しようとするのですがそっぽを向いています。しかし、自然の摂理には勝てないようで、私たちが見ていないとそれらを飲み食いしているようです。

 そのうちにさしもの彼も、親愛の情とまでは行かなくとも、威嚇の表情を見せなくなりました。誰が彼の生命を維持しているのかに賢明にも気づいたようなのです。おそるおそる近づいても噛みつく気配はありません。
 やっとのことで、複雑に絡みついた鎖をほどくことが出来ました。鎖が付いている以上、飼い犬であることは明らかです。変に放して車に轢かれてもということで、また、通りに面したところへ繋いで様子を見ました。しばらくしてもなんの音沙汰もないので、犬を放してみました。どこかへしばらく行っている様子ですがまた帰ってきます。
 かくして彼は、「二代目・フー」の座に収まったのです。

  
        一見、白いだけの花ですが、けっこう多彩です
 
 この犬の最後は哀れでした。散歩に連れて行ってやろうと散歩用の引き綱に取り替えようとした時に、ふと取り逃がしてしまったのです。
 散歩は犬の一番の娯楽です。興奮して飛び跳ねます。私が再び取り押さえようとした途端、彼は飛び跳ねながら道路へ出てしまいました。そこへ自動車が・・。

 こんな小さな動物がと思うほどドンという大きな音が聞こえました。跳ねとばされた彼は、それでもヨタヨタと私の足元まで来てぱたりと倒れました。そして尻尾をに二、三度力なく振り、やがてすべての動きが止まりました。

 かくして我が家は、同じような経歴でやって来た二匹の犬、初代フーと二代目フー(世襲ではありませんよ)を失ったのでした。
 
 あ、長くなりました。肝心の「寿限無の南天」の話は次回に譲ります。








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川のカクテル? 徳山ダムと長良川

2009-06-07 23:07:40 | 社会評論
 「このままで、このままで流れよ 長良川」という催しに行って参りました。
 トーク&コンサートです。
 主題は長良川ですが、まずは水系の異なる揖斐川上流のの徳山ダムの話をしなければなりません。

 
           この催しのパンフやチラシなど

 こんな話から始めましょうか。
 あんころ餅の美味しいのがあるから是非食べろと言われ、あんまり食欲はなかったのですが断り切れずに了承しました。ところがそのうちに、あんこが柔らかすぎちゃったのでお汁粉に変えさせてくれといってきます。なんだかなぁと思いながら渋々了承すると今度は、砂糖が足りなくで味噌汁のようになったからこれを食べてくれといいます。しかもいろいろ作り替えているうちに経費がかかったので最初の約束より余分に金を払ってくれというのです。

  
       徳山ダムの航空写真 右下の白い部分がダム本体


 この詐欺のような話が徳山ダムなのです。
 最初は電源開発でした。しかし、電気は余り気味と言うことで今度は治水対策だと言い出しました。しかしこれも根拠が乏しいということで、最後には水資源の確保と言うことになりました。そして強引に、3,000億の税を投入して作り上げました。徳山村の村民全員を排除してです。
 水資源ということになると、揖斐川の上流に貯めたこの水を木曽川水系や長良川水系へと運ばねばなりません。水は空中を飛びませんからこれまた導水管の工事をしなければなりません。
 もともと、なんの目的もない巨大ダムを作り、出来上がってから見つけた(それ自身間違っている)目的をごり押しにするため、さらに900億の税を注ぎ込もうという話が進んでいるのです。

  
      ダム建設以前の徳山地区の地図 上の航空写真部分に相当

 最初のあんころ餅はすっかり姿を変え、ぐちゃぐちゃになった味噌汁もどきと「木曽川水系連絡導水路」と名付られた附録のような工事とをセットにし、さらに追い金を払ってこれを食えと言うわけです。
 しかし、なぜ揖斐川の水を木曽川や長良川へ導水するのかの根拠は全くなく、またメリットもありません。デメリットはいっぱいあります。導水管の工事そのものが環境に及ぼす影響もあります。また、違う河川の水を混合することにより、それぞれの川にあった生態系が完全に混乱させられるのです。その上、そのために税金が全く無駄に使われると言うことです。


  
           催しのパネル・ディスカッション

 長良川は、四万十川に次いで清流の度合いが高い河川として知られています。この川の唯一の汚点は、これもまたその必要性についての合理的な裏付けがないままに十数年前に強行されたいわゆる長良川河口堰です。
 これが出来るまで、長良川は最上流部から伊勢湾にいたるまで、ダムがひとつもない自然な河川として希有な存在だったのです。
 河口堰の両サイドでは、この辺の特産であったヤマトシジミがほぼ全滅しました。降海型のアマゴ、サツキマスの遡上も激減しています。天然鮎の遡上も減っています。

  
         「笠木透と雑花塾」のライブコンサート

 こうして傷つけられた川に、さらにその川の生態系とは馴染まないほかの河川の水を注入しようというのです。長良川をもうこれ以上いじめないで欲しい、ただただゼネコンの懐を潤すだけのために税金を使って環境を破壊することはやめてほしいという地元の声を集約したのが冒頭に掲げた催しだったのです。

 河村名古屋市長は、この「木曽川水系連絡導水路」のための名古屋市の分担金支払いを凍結し、その工事そのものへの疑義をも語っています。
 これは全くもって正しい判断だと思います。
 ここは河村氏を孤立させるのではなく、愛知、岐阜、三重県民の力で、無用な税負担を強要しさらに環境を破壊する全く無駄なこの工事をやめさせたいものだと思います。

  
    笠木透・詩の絵本絵巻「長良川」を広げての「長良川賛歌」の合唱

 この催しに出席して、いろいろな人と出会うことが出来ました。
 まず、名古屋での毎月のお喋り会の常連であり、かつ徳山村ご出身のOさん、この前まで一緒に雑誌を作っていたNさんとKさん、そしてKさんのご母堂、さらには岐阜ご在住、かつて私がやっていた店の常連さんだったAさん、それと忘れてはならないのはこの催しに私を誘ってくれたやはり岐阜在住のTさんなどなどです。
 あ、それとその雑誌時代に私がインタビューした人とも出会ったばかりか、彼の属しているNPOの方(女性)がパネリストのひとりでした。

 それらの方々の有志と、久々に熱い語り合いの場をもつことができました。
 あんころ餅をぐちゃぐちゃにした味噌汁もどきを高い税金で食わされないよう、そして子供の頃から馴れ親しんだ長良川をこれ以上いじめさせないようにしたいと思います。


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私たちは今何を食べているのでしょうか?

2009-06-05 03:32:48 | 写真とおしゃべり
 前回の桑の実に次いでの自然や果実、そして食材の話です。
 都会に住む人たちや子供たちは、農産物の生育する過程を見る機会が少ないでしょうね。
 かつて、お米を木の実だと思っている子供の話を読んだことがあります。もっともこんな例は可愛いもので、大学生にニワトリの絵を描かせたら、そのうち何人かが足を四本描いた話も聞きました。解説者は、「牛や豚など食肉の対象となる動物からの連想でしょうね」と優しいことをいっていましたが、単なる無知というほうが当たっているように思います。

  
             これはレモンの花です

  
              そしてこれが赤ちゃん

 それはともかく、食物と私ちたの関係が自然の循環過程であるというこの当然のことが見えにくくなっているというのは事実でしょうね。
 宮中で行われる新嘗祭(11月23日)や、それと呼応するように行われる農村の秋祭りは、米の恵みに感謝しさらなる豊作を祈願するものでしたし、漁村の豊漁祭りもその字のごとく海の幸への敬虔な祈りでした。

 しかし、それらは観光化したり単なる行事と化したりして、その本来のアウラとは切り離されつつあるようです。そしてそれは、おそらく上に述べた人の食生活が自然との循環過程であることが見えにくくなっていることと関連しているのでしょう。

  
             これはブドウの赤ちゃんです

 一口で言えば、私たちの食物が急速に既製品化されているからだろうと思います。
 スーパーなどでレジに並んでふと前の人のかごを見ると、持ち帰って暖めるか、そのまま口にできるもののみがどっさり入っていることがあります。たぶん忙しかったり、親の代からそうした食生活になれているからでしょうね。なかには電子レンジ主体で、鍋釜や包丁のない家もあると聞いています。
 また、街中のファーストフードのチェーンやコンビニに並ぶジャンクフードに自然の痕跡を見出すことは困難ですね。

 それでは、自然の食材はどうかというと、これもまた既製品化というか工場生産化されています。肉類は昔からそうですが、近年では魚類も養殖が盛んで天然ものはわざわざそれを表示され、しかもその価格はものによっては倍以上します。
 野菜もそうですね。季節感が全くなく、基本的なものは年中店頭に出ています。そして、原油価格が上がったからといって野菜の価格まで変動します。運搬の経費ではないですよ。ハウス栽培の温度を保つために重油を炊くからです。

  
             これはリンゴの赤ちゃん

  
            もう少し近づいてみましょう

 こうしたことの積み重ねが、人間の食生活が自然との循環過程でもあることを不可視にしているのかも知れません。
 さいわい、私のような年配者にとっては過去の記憶がありますし、また、農地や自然が残っているところにに住んでいれば、作物の成長過程などを観察することも出来るわけです。

 いたずらにこうした現象を嘆いているのではありません。世の中はすっかりこうしたシステムが主流になっているのですし、今さら、「自然に帰れ!」と叫んでみても、それは無駄なばかりか食生活のための高価な支出を強制することにもなるからです。
 私の若い頃は、加工されたものは高く自然のままは安いが当たり前でした。しかし昨今は、天然の素材で、しかも無農薬で着色剤、保存剤なしの食材のみを用いようとするととんでもない出費が要求されるのです。
 それがいやなら完全自給自足を貫くかですが、これとて、土地の確保、時間の確保とリタイアーした金持ちか一部タレントさんのパフォーマンスとしてしか成立しないのです。

  
         栗の花です。大木にたわわに咲いています

  
           まるで、瀑布を思わせるようですね

 そんなわけで、今回は都会に住む人たちに、私の回りで育っている果実の赤ちゃんがどんな具合かを撮影した写真をお届けします。


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