六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

歴史は二度繰り返す。どちらも喜劇として・・。

2009-06-11 00:59:34 | 社会評論
 標題ですが、本当は、「歴史は繰り返す。一度は悲劇として、二度目は喜劇として・・」で、歴史の教訓を学ばない愚かさを指摘したものなのですが、ここに挙げるのは、どちらも喜劇としかいいようのない事実なのです。

 ことは私が6月7日付で掲載した「川のカクテル?」
 http://pub.ne.jp/rokumon/?entry_id=2206748
 という記事に関連するのですが、6月9日付の「朝日」の夕刊を見て驚きました。

 
        徳山村をすっぽり飲み込んだ無為な水たまり
 
 私が先に述べた、揖斐川水系の水を長良川や木曽川へ導水するという訳の分からない話と全く同じことが、関東地区の霞ヶ浦と利根川の間ですでに実施されていて(利根導水路)、こちらは2.6キロと距離が短いため175億円の支出ですんでいるのですが(岐阜の場合は何十キロですから900億円の予算です)、問題はこの導水路が出来てからすでに13年も経っているのに、それが一度も利用されていないし、今後も利用される見通しがないのだそうです

 それだけではありません。この関連工事として、さらに、那珂川ー霞ヶ浦間の導水路(42.9キロ)が実施されようとしているというのです。こちらの方は距離からして、1,000億近い支出になることでしょう。
 これにはさすがに、地元の漁業関係者が反対に立ち上がったようです。というのも、私は知らなかったのですが、この那珂川は天然鮎の漁獲量が日本一なのだそうです。それが他の河川と連結されたりすれば、水質もその生態系も変わることは必至で、鮎の漁獲高に変動があることも充分予測されるのです。
 そして何よりもそれは全く必要のない事業なのです。


         だた水を堰き止めただけの虚しいダムサイト

 いずれも国交省管轄の水資源機構の為せるところです。
 こうした歴史的経験があるにも関わらず、それに懲りないどころか、それをひた隠しにしてさらにその愚を重ねるとしたら、そこにはむしろ人為的なものを感じずにはいられません。ようするに、ゼネコンへの血税ばらまき機構としての実態です。

 冒頭に「喜劇の繰り返しだ」といいました。確かに笑うべき事態の繰り返しなのですが、実は納税者にとっては、「歴史は繰り返す。一度は悲劇として、そして、二度目も悲劇として・・」に他なりません。
 何とかして、この悪連鎖を絶ち切りたいものです。

 

コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 続・「寿限無の南天」物語 | トップ | 梅雨入りの「川柳もどき」 »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (冠山)
2009-06-11 20:59:30
悲劇として、くり返してならない、するどい直球でした。このダムが必要かどうかという、根本の論議が尽くされないまま、ダム特需が生まれ、ダムマフィアの横行を許せば、二度目は喜劇と眺められそうです。次ぎの球を期待します。
返信する
Unknown (N響大好き。)
2009-06-11 22:04:57
ダムを造るためには、予算が計上されなければならない・・・国会の議決がいる・・・つまり、これも、民主主義の問題です。
ゼネコンばかりが、悪者のように言われますが、それに群がる末端までの土建屋、製造業者、飲食業者、その他サラリーマン等、彼らが、推進する政治家を支えているからに他なりません。何らかの経済的恩恵を受けていないと断言できる人がいるでしょうか?
ケネディの就任演説、「国に何を求めるかではなく、国民が何をできるかを問うてほしい」の言葉通り、これも、国民の自己責任です。
 行政や、ゼネコン批判を繰り返していては、解決しません。
 逆に言うと、自然環境の破壊、予算の濫用も構わない、自分がも儲かればいい、という考え方を否定することは、誰にもできません。個人の問題です。
返信する
Unknown (六文錢)
2009-06-12 01:09:37
>冠山さん
 おっしゃるように、悲喜劇こもごものばかばかしさがまかり通っているこの連鎖を絶ちきらないと、私たちに対しては悲劇が累積されることになると思います。

> N響大好き。さん
 行政府や立法府がどれだけ事前に情報を公開しているかという問題もあるわけですが、最終的にはこうしたばかげた連鎖を許してきてしまっているという点では、「自己責任」といえるかも知れません。
 
 また、意識するとせざるに関わらず、そうしたシステムの恩恵を受けてきたかも知れないという点でも、「自己責任」はあるでしょう。

 しかし、この連鎖のばかばかしさに気づき、それが天に唾している行為に他ならないことを自覚した段階で、その非を明確にし、その連鎖を絶ちきるムーブメントを起こすこともまた「自己責任」の取り方であろうと思います。

 確かに最終的には個人の問題です。であればこそ、それに終止符を打つべき個人の集積を計ることが必要ですし、それこそがポジティヴな意味での民主主義だと思うのです。

 そうでなければ私たちは、深いニヒリズムの中で、ただただ事態を眺めているほかないのです。
返信する
Unknown (冠山)
2009-06-12 21:08:59
噴き出してくる思い出は巨大な恨みの断片となりそうです。個人の体験や記憶をいくら寄せ集めても歴史の行く手は見えない… 現在と向きあおうとして踏み出す一歩が怖い。あたりきょろきょろ、足元よろよろ、おっかなびっくりですが、でも、歩かなきゃね… 
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。