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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

桑の実って食べたことがあります?

2009-06-03 02:58:49 | 想い出を掘り起こす
 桑の実についていえば、一番ポピュラーなのが童謡「赤とんぼ」の2番の歌詞だろうと思います。
 山の畑の 桑の実を
 小かごに摘んだは まぼろしか

 この歌詞は誰でも知っていますよね。
 ところで、実際の桑の実を見た人はどれぐらいいるでしょうか。
 「小かごに摘む」というのは食用にするためですが、どれだけの人が食べたことがあるのでしょう。
 とりわけ、都会にしか住んだことのない人にはほとんど馴染みがないのではないでしょうか。寡聞にして桑の実が店頭などに並んだという話も聞いたことがありません。

      
     私んちの桑の木です。切るのに忍びないと育てたらこんな大木に

 敗戦前後の一時期、疎開暮らしのまましばらく田舎に居ついた私にとっては、桑の実は野いちごやグミの実ともども貴重なおやつでした。
 しかしそれ以前に、桑は労働の対象でもあったのです。
 というのは疎開先の母の実家はお蚕さんを飼っていて、その最盛期には新鮮な桑の葉を何度も何度も供給しなければならなかったからです。私たち子供も、その運搬に動員されました
 蚕の食欲はまことに旺盛で、それを飼っている中二階からは、蚕が桑を食す音が「しゃがしゃがしゃが」とはっきり聞こえました。それは同時に、次々と桑の葉を供給しなければならないことを意味していました。

   
           こんなにたわわに実を付けました

 農家では蚕のことを「お」を付け「さん」を付け、「お蚕さん」と呼んでいました。蚕が育ち、立派な繭を作り、それを買い付けに来る仲買人に評価され買い上げられると、当時としては貴重な現金収入となったのです。それをもたらす蚕は、単に昆虫の幼虫期ではなかったのです。もちろんこれは、この地区だけのことではありませんでした。
 明治初年には、絹は日本の主たる輸出品であり外貨の稼ぎ頭だったのです。
 
 ただし、私がそこにいた敗戦前後の時期は、チャラチャラした贅沢品の禁止令もあって絹の需要もあまりなかったようで、お蚕さんの御利益がどの程度あったのかはよく分かりません。
 こんなこともあって、桑との関連は今なお私の中で尾を引いています。もちろん、桑の実もです。

   
            黒いのが甘くて美味しいのです

 20年ほど前、私の家の片隅に、膝までぐらいの桑がどこかからやって来て自生しているのを見つけました。邪魔なところに、と引っこ抜こうかとも思いました。それをとどめたのはおやつに桑の実を食べた往時の記憶でした。

 以来、桑の木は大木になり、今ではたわわに実を付けるようになりました。
 白色から緑、赤、紫、そして真っ黒になるとその実は甘く切ない香りがします。
 今年は桜ん坊が不作だったのに反し、桑の実は豊作です。
 もう三度、娘の勤める学童保育のおやつに持ってゆきました。
 おそらく子供たちにとっては初めての味わいです。
 世の中には多様なものがあり、多様な味わいを与えてくれる、それを分かってくれればいいなと思います。同時に、「赤とんぼ」の歌詞をなにがしか実感できればいいと思います。

   
    ちょっとおしゃれにカルフォルニア産ののシャルドネと一緒に

 ムクドリがしょっちゅう来ています。私が実を採りに出ると彼らがギャギャギャッとまるで強奪者が来たかのように非難し、鳴き叫びます。これをここまで育てたのが私だということが分かっていないのです。実に横着な連中です。

 冒頭に掲げた歌詞
  山の畑の 桑の実を
  小かごに摘んだは まぼろしか
 に見られるかつての日本の原風景のような情景も、本当に「まぼろし」になってしまったかのようですね。
 かつて桑を栽培していた名残でしょうか、川岸などにぽつんと桑の木があると私にはすぐそれと分かります。
 私にとっては、戦中戦後の思い出とシンクロした木なのです。









コメント (7)
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【読書】戦後はじめて三光作戦の地に足を踏み入れた女性

2009-06-01 01:38:03 | 想い出を掘り起こす
 現在中国に在住の私の長年の友人が本を出しました。
 戦後六十数年、はじめてその地を訪れた彼女は最初、「鬼が来た」と忌避されます。
 しかし、その地に住みついた彼女に、やがて土地の人々は胸襟を開いて話し始めます。この書はそれらの記録ですが、以下はそれを読んでの私の感想文です。

 未来社・刊で、定価 1,500円プラス税です。
 なお、哲学者、高橋哲哉の推奨で、帯にもコメントしています。
 写真もすばらしく、マスコミを通じてはわからない生の中国の今日が活写されています。


     


生活をともにするなかでほぐれる記憶 
『記憶にであう・・・中国黄土高原 紅棗がみのる村から』  
                  (大野のり子 著・写真)を読む  

 二〇〇三年の秋、もし彼女が乗ったバスが山崩れに遭遇し迂回することがなかったらと、つい考えてしまう。
 そのアクシデントにより彼女は、日中戦争でのあの「三光作戦(殺し尽くす、奪い尽くす、焼き尽くす)」の舞台であった土地へ、六十数年ぶりに訪れたはじめての日本人という栄誉(?)を担うことになったからである。戦後、彼女以前にこの土地を訪れた日本人が皆無だったという事実こそがある歴史的な意味をももつのだろうが、いまはそれには触れまい。
 この書は、それを起点として始まった彼女とその土地の住人たちとの交流の記録である。交流といっても生半可なものではない。なぜなら、彼女は意を決して北京からこの地に移住し、文字通りこの土地の人たちと寝食をともにしはじめたからである。
 
 この書を大きく分けると、ひとつには、当初、かつての「鬼」の同族として忌避されたり怖がられた彼女が、そうした人々との垣根を越えてすっかりこの地に馴染みながらその見聞を広げてゆくという、いわば異文化交流的な意味での彼女自身の体験の記録という面をもつ。
 そしていまひとつは、そこで培った関係をもとに、日中戦争経験者である古老たちと面接し、その記憶を掘り起こし、それらの聞きとりを収集した記録としての面である。むろんこの二つは相互に関連している。彼女が土地に馴染めば馴染むほど、かつての宿敵日本人が目の前にいることすら意識することなく、古老たちの記憶の糸がほぐれはじめ、結果として彼女は数々の「記憶にであう」ことができたのである。

 彼女自身の体験の面でいえば、そこには歴史的な和解などという大げさなものとは異なる自然な生活の場での交流があり、そうした生活をともにすることによって彼女自身が目を丸くするような風俗習慣の違いとの遭遇も可能となる。さらには、それにオーバーラップするように、中国の市場経済の加熱に伴う沿岸部と内陸部の格差の広がりと、それを埋めるための人々の生活様式の変化をも垣間見ることになる。それは、素朴としかいいようのない「紅棗がみのる村」にも執拗に迫る避けがたい波なのだ。
 その意味でもこのレポートは貴重で、私たちがその表層をなぞるだけでは覗えない中国の農村部の今日の生態が浮かび上がってくるのだ。

 それにもまして重要なのは、彼女が手を尽くして会いに行き、聞き取った日中戦争時を経験した古老たちの話である。一切の誘導を避け、相手の語るがままに任せたというこのオーラル・ヒストリーともいうべき語りのなかで、あの「三光作戦」の具体的諸相が次々と明らかになる。
 それらは、そこへと従軍した父祖の末裔たる私たちには目を背けたくなるような事実をも含むのだが、しかし、その父祖が口を閉ざして語ろうとしない以上、私たちはその古老たちの記憶を辿ることによって事実の一端に触れるほかはない。
 彼や彼女たちの記憶とのであいとその記録は、この時期とりわけ貴重である。なぜなら、対象となった古老たちは七〇歳代の後半から八〇歳代が圧倒的に多く(最少年齢六九歳、最高年齢一〇一歳)、そのほとんどが無文字の社会を生きてきたこともあり、そこで語られる事実はその記憶のなかにだけ仕舞い込まれてきたものだからである。加えて、その年齢がある。なかには、話をしてくれた後、亡くなった人もいるという。
 
 記憶についていえば、次のような序列や段階が考えられる。
 1)記憶している。2)忘れる。3)忘れていることをも忘れる。4)記憶している者へのアグレッシヴでエキセントリックな告発や攻撃。
 これらがいわゆる歴史修正主義を巡る論争と関連することは見やすい。これらの論争で論議される対象は、イデオロギー的なパースペクティヴからする選択によるものが多く、全くすれ違った論争になることがしばしばである。
 しかし、彼女がここで発掘したこれまでほとんど明らかにされてこなかった体験による記憶は、それらが全く加工を免れてはいないにしても、歴史的出来事のリアルな側面として承認されるべきではないだろうか。

 彼女によれば、中国においても若い世代の歴史認識にはある種の硬直が見られるという。しかし、ここの古老たちはそうではない。
 彼女が訪れたもと八路軍の兵士で、日本兵に片腕を切り落とされたという曹老人との出会いは象徴的である。
 彼は当初、「日本人に話すことはない。写真も撮られたくない」と取りつく島もなく奧へ引っ込むのだが、その老妻が遠路の客への「もてなし」として差し出す紅棗の実を受け取るのをためらっていると、突然、曹老人がふたたび現れて、うむをいわさず彼女の包みにそれを押し入れたというのだ(一四六頁)。彼女はその折り、涙がこみ上げるのを押さえきれなかったという。私もまた、このくだりを読んでジーンとこみ上げるものがあった。このアンビヴァレンツな態度のなかにこそ、彼我の関係の将来にわたる可能性があるようにも思えるのだ。

 こうした場面をも含み、老人たちと触れ合わんばかりにその情感を共有しながら進められる彼女の作業は、それ自身はひとつのレポートに止まるかも知れない。しかし、東アジアにおいての歴史の共有が語られる時、こうした触れ合いの世界、そこから立ち上る「記憶にであう」ことを抜きにしては、そこにはやはり、自らの効率のみに依拠した陣取りゲームとしての相互に引き裂かれた歴史しか残り得ないのではないだろうか。

 最後になったが、彼女自身がシャッターを押した写真がそれぞれいい。自然や風物なども活写されているが、とりわけ老人たちの表情が素敵だ。彼女が名付けた「老天使の微笑み」がそこにはある。一六五頁の老女の満面の笑みはそれを示して余りある。
 「こんな笑顔はもう日本にはないね」という私のメールに、「いや、中国でも都市部ではもう少なくなっている」と彼女からの返事があった。だからこそ、この時期、彼女のこの仕事が貴重なのである。

 なお、「はじめに」と「あとがき」との落差のなかに、とりわけ、「私が日本人であるということは、以前ほど重要なことではなくなってきた」という記述に、これらの作業を通じて彼女自身が到達した境地を覗うことができる。
 同時に、これらの作業は彼女の行程のほんの序章であることを言い添えておこう。

コメント (12)
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