梅雨に入ったとか入らないとかいうたびに枇杷を思います。
というのは我が家に枇杷の木が一本あって、世間が梅雨がどうこうという時期に実るからです。
「沖縄地方が梅雨に入った」などと報じられると枇杷を見上げます。
「ふーむ、まだだな」などと思うまもなく、東海地方もうんぬんという頃には実が熟します。
もとはといえば、当時はそうではなかったのですが、今は行きつけの歯科医の屋敷に生えていたものです。その木を持ってきたわけではありませんよ。そこにはでっかい枇杷の木があって、その前年の実がこぼれて発芽したのでしょうか、10センチぐらいの枇杷の苗木が路傍にありました。そのままにしておいたら雑草共々に抜かれていたと思います。それを持って帰って我が家に植えました。二十数年前でしょうか。
それが今や親をしのぐような大木となって(その歯科医へは今は行きつけですから、親にもよく会うのです)茂っています。どういう訳か、親は横に広がっているのに、我が家のそれは真っ直ぐに高く高く伸びているのです。
これは、素直に真っ直ぐ伸びるという私の気質にならったものであることは容易に想像できるのですが、問題は高いところの実が採りにくいということです。
今年も、東海地方も梅雨入りという頃から果実の色が緑から黄色、そして橙色へと深みを増し、食べ頃になりました。
スーパーなどでも栽培種が売り場に出ています。それに比べると大きさも果実の色合いも劣るのでしょうが、味は遜色ありません。特に、木にある間に完熟したものは甘くなおかつ特有の香りと味わいを口中に残します。
今年は、桜ん坊がやや不作だったのですが、枇杷はどうやら豊作です。
第一回の収穫をしました。私の背が届く限りの実です。
それでも随分採れました。
きれいに洗って、娘が勤める学童保育のおやつに持たせました。
採りきれない実が上の方に残ります。前には木に登ったりして採ったのですが、今はもう無理はしません。
それらは鳥たちに任せます。ヒヨドリ、ムクドリ、ハトやカラスも来ます。
朝方は彼らのお喋りがかしましく聞こえます。
欲張って上の方まで採らなくとも、下の方だけでもあと、2、3回は採れそうです。
その頃には学童の子らにも飽きが来るでしょう。
私が疎開した母の実家は農家で、柿や無花果、栗などはありましたが、枇杷はありませんでした。
枇杷をはじめて食べたのは1944(昭和19)年、母と一緒に行った淡路島の母の実兄のところででした。
神戸の港からの舟でしたが、空襲警報か警戒警報が出てなかなか舟が出ませんでした。やっとでた小舟で、生まれて初めて船酔いというものを経験しました。そんな苦痛のあとの枇杷の実でした。
ですから枇杷は、敗戦前夜の食い物が何もない頃に、私が口にした甘露として強烈に記憶に刻まれた果物です。
でも今さら、そんなことを子供たちにいっても分かってはくれないでしょうね。
ですから、それはともかくとして、出来うる限り、学童保育の子供たちにこの実を届けてやりたいと思うのです。
というのは我が家に枇杷の木が一本あって、世間が梅雨がどうこうという時期に実るからです。
「沖縄地方が梅雨に入った」などと報じられると枇杷を見上げます。
「ふーむ、まだだな」などと思うまもなく、東海地方もうんぬんという頃には実が熟します。
もとはといえば、当時はそうではなかったのですが、今は行きつけの歯科医の屋敷に生えていたものです。その木を持ってきたわけではありませんよ。そこにはでっかい枇杷の木があって、その前年の実がこぼれて発芽したのでしょうか、10センチぐらいの枇杷の苗木が路傍にありました。そのままにしておいたら雑草共々に抜かれていたと思います。それを持って帰って我が家に植えました。二十数年前でしょうか。
それが今や親をしのぐような大木となって(その歯科医へは今は行きつけですから、親にもよく会うのです)茂っています。どういう訳か、親は横に広がっているのに、我が家のそれは真っ直ぐに高く高く伸びているのです。
これは、素直に真っ直ぐ伸びるという私の気質にならったものであることは容易に想像できるのですが、問題は高いところの実が採りにくいということです。
今年も、東海地方も梅雨入りという頃から果実の色が緑から黄色、そして橙色へと深みを増し、食べ頃になりました。
スーパーなどでも栽培種が売り場に出ています。それに比べると大きさも果実の色合いも劣るのでしょうが、味は遜色ありません。特に、木にある間に完熟したものは甘くなおかつ特有の香りと味わいを口中に残します。
今年は、桜ん坊がやや不作だったのですが、枇杷はどうやら豊作です。
第一回の収穫をしました。私の背が届く限りの実です。
それでも随分採れました。
きれいに洗って、娘が勤める学童保育のおやつに持たせました。
採りきれない実が上の方に残ります。前には木に登ったりして採ったのですが、今はもう無理はしません。
それらは鳥たちに任せます。ヒヨドリ、ムクドリ、ハトやカラスも来ます。
朝方は彼らのお喋りがかしましく聞こえます。
欲張って上の方まで採らなくとも、下の方だけでもあと、2、3回は採れそうです。
その頃には学童の子らにも飽きが来るでしょう。
私が疎開した母の実家は農家で、柿や無花果、栗などはありましたが、枇杷はありませんでした。
枇杷をはじめて食べたのは1944(昭和19)年、母と一緒に行った淡路島の母の実兄のところででした。
神戸の港からの舟でしたが、空襲警報か警戒警報が出てなかなか舟が出ませんでした。やっとでた小舟で、生まれて初めて船酔いというものを経験しました。そんな苦痛のあとの枇杷の実でした。
ですから枇杷は、敗戦前夜の食い物が何もない頃に、私が口にした甘露として強烈に記憶に刻まれた果物です。
でも今さら、そんなことを子供たちにいっても分かってはくれないでしょうね。
ですから、それはともかくとして、出来うる限り、学童保育の子供たちにこの実を届けてやりたいと思うのです。