手入れされた庭園を観ることは嫌いではない。
しかしそれは自然ではない。
自然に素材を借りたオブジェである。
それが明確なのは西洋のシンメトリーな庭園である。
誰もあれを観て、「ああ、自然だなぁ」とは思わないだろう。
そこへゆくと日本庭園は、それ自身自然に素材を借りたオブジェであるに関わらず、自然そのものであるかのようにそれを装う。
枯山水という技法、借景という技法などが、その庭園が自然に融和したものであることを強調する。
しかし、それがオブジェであることには変わりない。それが証拠に、三年も手入れをしないでほおっておくと、もはや庭園の呈をなさないであろう。
湖東三山、金剛輪寺の庭園。後ろの山が借景となっている。
それが悪いといっているのではない。
最初に述べたように、よく構成され、手入れの行き届いたそれを観ることは快感ですらある。
しかし、自分の家の庭となるといささか事情を異にする。
来るものは拒まずで、石や草木などあまり選択はしない。
などというと格好いいが、はっきりいうと、金を出して買ったものが全くないということである。
若干の石はある。しかし、これとて、ここを埋め立てる時に、山の土を使ったので、その中に含まれていた大きいものをそれなりに格好がつくように並べたに過ぎない。
草木もそうである。貰ったもの、路傍に生えていたものの移植、小鳥がその実を運んだのか、あるいは風がもたらしたのかいつの間にか生えてきたもの、そんなものばかりだ。
それでも桜ん坊がなる木があり、枇杷のなる木があって、毎年、娘が勤める学童保育の子供たちのおやつになったりしている。
今年も咲いた枇杷の花。ひとつひとつの小さな花が梅に似ている。
桜は貰ったもの、枇杷は行きつけの歯医者さんに立派な木があって、その下の石垣の間にど根性大根よろしく根付いていたものを、こんなところでは育つまいと引っこ抜いてきて、移植したものである。
もう二十数年前のことだろうか。
ちょっと困った木もある。これもいつの間にやら生えた桑の木であるが、ほおっておいたらドンドン伸びて、おまけに新芽だ出そろう頃には毛虫の大群が発生して、その駆除に数千円(「毛虫コロリ」三回分)もかかることである。
しかし、その後、紫色の実を付け、それをサラダに入れたりすると、そこそこの味がするものだから、まあ、メンテナンスが高過ぎるが仕方ないかと思ったりする。
黄色く色づき始めた桑。二階から写す。あと葉が枯れてがさがさ落ちる。
もうひとつ困ったことは、そうした雑然とした庭(?)だから、通りかかりの庭師たちの格好の標的になることである。最近とみに多いのは、やはり不況で仕事が減ったからだろうか。
「手入れをさせてくれ」という。むろん無償ではない。
「見積もりを出す」という。
しかし、それ以前の段階で断る。
なかには、「そもそも庭というものは」とうんちくを垂れる人もいる。
私はいう、「この雑然さは私のポリシーなのです」と。
来るものは拒まず、去る者は止めず、なのだ。
おそらくプロの職人さんに任せたら、見違えるようになるであろう。しかしそれは、いわゆる庭というもののポリシーに添って、不要なもは切って捨てられ、残ったものも人工的に整えられ、いかにも庭でございとなるに過ぎないであろう。れをしたくないのだ。
繰り返すが、立派な庭は嫌いではない。しかし、自分がそれを持とうとは思わない。
立派なものが観たい時はそこへ観に行けばいい。
かくてわが庭は、雑然たる王国をなしている。
どこからやってきたか分からぬ草木ども、お前たちがのほほんとしていられるのは、私がそのポリシーを頑固に守っているからなんだぞ。
だから、真面目に花を付け、実を結べよ。
こら!そこのお前!そう、多分、小鳥が運んできたであろうシャクナゲの木。お前、図体ばかり大きくなって、一、二度お義理のように少しばかりの花を付けたっきりじゃぁないか!
切らないよ、切らないから真面目に咲けよ。
家人から、「なに、この木、でっかいばかりで花も実もないじゃぁない」なんていわれると、私もつらいのだ。
スズランの赤い実。もっと早く気付けば、沢山実が付いていたのに。
でも、いいこともある。
先程述べた枇杷がひっそりと花を付けるのを観る時、そしてその小さな花のひとつひとつが、まるで梅の花のようであることを知る時、また、足元のスズランが小さなリンゴのような実を付けているのに気付く時などである。
ただし、スズランに関しては、今年は気付くのが少し遅れた。本当はもっと実が付いていたはずなのに、その折り気付かなくてごめんよ。
もうすぐ冬だ。
沢山雪が降って、枝が折れそうになったら、夜中でも木を揺すってそれを防いでやるからな。
しかしそれは自然ではない。
自然に素材を借りたオブジェである。
それが明確なのは西洋のシンメトリーな庭園である。
誰もあれを観て、「ああ、自然だなぁ」とは思わないだろう。
そこへゆくと日本庭園は、それ自身自然に素材を借りたオブジェであるに関わらず、自然そのものであるかのようにそれを装う。
枯山水という技法、借景という技法などが、その庭園が自然に融和したものであることを強調する。
しかし、それがオブジェであることには変わりない。それが証拠に、三年も手入れをしないでほおっておくと、もはや庭園の呈をなさないであろう。
湖東三山、金剛輪寺の庭園。後ろの山が借景となっている。
それが悪いといっているのではない。
最初に述べたように、よく構成され、手入れの行き届いたそれを観ることは快感ですらある。
しかし、自分の家の庭となるといささか事情を異にする。
来るものは拒まずで、石や草木などあまり選択はしない。
などというと格好いいが、はっきりいうと、金を出して買ったものが全くないということである。
若干の石はある。しかし、これとて、ここを埋め立てる時に、山の土を使ったので、その中に含まれていた大きいものをそれなりに格好がつくように並べたに過ぎない。
草木もそうである。貰ったもの、路傍に生えていたものの移植、小鳥がその実を運んだのか、あるいは風がもたらしたのかいつの間にか生えてきたもの、そんなものばかりだ。
それでも桜ん坊がなる木があり、枇杷のなる木があって、毎年、娘が勤める学童保育の子供たちのおやつになったりしている。
今年も咲いた枇杷の花。ひとつひとつの小さな花が梅に似ている。
桜は貰ったもの、枇杷は行きつけの歯医者さんに立派な木があって、その下の石垣の間にど根性大根よろしく根付いていたものを、こんなところでは育つまいと引っこ抜いてきて、移植したものである。
もう二十数年前のことだろうか。
ちょっと困った木もある。これもいつの間にやら生えた桑の木であるが、ほおっておいたらドンドン伸びて、おまけに新芽だ出そろう頃には毛虫の大群が発生して、その駆除に数千円(「毛虫コロリ」三回分)もかかることである。
しかし、その後、紫色の実を付け、それをサラダに入れたりすると、そこそこの味がするものだから、まあ、メンテナンスが高過ぎるが仕方ないかと思ったりする。
黄色く色づき始めた桑。二階から写す。あと葉が枯れてがさがさ落ちる。
もうひとつ困ったことは、そうした雑然とした庭(?)だから、通りかかりの庭師たちの格好の標的になることである。最近とみに多いのは、やはり不況で仕事が減ったからだろうか。
「手入れをさせてくれ」という。むろん無償ではない。
「見積もりを出す」という。
しかし、それ以前の段階で断る。
なかには、「そもそも庭というものは」とうんちくを垂れる人もいる。
私はいう、「この雑然さは私のポリシーなのです」と。
来るものは拒まず、去る者は止めず、なのだ。
おそらくプロの職人さんに任せたら、見違えるようになるであろう。しかしそれは、いわゆる庭というもののポリシーに添って、不要なもは切って捨てられ、残ったものも人工的に整えられ、いかにも庭でございとなるに過ぎないであろう。れをしたくないのだ。
繰り返すが、立派な庭は嫌いではない。しかし、自分がそれを持とうとは思わない。
立派なものが観たい時はそこへ観に行けばいい。
かくてわが庭は、雑然たる王国をなしている。
どこからやってきたか分からぬ草木ども、お前たちがのほほんとしていられるのは、私がそのポリシーを頑固に守っているからなんだぞ。
だから、真面目に花を付け、実を結べよ。
こら!そこのお前!そう、多分、小鳥が運んできたであろうシャクナゲの木。お前、図体ばかり大きくなって、一、二度お義理のように少しばかりの花を付けたっきりじゃぁないか!
切らないよ、切らないから真面目に咲けよ。
家人から、「なに、この木、でっかいばかりで花も実もないじゃぁない」なんていわれると、私もつらいのだ。
スズランの赤い実。もっと早く気付けば、沢山実が付いていたのに。
でも、いいこともある。
先程述べた枇杷がひっそりと花を付けるのを観る時、そしてその小さな花のひとつひとつが、まるで梅の花のようであることを知る時、また、足元のスズランが小さなリンゴのような実を付けているのに気付く時などである。
ただし、スズランに関しては、今年は気付くのが少し遅れた。本当はもっと実が付いていたはずなのに、その折り気付かなくてごめんよ。
もうすぐ冬だ。
沢山雪が降って、枝が折れそうになったら、夜中でも木を揺すってそれを防いでやるからな。
さて、お庭ではないのですが、植生に関わる話題として「鎮守の森」を守ろうという思想や活動の広がりを挙げることができるのではないかと思います。宮脇昭という植物学の先生が、神社の所有林は日本の「潜在自然植生」であり保護すべきだと提唱していらっしゃって、多くの人々に受け入れられているようです。しかしまず、そもそも神社林がほんとうに天然自然の植生かどうか、人為的に造成されたものではなかったのか、という点が疑問です。植生についてはよくわかりませんが、歴史的なある特定の時期(天皇制の開始時)に整備されたという可能性もあるのではないでしょうか。だとすれば、「神社林=自然」というテーゼはある種の共同幻想ともなりうる。また、森林保護や環境保全というような、誰にも反論できないような体裁をとりながら、その実知らぬ間に神社および国家神道が正当に擁護されていくのではないかと不安です。「神社への寄進」は丁重にお断りできても、「環境保護」って、教義や信条、主義主張に関わらず疑義を唱えにくいですから。・・・どのようにお考えになられますか?またいろいろご教示いただけましたら幸いです。
鎮守の森は、田舎育ちの私には懐かしい遊びの場でした。
確かにそれは、近代以降の植生の著しい変化から、一応は隔てられてはいますが、かといって完全に天然自然のものではないと思います。
要するに、天皇制以降に聖地として整備されたものであり、その一部は、古墳の上に作られたものもあるようです。
従って、それを絶対視し、その聖域化を図るならば、ご指摘のように国家神道の裾野を強化することになりかねないと思います。
かといって、折角保たれている植生の一方的なな破壊には同意できません。
従って、環境保全としてはそれを擁護しつつ、神道支配に関してはこれを拒絶するという二正面作戦を余儀なくされるのですが、これが、言うに易く、行うに難いことは言うまでもありません。
そこで、私の選択肢は、環境擁護の立場に立ちながら、神道との絡みが出てきたら、さっと引き、また引くべきことを主張することです。そしてその帰結は、無責任なようですが、エコノミーの支配に任せます。(字数オーバーなので次のコメントへ)
もちろんそれが良いというわけではないのですが、神道による支配の拠点となるよりはましだと思うのです。
事実、多くの神社では、既にその境内の一部を駐車場にしたり、結婚式場にしたりしています(鎮守の森ではありませんが)。
ついでながら、神道というのは極めて緩やかな解釈を許し、もって権力者のシンボルとされる要因が多いと思います。
かすかに戦前を知るものとして、当時の国家神道がいかに抑圧的に作用し、人々に理不尽な死を強制したかを経験しているだけに、そのイデオロギー支配は絶対に許容できません。
以上、あまり明快ではなく申し訳ありませんが、私見を述べた次第です。
なお、「教示いただけましたら」はおやめ下さい。
「どう思っていますか」で結構です。