立冬に風邪をひいてる生真面目さ
昨日の一句(川柳)です。私の律儀さをよく現しているでしょう(笑)。
でも、たかが風邪ぐらいでじっとしている六ではありません。
岐阜駅の構内から直接行けるハートフルセンターへ出かけました。
下の写真は岐阜駅を南から見たものですが、この右手、つまり東方にハートフルセンターがあるのです。
ロダンの愛人、花子が岐阜で生涯を終えたことなどから、それにまつわる展示や資料が常設されてもいます。
岐阜駅構内の喫茶店で人と出会い、その後名古屋へ行く予定でしたが、時間が余ったので、そこへ立ち寄ったという次第です。
常設展示を見てから、その一隅にある「平和資料室」に立ち寄りました。
前にもざっと見たことがあるのですが、もう少し詳しく見て回ることが出来ました。
ここには狭いながら、戦中の生活を示す展示から、岐阜大空襲の展示まで、私が幼少時におぼろげに記憶しているものが形を持ったまま残されています。
国防婦人会や愛国婦人会の服装、当時の中学生や、私がそうであった小国民の服装など、それを身につけていた母や、近所の子供たちの思い出と重なって現実味を帯びてくるのでした。
圧巻は1945年7月9日の夜半から10日の未明までに行われた岐阜空襲の様子です。
以下に、主な資料を掲げてみます。
昭和19年当時で、岐阜市の人口は174,676人で、戸数は39,604戸だったことを念頭に置いて読んで頂きたい。
死者 約900人(人口当たり0.5%。つまり200人に1人)
負傷者 約5,600人(同、3.2%)
全半壊 約20,500戸(全戸数の51.8%)
罹災者 約100,000人(全人口の57.2%)
この被害をもたらしたものは、ほとんどは下の写真にある焼夷弾です。
これは発火装置の付いたガソリン入りの六角形の筒が束ねられたもので、投下されると束ねたものがゆるみ四方八方に飛び散り、まるで花火のような火の雨となって、当時の木と紙で出来た家々を襲うものでした。
私はというと、幸いこの空襲下にはおらず、20キロ近く離れた大垣郊外の疎開地で、これを見ていました。「ああ、岐阜が燃える!岐阜が燃える!」という悲鳴のような声を聞きながら、東の空が真っ赤に染まるのを見ていました。
それからしばらくして、大垣の空襲がありました。
郊外だから大丈夫だと高をくくっていた私たちにも、爆弾は容赦なく襲いかかりました。防空壕の近くで1トン爆弾が炸裂し、危うく生き埋めになるところを、モグラのように両手で土をかき分けて、外へ出ることが出来ました。
静かな田園地帯で、なぜこんなところまでといった感がありましたが、実は近くにあった紡績工場が軍需工になっていたのを米はちゃんとキャッチしいたのでした。
疎開先の私の家(といっても掘っ立て小屋でしたが)は半焼でした。近くの高射砲陣地の兵隊が、もう撃つ弾もないまま防火に駆けつけ、近くの肥溜めの肥をかけて消してくれたのでした。
そのおかげで半焼でで済んだのですが、その後の臭かったこと。まさに「ヤケクソ」の匂いでした。
後で岐阜に戻ってから知ったのですが、皮肉にも、岐阜の家は、焼け残った48%の方に入っていたのでした。
そんなことを想起しながら、展示品を見て回りました。
折しも、教育基本法などが問題となっていますが、やはり、日本人の200万人が死に、近隣諸国を合わせると2,000万とも3,000万とも言われる死者を出したあの戦争を、観念的にのみではなく、現実的に受け止める教育は必要だと思います。
新しい首相がそうであるように、この国のリーダーシップは戦後生まれの、戦争を知らない人たちの手にゆだねられようとしています。
その人たちの口から、先制攻撃論や核武装の論議が出る時、「危ないなぁ」と思わずにはいられません。
レアルポリティックスの論議があります。これは根強く頑固です。なぜなら、現実の世界がその論理を中心にして回っているからです。ですから、それを全く無視してもいいとは思いません。
しかし、戦後のこの国は、アメリカの核の傘の下で庇護されてきたという危うさをもちながらも、そしてあちこちで現実的に修正されながらも、レアルなポリティックスの世界を越えた非戦の世界像を細々ながら持ち続けました。
人類は永遠に弱肉強食の「レアルな」世界にとどまっていいとするならばいざ知らず、そうではないものを志向するならば、先の大戦の経験を今一度噛みしめ、それへの傾斜を含むものを避け続けることが必要であるように思います。
その意味でも、世界史を受験の邪魔であるとして履修しないような人たちが、受験のスキルのみで著名大学に入り、政・官・財などの主要ポストを占めるような事態は、空恐ろしいものと思われるのです。
そんなことを考えていたら、風邪の軍団が私を一層攻め立てるようで、しんどくなりました。
名古屋のなじみの医師のもとで、先頃の血液検査の結果を聞き(尿酸値ペケ)、木枯らしの街をやはりなじみの寿司屋へと向かいました。
酒は当然熱燗、ハゼの刺身がうまかった。
昨日の一句(川柳)です。私の律儀さをよく現しているでしょう(笑)。
でも、たかが風邪ぐらいでじっとしている六ではありません。
岐阜駅の構内から直接行けるハートフルセンターへ出かけました。
下の写真は岐阜駅を南から見たものですが、この右手、つまり東方にハートフルセンターがあるのです。
ロダンの愛人、花子が岐阜で生涯を終えたことなどから、それにまつわる展示や資料が常設されてもいます。
岐阜駅構内の喫茶店で人と出会い、その後名古屋へ行く予定でしたが、時間が余ったので、そこへ立ち寄ったという次第です。
常設展示を見てから、その一隅にある「平和資料室」に立ち寄りました。
前にもざっと見たことがあるのですが、もう少し詳しく見て回ることが出来ました。
ここには狭いながら、戦中の生活を示す展示から、岐阜大空襲の展示まで、私が幼少時におぼろげに記憶しているものが形を持ったまま残されています。
国防婦人会や愛国婦人会の服装、当時の中学生や、私がそうであった小国民の服装など、それを身につけていた母や、近所の子供たちの思い出と重なって現実味を帯びてくるのでした。
圧巻は1945年7月9日の夜半から10日の未明までに行われた岐阜空襲の様子です。
以下に、主な資料を掲げてみます。
昭和19年当時で、岐阜市の人口は174,676人で、戸数は39,604戸だったことを念頭に置いて読んで頂きたい。
死者 約900人(人口当たり0.5%。つまり200人に1人)
負傷者 約5,600人(同、3.2%)
全半壊 約20,500戸(全戸数の51.8%)
罹災者 約100,000人(全人口の57.2%)
この被害をもたらしたものは、ほとんどは下の写真にある焼夷弾です。
これは発火装置の付いたガソリン入りの六角形の筒が束ねられたもので、投下されると束ねたものがゆるみ四方八方に飛び散り、まるで花火のような火の雨となって、当時の木と紙で出来た家々を襲うものでした。
私はというと、幸いこの空襲下にはおらず、20キロ近く離れた大垣郊外の疎開地で、これを見ていました。「ああ、岐阜が燃える!岐阜が燃える!」という悲鳴のような声を聞きながら、東の空が真っ赤に染まるのを見ていました。
それからしばらくして、大垣の空襲がありました。
郊外だから大丈夫だと高をくくっていた私たちにも、爆弾は容赦なく襲いかかりました。防空壕の近くで1トン爆弾が炸裂し、危うく生き埋めになるところを、モグラのように両手で土をかき分けて、外へ出ることが出来ました。
静かな田園地帯で、なぜこんなところまでといった感がありましたが、実は近くにあった紡績工場が軍需工になっていたのを米はちゃんとキャッチしいたのでした。
疎開先の私の家(といっても掘っ立て小屋でしたが)は半焼でした。近くの高射砲陣地の兵隊が、もう撃つ弾もないまま防火に駆けつけ、近くの肥溜めの肥をかけて消してくれたのでした。
そのおかげで半焼でで済んだのですが、その後の臭かったこと。まさに「ヤケクソ」の匂いでした。
後で岐阜に戻ってから知ったのですが、皮肉にも、岐阜の家は、焼け残った48%の方に入っていたのでした。
そんなことを想起しながら、展示品を見て回りました。
折しも、教育基本法などが問題となっていますが、やはり、日本人の200万人が死に、近隣諸国を合わせると2,000万とも3,000万とも言われる死者を出したあの戦争を、観念的にのみではなく、現実的に受け止める教育は必要だと思います。
新しい首相がそうであるように、この国のリーダーシップは戦後生まれの、戦争を知らない人たちの手にゆだねられようとしています。
その人たちの口から、先制攻撃論や核武装の論議が出る時、「危ないなぁ」と思わずにはいられません。
レアルポリティックスの論議があります。これは根強く頑固です。なぜなら、現実の世界がその論理を中心にして回っているからです。ですから、それを全く無視してもいいとは思いません。
しかし、戦後のこの国は、アメリカの核の傘の下で庇護されてきたという危うさをもちながらも、そしてあちこちで現実的に修正されながらも、レアルなポリティックスの世界を越えた非戦の世界像を細々ながら持ち続けました。
人類は永遠に弱肉強食の「レアルな」世界にとどまっていいとするならばいざ知らず、そうではないものを志向するならば、先の大戦の経験を今一度噛みしめ、それへの傾斜を含むものを避け続けることが必要であるように思います。
その意味でも、世界史を受験の邪魔であるとして履修しないような人たちが、受験のスキルのみで著名大学に入り、政・官・財などの主要ポストを占めるような事態は、空恐ろしいものと思われるのです。
そんなことを考えていたら、風邪の軍団が私を一層攻め立てるようで、しんどくなりました。
名古屋のなじみの医師のもとで、先頃の血液検査の結果を聞き(尿酸値ペケ)、木枯らしの街をやはりなじみの寿司屋へと向かいました。
酒は当然熱燗、ハゼの刺身がうまかった。