W・G・ゼーバルト、『アウステルリッツ』 再読

 改訳版にて再読。『アウステルリッツ』の感想を少しばかり。

 “この人々は故郷を追われるか滅亡するかした民族の、数少ない最後の生き残りだったのだ、自分たちしか生き残らなかったがゆえに、動物園の動物と同じ苦渋に満ちた表情を浮かべているのだ、と。――その〈失われた歩みの間〉で待つ者のひとりが、アウステルリッツであった。” 6頁

 素晴らしい読み応えだった。今回は再読だが、ゼーバルト・コレクションを順々に読んできた上でこの作品にたどり着いたので、一言では言い表せない感慨で胸がいっぱいだ。とりわけやはり、『空襲と文学』の内容を思い起こさずにはいられなかった。アウステルリッツの語りのうちに凝る寄る辺なさ、追放され存在を消し去られた子供の悲哀がひたひたと寄せてくる声の渦の中で、私もいつしか寂しさをかき抱いて蹲ってしまいたくなる…そんな心地すらした。薄灰色の雲が垂れこめる如く憂鬱な色に、頁を繰る指先が染まっていくのをうち眺めながら。

 再読と言うこともあり、冒頭に描かれるアントワープの駅舎の様子と、そこに隣接する動物園の夜行獣館の場面から、すでに言葉の端々に物語の向かっていく先が指し示されていることにあらためて気付かされた。林檎を一心に洗いつづける一匹の洗い熊の姿から、アントワープ中央駅の〈失われた歩みの間〉と呼ばれる待合室の心象へ、そしてそこでアウステルリッツとの出会いがあり、聴き手を得た彼の言葉が溢れだす…。

 前回の感想にも書いたが、“……とアウステルリッツは語った”の一句が執拗なほどに随所に挿入されてくるのが特徴で、そこに生まれる微妙な距離感が不思議と心地よい。そして更にその中には、“……と〇〇は語りました、とアウステルリッツは語った”というように、アウステルリッツの語りの中に別の語り手たちの存在があることを強く印象付ける箇所も多々ある。それらはまるで、失われた本人の記憶の埋め合わせのようでありまた、特異な孤独とともに歩んできたアウステルリッツの人生にも、本当は傍らに誰かがいてくれたことだってあるのだ…ということの証かとも思われて、しみじみと心に響いた。
 アウステルリッツの声の向こう側で静かに重なる声のあることが、たとえささやかでも大切なよすがとなって、いつの日か彼を安らぎの場所へ連れて行ってくれるのではないだろうか…と、そう、願わずにはいられない。

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