ナギーブ・マフフーズ、『シェヘラザードの憂愁』

 『シェヘラザードの憂愁――アラビアン・ナイト後日譚』の感想を少しばかり。

 《物語》のおかげで3年間生き延び、遂にスルタン妃となったシェヘラザード。《物語》のおかげで暴君として犯してきた罪をとうとう知り、統べる者として新たな扉を開けんとするスルタン・シャハリヤール。アラビアン・ナイトの後日譚であるこの物語は、《物語》の終わったその夜明けとともに幕を開ける――。
 人の心を惑わしてはつけ入り、悪戯を仕かけるジン(妖霊)たちが、我が物顔に跋扈するアラビアン・ナイトの不思議な世界! どこがどう換骨奪胎なのかわかったりわからなかったりだったけれども(なはは…)でも、本当にすみずみまで堪能できる一冊だった。
 子供の頃に憧れた、ベールで顔を隠した妖しい美女たちのたおやかな姿、煌びやかな宮廷の場面もあれば、一方には、深い信仰に基づいて敬虔に暮らす者やそれほど敬虔でもない者、富む者、こころざし高き者低き者…が入り混じり合って、賑やかに集う喫茶店の場面もあり、庶民たちの生活ぶりが活き活きと描かれている。スルタン側と市井にある者たちの物語とがどう関わっていくのか…も、読みどころである。
 その物語の内容も盛り沢山。妖霊に魂を操られ、まるで器だけを変えるように姿を変え生まれ変わりを繰り返させられる男の、数奇な遍歴があるかと思えば、夢で出会った相手に恋焦がれてしまう美男美女の恋物語もあり、他にも、街中の男たちが魔性の女に手玉に取られる話、ジンの悪戯で堕落してしまう若者の悲劇…などなどと、群像劇としてもとても面白かった。いささか死者の数にはあきれるが、そういう世界なんだなぁ…と思ったり。

 タイトルにもなっているシェヘラザードの憂愁とは何のことなのか。厖大な《物語》を語り終えたことによって、あらためてシェヘラザードの心にさした翳。その憂愁の元。それは、いくら心を入れ替えたとは言え本性までは変えられない、夫スルタンへの拭い去れない不信。それまでにスルタンが流してきた、罪のない大勢の処女や信心深き人々のおびただしい血の匂いへの嫌悪だった…。
 シェヘラザードの憂愁の元は、実はスルタン・シャハリヤールの胸を苛む自責の思いや罪悪感と根は同じなのだ。二人に圧し掛かる過去の罪の重み。シェヘラザードの憂愁とスルタンの悔悟の念、この二つが物語全体を貫いてどう変わっていくのか。シェヘラザードの憂愁は晴れ、シャハリヤールの悔悟と自責がやわらかく解ける日は果して来るのか…? 
 意外なラストだったが、深くてずしり…と響いた。素晴らしい、と思った。 

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