イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

雄弁なる空白

2007-07-18 20:31:11 | テレビ番組

 気がつけば、地元北海道日本ハムファイターズ、先日単独首位になったと思ったら、いつの間にか2位(=17日終了現在千葉ロッテマリーンズ)に4ゲーム差もつけているではないか。

 なんぼなんでも話がうま過ぎやしませんかね。地元なのに失礼だけど。

 昨年の前半戦ぐらいまでは「先行して追いつかれて、勝ち越してまた引っくり返されても、もう1度追いつくまでは行けるんだけど、延長に持ち込むまでが精一杯で、そこから勝ちきれないよね」「ホームで後攻めでもね」「そこまでの戦力しかないもんね」が月河の周りでも定評でしたが、地位が人をつくるの喩え通り、昨シーズンのリーグ戦1位通過→プレーオフ優勝→日本シリーズ優勝→アジアチャンピオンと勝ち進んでタイトル数積み上げてきて、チームとしてもひと皮むけたのかな。

 昨年に比べて、戦力アップしてるとはお世辞にも言えないと思うんだけどなぁ。小笠原いないし。岡嶋メジャー行っちゃったし。

 今日のソフトバンク戦が前半の締めくくりとなります。2勝1敗で折り返したいな。

 もう一日新垣渚投手投げてくんないかな(甘)。好きなところ投げていいから(嘲)。

 巨人と日本シリーズ戦うことになったら、小笠原選手は複雑だろうなあ。

 『金色の翼』第13話。

 今日は良かったスよー。ホント観続けててよかった。

 「姉さんの悪い噂を流したのはオマエだ」と逆恨みで玻留に鉄パイプ殴打された槙を修子がブラジル流の手作り湿布で介抱、「あなたが誰を殺していようといまいと関係ない、オレに大切なのはいまのあなた自身だ」と偽り?のキスに持ち込む甘いシークエンスにドキドキした向きも多かったでしょうが、月河はむしろCM後Bパート、槙の部屋にかかってきた電話が「…ワタシです、日ノ原です」から始まったくだりに、これぞサスペンス!と心地よいドキドキを楽しめました。

 何せ狭いエリアですからねー。3話で不審者騒ぎの夜の不在をセツに咎められそうになって、修子に助け舟を出してもらった理生が「このホテルは携帯は圏外だし、外線が通じるのはラウンジの電話室と伯母のデスク、あとは槙の管制室だけ」と修子に説明、7話ではそのラウンジの電話室に掃除のふりで隠れた理生が槙と、修子への接近作戦を密談後、電話室のドアを開けるとドキッ!玻留が寝そべっていて…というくだりは、どちらも今日の、修子の槙を案じる電話の場面への伏線だったことがわかる。

 金谷祐子さんの脚本、こういう伏線埋設の周到さ得がたい魅力のひとつです。先日も石野料理長が原産地・南米からタヒボ茶をお取り寄せ、到着を待ち侘びる描写が再三あり、コレどういう意味があるんだ?誰かが誰かに毒でも盛るのか?と想像していたら、“荷の中の包装材に使われたブラジルの古新聞”と来て、それがあったか!と膝を打たされたばかり。

 「ここからなら彼と話せる」と後ろめたさを封印し電話室に忍んで来たに違いない修子。その胸中や思うべし。この狭さの中で人目を避け連絡を取り合うことの難しさ。まさにラブ・サスペンスの醍醐味。

 いつでもどこでも携帯・メール、ピーピー言わせる現代の2時間サスペンスや若者向け漫画原作ラブコメでは味わえない、大人のドラマの切迫感です。

 しかも修子が槙の殺し文句「骨でも折れてたほうがよかった、アナタがまた来てくれたのに」に思わず疚しさを感じ「…お大事に」と電話を切ってドアを開けると、掃除途中の理生が意味深な表情でこちらを見つめている。咄嗟に「ブラジルに国際電話をしようと思ったけれど向こうは夜中だったわ」とウソがクチをついて出る修子。もう泥沼に片足突っ込んでいる。

 一方管制室の槙は突然すげなくなって切れた電話に「…勿体つけやがって」とひとりごと。普通に「もっと声が聞きたかった」「会いに来て欲しい」の本音は、誰も聞いていなくても、自分に対しても言えない。

 槙&理生は金持ちたらし込みでカネと自由ゲット。修子には痛みを共感してくれる、無骨だけど優しい若者との、表向き迷惑と言い張りつつも心蕩かされる出会い。事態はどんどん前へ、むしろ3者全員に歴然と好ましいほうに進捗しているのだけれど、その全員“ウマー”より“苦さ”が増して行くアンビヴァレンツ。

 ようやく、「面白くなってきた」と心から言える地合いになってきました。

 このドラマ“当たり前のことが当たり前にできているすごさ”を感じさせる一つが、修子の亡き夫=“国家さえ動かせると豪語した大富豪”日ノ原タツヨシがどんな男だったのか、13話の今日までいっさいヴィジュアルで見せていないこと。これを1カットでも見せてしまったら、この虚構を虚構たらしめている根拠が、根こそぎ存立危うくなるのです。

 「親子ほど年齢が離れていた」とだけ修子にセリフで言わせていますが、普通なら「夫をまだ愛している」未亡人、ホテルの私室に、遺影のプライベートスナップ1枚ぐらい飾っておきそうなものなのに、あえてさせない。

 亡夫がそれこそクマみたいな巨漢の偉丈夫であろうと、洒落のめした若作り色男であろうと、変態チックなヒヒジジイであろうと、画像1枚出た途端、一気に、修子のパーソナリティを規定する“意味”が発生してしまう。演出家さんがここを心得ているのです。

 その代わり修子のブラジル時代の回想として、メイドの手相見のシーン、事故を告げられるシーンと、あまりに概念的、て言うかぶっちゃけアニメチックな墜落イメージCGだけが繰り返し流れますが、修子のミステリアスさを保つためには、これが限界。

 “そもそもどんな男に、妻として連れ添っていたのか”を観客から晦まし、マスキングすることがどれだけ重要か。当たり前だけど当たり前ゆえに見落として踏み越えがちな箇所を、このドラマのスタッフはやはりよくわかっていると思う。

 台詞やカットを積み重ね、描き込んで描き込んで虚構を緻密にして行くのは簡単ですが“描かない”ことで補強するのには勇気が要る。これはいくら強調して褒めても褒め過ぎにならないはずです。

 何だかんだで先々有望です、このドラマ。

コメント (2)
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