![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/cb/6fab9625e0e5324ecdc7a846ef58364d.jpg)
政宗の母である義姫が政宗のもとを離れて山形に出奔した時期は彼女が政宗の毒殺計画に失敗し、かつ彼女が溺愛していたとされる次男の小次郎が政宗により惨殺された直後(1590)と考えられていたが(仙台藩の正史である「貞山公治家記録」に記述)、その当時は政宗の居城が会津黒川城(後の会津若松城)と米沢城の二つであったが、平成になって発見された史料(※注)によると4年後の文禄3年であったことが記述され、これが現在では彼女が山形に出奔した年代を知る有力な史料とされている。[※注:政宗の幼少からの学問の師、虎哉禅師の手紙]
つまりこの文禄3年における政宗の居城は岩出山城であり、彼女が政宗の居城から出奔したのは会津黒川城からでもなければ米沢城でもなく、岩出山城からということになる。[12月2日と4日の記事参照 特に4日の記事http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20091204]
それではどうして彼女(義姫)が岩出山から出奔したのであろうか。
義姫が岩出山まで政宗と一緒だったということは政宗毒殺未遂事件の史実性を疑わせることにもなる。政宗のもとから身を隠すには事件の直後しか考えられないから、4年も後となると、毒殺未遂事件とは別の理由を推察するしかなくなる。続く
◆写真は義姫が住んだ悪戸集落内を流れる小河川 現在この集落にはかなりの数の豪壮な土蔵や母屋を構える旧家が多く目にとまり、歴史の里であることがうかがえる