山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

仮称「ホームレスキャッツを愛する会」

2006-01-20 06:48:14 | 街づくり

 体を寄せ合って暖め合う猫たち

 昨年の今頃の猫たち。現在も健在なのは何人(何匹)なのか。

 仮称「愛する会」のメンバーが抱っこしてくれている。

 私がよく通る公園では深い積雪と厳寒の中でも逞しく生き抜こうとしているホームレスの猫たちが目につく。だが彼らは自ら選んで家を失ったのではない。多くは幼くして捨てられている。
 それでも常夏の南国ならまだ良い。非情にも日中でも氷点下の雪だらけの中で毎日を過ごさなければならないのだ。すごく過酷な境遇である。
 それでも意外に顔も毛色もキレイで、ふくよかな猫が多い。それは彼らを支援する参加自由の人間様たちがいるからのようである。グループみたいでもあるが、会員登録もなければ、会長も会計担当もいないし、総会も定例会もないから、グループでもない。ただ思いは一つで彼らは行動する。
 野良猫であっても可愛いし、厳寒の中放っておくだけでは忍びない。ほんの僅かでも猫たちが生き延びることを願い支援の手を差し延べたい。それだけのことである。
 むろん公共施設たる公園で野良猫が増殖することは公衆衛生上好ましくないから、エサを与えるべきではないという声もあるし、公園管理者たる役所も猫を“歓迎”しない。それでもホームレスちゃんたちを支援する人たちも少なくない。
 だが、我が家の馬鹿助氏のようにコタツで暖まり過ぎると2階の陽光が射す部屋に移動するような幸せ過ぎる境遇とは大違い(1月8日の記事をご覧あれ。左のカレンダーの日付をクリック!)。夜はどこでどうして過ごすのか。体を寄せ合って春の夢を見ているのだろうか。早く、ハールよ来い!
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山形城跡に白鳥はまだか?

2006-01-19 00:41:26 | 風景
 昨年1月の今頃山形城跡の西堀で羽を休めていた白鳥たちの姿が今年はまだ見えないし、うわさも耳にしていないが、どうしたのだろうか。早い深雪で彼らも季節感覚が狂って、来れなくなったのであろうか。
 もし、見かけた方、是非ご一報願いたい。
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ゆき(雪)はよいよい、歩くはこわい、こわいながらも・・・・・・

2006-01-18 00:20:23 | 風景
 今回は、プロ級の写真愛好家の撮影による山形の雪景色の写真とホームページを紹介したい。
 これをご覧なる方は北国山形の冬の現実を更によく知ることができると思う。むろん、山形市街地は山形県の内陸部では最も積雪が少ない地域なので、その他の地域の雪の多さは推して知るべしなのである。
 そのホームページの開設者の方はyamuというネームで管理しておられ、また、「すんぴた」という山形弁的なネームでブログも開設されており、このホームページ「山形市の街並み」を見る限り、私に負けず劣らず山形弁愛好者のようである。被写体の犬や猫、ファッションモデルのようなお嬢さんまで山形弁をしゃべるのだから、写真とともに親しみが湧いてくる。こうして、2002年には第8回「ぼくの街わたしの村」マイタウンマップコンクールで内閣総理大臣賞に輝いている。
 ここに掲載(むろんyamu氏の撮影)した写真は多分1月上旬に撮影されたと思われ、霞城公園(山形城跡東大手門)に至る道路で殖産銀行の北側付近のようである。

是非、下記のURL(ホームページのアドレス)をクリックしてyamu氏のホームページをご覧くだされ。
 

http://www.ne.jp/asahi/yamagata/yamu/
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雨ニモ負ケズ、雪ニモ負ケズ

2006-01-17 09:23:22 | 街づくり
厳寒の朝、年齢の合計が百歳+αを超える2人の雪国美人が喋りながら世の為人の為の奉仕に励んでいる。

“Naedate mada kono huguro sa hedde ware gomi haite i-jje! yandagu naru nnega?” “Ndazu ne! Nanbo yutate kadatate wagarane hito ikkara, nmagunai no-ddazu.”(訳は下記に)

ここは某町内のゴミ集積所。この2人は何年も、雨の日も風の日も、真夏の朝の強い陽射しの時も、厳寒の雪の日も、出されたゴミや廃棄物、この日はビン、カンが正しく出されているかを点検しつつ、ビン、カン以外のゴミを取り出す作業を行っている。
 話を伺えば、いまだに正しいゴミの出し方をしない人が後を絶たず、町内外から持ち込まれることもあるという。この苦労、もっと多くの市民、住民にわかってもらいたいものである。

(訳文) 「何だってまたこの袋に入れてはいけないゴミが入っているよ~。嫌になりますよね、違いますか。」「そうですねえ。いくら言っても語ってもわからない人が居るからうまく行かないんですよね。」

※[注]・・・---nnega?は、「~ではないですか」或いは「~とは違いますか」という意味になる。

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レトロな雪国美人の山形弁 (3)

2006-01-16 06:25:14 | Weblog

鈴子「ナニシッタナヤ、君子サン、センタグガツメタイベナ、ホンデモ兵隊サンノコトオモッタラ、ナンデモ、ナエヅダ、ドレ水クンデケッカ、早クスロヅ」 君子「ヤンダツタラナァ、鈴子サン、ホダェ水バザッザァー、カケタラ、キモノサ、カガンベナ、ヨケロヅ」

鈴子「何してるの 君子さん、お洗濯、冷たいでせう でも兵隊さんの事思へば何でもありませんね 妾(わたし)、水くんであげるは、早くしなさい」 君子「いやよ、鈴子さん、そんなに水を急にかけては着物にかかるでせう、止しなさいよ」

 ※戦前の方言写真絵葉書から (雪中の洗濯風景、会話にも戦時下色)  かな遣い、句点、訳文は原文のまま

山形弁の宣教師たち (1)伴淳三郎 「伴淳」の通称で親しまれた往年の喜劇俳優。 (2)谷村昌彦 天童出身の往年の歌姫佐藤千夜子が主人公のNHK朝の連続ドラマ『一ばん星』の脇役として地の山形弁で出演。 (3)おしんと脇役たち 日本のテレビドラマ史上最高の視聴率が今なお不動の『おしん』の山形時代の主人公と脇役たちの山形弁は日本中に強い印象を残した。 (4)ダニエル・カール 英語教師として山形県に赴任して山形弁に馴染み、現在「山形弁研究家」のタレントとして超有名。 (5)映画『スウィング・ガールズ』の女子高生たち 山形弁とも置賜弁ともつかない方言を喋り、都会の若者たちに「可愛い」と大受けした。ただし実際の最近の東北地方の女子高生は日常でもほとんど方言を話さなくなっているからメンゴグナイ(可愛くない)。東北弁は絶滅するのか、復興するのか?!

 

 

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レトロな雪国美人の山形弁 (2)

2006-01-15 20:44:49 | Weblog

とし子「オラサムクテ、ハヤク、アベハァ」 武子「マッテロマヅ、オレダッテ、サムイノハ、オンナヅダナヤ、戦地ノアンツアンノコト、オモッテ、ミンダ、コダナコト、ナンデモナエベナ」 とし子「ンダナ、オレダッテ、銃後ヲ護ル日本女性ダケナ」 武子「ンダヅ、ンダハゲ、ガンバテスロヅ」

とし子「わたし 寒いわ 早く行きませう」 武子「お待ちなさい、わたしだって寒いのは同じよ、戦地のお兄さんの事を思えばこんな事何でもない事よ」 とし子「そうね、妾(わたし)も銃後護る日本女性だったわね」 武子「そうよ、だから元気をだしてやりませう」  
 
 ※戦前の方言写真絵葉書より 戦時下であり、軍国調であることがわかる。
  かな遣い及び訳文は原文のまま


山形弁講座  山形弁とは山形市を中心とする村山地方の方言であり、山形県全体で話されているわけではない。山形県は大まかに4つの地方に分けられ、庄内、最上、村山、置賜のうち、庄内、最上の方言は北東北弁、村山、置賜の方言は南東北弁に属する。なお、南東北弁には茨城、栃木などの北関東方言も含まれる。どちらかと言えば北東北弁は抑揚が大きめで軽やかな感じなのに対し、南東北弁は抑揚がなく平板な口調で重い感じがする。
同じ山形県人でも庄内弁と村山弁で会話してもあまり通じない。また同じ村山弁でも小地域ごとに微妙な差異があり、「共通村山弁」なるものは存在しない。

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レトロな雪国美人の山形弁 (1)

2006-01-14 13:31:08 | Weblog
「アリャアリャ ナエダテ 雪フッタナレ」「ンダリャ、ユキハキスンベ」「今日ダラ、高湯、上ノ山サ、スキーニング人、ウント、エダベナァ」「ンダベ チャエ」「オレモ ンカナァ」「アノナレ、オレモ、ングハゲテ アェベ」

「あらあらずいぶん雪降ったわね」「そうね、雪はき致しませう」「今日なら、高湯、上ノ山にスキーに行く人随分あるでせうね」「そうね」「わたしも行くかしら」「(あのねえ)行きませう わたしも行くから行きませう」

 ※戦前の山形弁写真絵葉書より(かな遣い及び訳文は原文のまま)
高湯とは現在の蔵王温泉のこと この時代も既に蔵王でスキーをする市民がい  たことがわかる。
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住民自治は厳冬の中から

2006-01-13 14:11:30 | 街づくり
 たとえ他に何もなくても、いろりに炎さえあれば、皆は少しもたいくつすることはない。炎は形ある薪木をしばしの時間をかけて灰にする。その経緯をながめているだけで、何となくしみじみとした情感が湧いて来る。
 いろりを囲む農民たちは炎のゆらめきを眺めながら、さまざまな想いをめぐらし、色んな話題をぶっつけ合う。
 やがて自在鈎につり下げられた鉄びんの湯が熱くなり、湯気が上り、快い音を響かせる。薪は一層パチパチと勢いよく燃え上り、煙もゆったりとその姿をくねらせる。
 火種が少なくなった部分に誰とはなしに薪がくべられる。こうして炎がある限り語らいは続けられる。たとえ沈黙の中でも、炎と煙、湯気と鉄びんの音は何かを語ってくれる。こんな語らいの中から、農民たちの助け合いの精神が生まれたのであった。

“Kinna kiida tenki yohou dado,kyou wa Niigada adari wa atakagu nate,nadare ba sunpai sannane te yuu hanasu dagento,naedate Yamagada wa samui nnega? ”“Ndazu nee! Ora no te mo tsuttakute wagarane-ssu.”“Magi ba tanto kubede heya ba motto atakagu sunbe-ssu.”[訳]→ 「昨日聞いた天気予報では今日新潟辺りでは暖かくなって雪崩の心配をする必要があるとの話ですが、何だって山形は寒いではないですか。」「そうですね。私の手も冷たくってどうしようもないですよ。」「薪をたくさんくべて部屋をもっと暖かくしましょう。」

※近郊の某集会場で語り合う男衆。文章は管理者(写真、文とも30年前)
※今日の朝の最低気温は-9.3℃、最高気温は-1.3℃で真冬日



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山形の名建築(16) 山寺駅

2006-01-12 23:43:12 | 建物
 山寺というと松尾芭蕉が訪れた立石寺が余りにも有名だが、山寺の表玄関ともいうべき山寺駅自体も重要な観光スポットとして挙げてもよいだろう。
 JR仙山線(旧国鉄)の山形駅・山寺駅間が開通したのは昭和8年であり、現在の駅舎は当時の建造である。仙山線の仙台・山形間の全線開通は昭和 年であるが、戦後しばらくまでは山寺駅構内に転車台が見られた。
 この駅舎の外観は山寺にふさわしく寺院風であるが、小作りのため可愛らしくもあり、女性観光客に人気がある。何度かの改装があったが、この寺院風の外観だけは変わらない。建造後72年になり、もはや歴史的建造物としての評価も高まっている。この愛される外観のゆえに全国的にも有名な駅舎として色んな写真書籍やグラビア誌にも登場する。
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雪があれば橇(ソリ)には便利

2006-01-11 22:51:36 | 街づくり



 連日新潟県津南町の超豪雪のニュースが報じられている折、隣県の我が家で亡父の古い絵葉書アルバムの中に「雪の十日町」という古い写真絵葉書が10枚保管されているのを見つけた。どんなわけで我が家に残されていたのか、また写真撮影の正確な年代は不明だが、戦前のものと思われる。
 十日町と言えば現在は津南町のすぐ東隣の信濃川沿いの都市だが、やはり以前から豪雪地帯として有名だったことがわかる。それにしても洒落たデザインの絵葉書にするなど当時の市民の“余裕”すら感じられるから、豪雪にも増して驚きである。
 10枚の写真とも凄い高さの積雪だが、この度は2葉のみの紹介に留める。
写真では、町の主要道路も雪捨て場として使われていたことがわかる。歩行者だけのためならわずかの幅だけの除雪ですませ、または積雪の上を踏み固めて通路として事足れりとしたようだ。また雪道は橇(ソリ)利用の物資輸送には好都合ですらあった。つまりモータリゼーションは雪を「完全排除」の対象とし、こうして積雪が人命にかかわる本格的災害に達する以前に雪害対策予算を使い果たす自治体を相次がせている状況である。だから現代では雪に埋もれた街並みを絵葉書にする“余裕”など生じえないであろう。
 上の写真では「清川八郎」の映画か芝居かの立て看板が見られるが、清川八郎は羽越線の列車が横転した事故現場がある庄内町出身の幕末の志士であり、異常気象がもたらした奥越後の豪雪と庄内町の突風とは深い因縁で繋がれていることを象徴するような写真とすら考えたくなる。
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