らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

京都日帰りの旅(その5)京都府立植物園(1)

2011-09-20 | 旅行

熊取町文化振興連絡協議会が主催する社会見学会 京都日帰りの旅は午後から京都府立植物園を訪れました。

「京都府立植物園」
京都府立植物園は日本で最初の公立植物園として1924年(大正13年)1月1日に開園したそうです。
面積24ヘクタールの広大な敷地の園内には約12000種類、12万本の植物が植えられており、日本の四季の花が見られる花壇や洋風庭園、熱帯植物を集めた温室などがあります。
園の北半分には宿根草 有用植物園や“なからぎの森”と呼ばれる自然に近い森を利用した生態植物園などがあります。

・広大な敷地を持つ京都府立植物園です。正面奥の森が“なからぎの森”で、その手前左側に温室があり、右の木立の中には花菖蒲園や生態植物園などがあります。


熱帯植物を集めた温室です。この植物園では温室の植物を中心に見学しました。


「パラグアイオニバス」
温室の前の池に咲いているパラグアイオニバスです。葉の直径は1~1.5mになりますが、オオオニバス(大鬼蓮)よりは小型のようです。
パラグアイオニバスは夜に白い花を咲かせ、朝になると閉じ、そして、二日目の夕方には同じ花がピンク色に変わってもう一度開くそうです。


パラグアイオニバスの花ですが、昼間はこのように閉じています。


「ベニヒモノキ」
トウダイグサ(灯台草)科、エノキグサ属の非耐寒性常緑低木です。原産地はマレーシアで、日本には明治末期に渡来したようです。                      
キャッツテールと同じ仲間ですが、この花は50㎝以上と長く、木の枝から垂れ下がって咲く花序はとてもよく目立ちます。




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京都日帰りの旅(その4)平安神宮

2011-09-19 | 旅行

“京都日帰りの旅”シリーズの4回目は平安神宮をご紹介します。

今回の社会見学会では平安神宮はコースに組み込まれていませんでしたが、昼食場所が京都市左京区の岡崎にある平安神宮の傍だった関係で、昼食後、集合時間までの30分弱の時間を利用して見学してきました。
ここでも時間の関係でゆっくり見学できず、数十年ぶりに訪れた平安神宮も應天門と大極殿のみで戻ってきました。



「平安神宮」
平安神宮は明治28年(1895年)桓武天皇の平安遷都1100年祭を記念し、桓武天皇を祭神として創建された神宮です。
紀元2600年にあたる昭和15年(1940年)には、平安京最後の天皇である孝明天皇も合祀されました。
社殿は平安京の政庁の中心である朝堂院の形式をおよそ三分の二に縮小して復元したものだそうです。

・中央の建物が大極殿で、一層入母屋造りの拝殿となっています。左右の楼閣は右が蒼龍楼、左が白虎楼で、いずれも平安京のものを厳密に考証して復元したもので、京都市の指定文化財です。
 大極殿の右前には左近の桜が、左前には右近の橘が植えられています。


「應天門(神門)」
二層の神門は應天門、本殿の背後一帯は約3万㎡からなる広い神苑で、4つの池を中心に各時代の庭園形式を取り入れた池泉回遊式の明治を代表する庭園で、国の名勝に指定されています。

應天門(神門)です。


「大極殿(外拝殿)」
大極殿は古代の役所の建造物の中で最も重要な建物で、天皇が政務を執られ、朝賀・即位などの重要な儀式が行われました。
規模は往時の約二分の一で、屋根は一重、入母屋造りで、碧瓦(みどりがわら)を用いた本葺きです。
平安神宮の大極殿は、平安時代の栄華を偲ぶことが出来る唯一の文化遺産です。

・この大極殿は明治28年、平安遷都1100年記念事業の一環として、平安時代の儀式を模して建造されました。


「蒼龍楼(そうりゅうろう)」
この楼は、西方の白虎楼(びゃっころう)と共に平安の朝堂院(ちょうどういん)の様式を模したものです。
屋根は四方流れ・五棟の入母屋造(いりもやづくり)・碧瓦本葺(みどりがわらほんぶき)が施されています。
蒼龍・白虎の名称は「この京都が四神(ししん)相応の地」とされたことに因むようです。
なお、四神とは、東に蒼龍(そうりゅう)・西に白虎(びゃっこ)・南に朱雀(すじゃく)・北に玄武(げんぶ)で、天の四方をつかさどる神です。


「白虎楼」


(参考)
「時代祭」
桓武天皇によって長岡京から平安京へ都が移されたのは10月22日のことで、その日を記念して、 毎年10月22日には京都三大祭のひとつに数えられる時代祭が行われます。
時代祭では、平安時代から明治維新に至る約1000年間の京都の時代風俗を再現した、華麗な行列が京都市中を歩きます。

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京都日帰りの旅(その3)鞍馬寺(3)

2011-09-18 | 旅行

京都日帰りの旅シリーズは3回目となります。
鞍馬寺本堂は鞍馬山の中腹、標高410mの位置にあります。

「鞍馬寺本堂」
鞍馬寺はもと天台宗に属していましたが、1949年以降独立して鞍馬弘教総本山となっている宗教寺院です。
山号は鞍馬山で、開基は鑑真和上の高弟鑑禎(がんてい)上人が宝亀元年(770年)にこの地に草庵を造り、毘沙門天を安置したのが創始と伝えられています。
本尊は、寺では「尊天」と称しています。
尊天とは、毘沙門天、千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体の本尊であると言われており、全宇宙を治める大霊・尊天です。
今から650万年前に金星からこの地に神が降り立ったと云う伝説が伝わる不思議な雰囲気のある寺です。

鞍馬寺の本殿です。御住職より有りがたい法話を聴かせていただきました。


鞍馬は牛若丸(源義経)が修行した地として有名であり、鞍馬天狗でも知られています。

・鞍馬寺の境内です。


「瑞風庭」
瑞風庭に立てられている説明によれば、『この庭は650万年前、人類救済の大使命を帯びた護法魔王尊が金星より「焔(えん)の君たち」を従えて、今まさに聖地・鞍馬山に降臨せんとする相を形象化したものである』と記されていました。



北庭の白砂盛は魔王尊の乗り物「天車」を意味しています。
南庭は組井筒と大刈り込みによって鞍馬山を表現し、石組は魔王尊を表すとともに奥の院の盤座を象徴しているそうです。


奥の院まで800mの表示があったので行ってみることにしました。
これより奥の院への参道になります。


「冬柏庭(とうはくてい)」
山門を潜ってしばらく行くと「冬柏庭」がありました。
この建物は与謝野晶子の書斎で、昭和4年12月に晶子の50の賀のお祝いに弟子たちから贈られたものです。
当初は東京杉並区荻窪にありましたが、昭和51年4月に鞍馬山に移されたそうです。


「義経息継ぎの水」
更に進むと「義経息継ぎの水」の看板がありました。
牛若丸が毎夜、奥の院僧正が谷へ剣術の修行に通った時、この清水を汲んで喉を潤したと説明されており、8百余年後の今も湧き続けているそうです。



この場所から奥の院まではまだ550mの表示が立てられており、集合時間を考えた時にこのまま進むのは無理と判断し、ここで引き返すことにしました。

 

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京都日帰りの旅(その2)鞍馬寺(2)

2011-09-17 | 旅行

昨日に続き、鞍馬寺の2回目をご紹介します。

ケーブルカーの終点、多宝塔駅から鞍馬寺本堂までは細い参道が456m程続いています。

・鞍馬寺本堂に続く参道です。


参道の途中にある弥勒堂です。
「弥勒堂」
このお堂に掲げられている説明によれば、『釈尊の滅後、56億7千万年を経てこの世に出現し、人類を救済すると云う弥勒菩薩が祀られている』と書かれていました。
現在、地球が誕生して45.5億年、釈尊入滅後2550余年と言われています。
弥勒菩薩が出現して人類を救済するのは早くても56億6999万7450年以降と言うことになりますが、その時には、地球が誕生して102.2億年になります。
地球は大丈夫でしょうか?


この弁天さまも参道の途中に祀られていました。
「巽の弁財天」
ここの説明板によれば、『本殿の東南(巽)の方角にあるので「巽の弁天さま」と呼ばれ、福徳、智慧、財宝、技芸を授ける神として信仰されています』と書かれていました。


本殿への参道です。
この石段の中ほど(白い衣装の二人がいるところ)に寝殿がありました。


「寝殿」
この寝殿は大正13年に木曽の御料林の檜材の御下賜を得て、平安時代の寝殿造りを忠実に模って建立され、同年、貞明(ていめい)皇后(大正天皇の皇后)さまが行啓された折、御休息された建物です。
昭和41年に一部増改修され、今は毎年8月1日より3日間奉修される「如法写教会」の道場となっています。

・寝殿です。



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京都日帰りの旅(その1)鞍馬寺(1)

2011-09-16 | 旅行

先日、京都への日帰りバスツアーに参加してきました。
今日から数回に分けてご紹介します。

今回の京都日帰りの旅は、熊取町文化振興連絡協議会が主催する社会見学会として企画されたものです。
民間の旅行会社が企画するような観光目的ではないため、見学先は鞍馬寺、府立植物園、そして井筒八ツ橋の追分工場の3か所のみでした。

「鞍馬山」
鞍馬山の中腹にある鞍馬寺は平安京の北にあって、比叡山の延暦寺と共に平安京を守るために建立されたのもので、つまりは国家鎮護のためと言われています。
正面に見える門が鞍馬寺の仁王門で、その後方の山が京都市左京区鞍馬にある、標高569メートルの鞍馬山です。
鞍馬山は貴船川対岸に位置し、全山に杉や桧の巨木が生い茂っており、平安時代から春は雲珠桜、秋は紅葉の名所で、鞍馬天狗や牛若丸ゆかりの山でもあります。


「仁王門」
鞍馬寺の仁王門は寿永年間(1182~1184年)に建立されましたが、1891年(明治24年)に焼失し、1911年(明治44年)に再建され、更に昭和35年に移築改修が加えられました。
向かって左側の扉一枚は寿永の頃のものだそうです。
仁王像は湛慶(たんけい:1173~1256年)作と伝えられ、明治の再建時に丹波より移されたと言われています。

なお、仁王門を入ってしばらく行くと、1957年(昭和32年)に開通したケーブルカーが山門駅から多宝塔駅まで通じており、私たち一行はこのケーブルカーに乗車して鞍馬寺に参拝しました。



仁王門の屋根の造りです。


ケーブルカーの山門駅までの参道です。


「多宝塔」
ケーブルカーで約2分乗車すると多宝塔駅に到着します。駅を出ると多宝塔が出迎えてくれます。
本殿の東隣にあった多宝塔は文化11年(1814年)に焼失しましたが1960年(昭和35年)4月、鞍馬山開創1200年記念事業の一環としてこの地に再建されました。
塔内には舎利宝塔と尊天三尊像(千手観世音、毘沙門天王、護法魔王尊)を奉安しています。





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「初老」と「老人」について

2011-09-15 | 雑学

今日9月15日は老人福祉法第5条で定められた「老人の日」です。そして、今日から21日までの1週間は老人週間と定められています。
では、老人とは何歳からを言うのでしょうか?
そこで調べてみました。

老人の定義として、WHO(世界保健機構)では、65歳以上と定義しています。
日本では、年齢による明確な定義はありませんが、「老人保健法では70歳以上、寝たきり老人は65歳以上を老人としており、統計などでは65歳以上を老人とみなしているようです。

・画像提供は“安原地域サロン”さんHPより



65歳以上を老人と定義するなら、「老年に入りかけた年ごろ」を指して言うところの「初老」とは何歳をいうのでしょうか?

広辞苑によると、初老とは、老境に入りかけた年頃のことで、40歳の異称とあります。
驚きました。40歳は老いの始まりなのです。

この40歳の謂れは、奈良時代に遡ります。
当時、中国から伝わった礼式で、40歳の「初老」を祝う "四十の賀(しじゅうのが)" がありました。
この行事では、40歳で『初老』を祝い、以後10年ごとに無病息災を祝いました。

しかし、高齢化が進み平均寿命ものびた現代では、40歳の初老には抵抗がありますね。
NHK放送文化研究所が行った調査で、初老は何歳か尋ねたところ、全体の42%が60歳ぐらいからと答えたそうです。
更に、10代では「初老」は平均48.8歳と回答し、50代の意見では平均59.1歳となり、年代によって初老年齢に幅がある結果が出ています。
この事は、初老と呼ばれる年代に近づくにつれて、その人たちはまだそうは呼ばれたくないという心理の表れとみられます。
実際、私は既に老人の年齢に入っていますが、気持ちの上ではまだまだ若いと思っている一人です。

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「乾パン」について

2011-09-14 | 雑学

今年は東日本大震災や集中豪雨などによる自然災害が各地で発生しています。
そこで今日は防災グッズの中から防災用非常食としてお馴染みの「乾パン」を取り上げました。

乾パンは元々は日清戦争後に旧陸軍が開発した携行食だったそうですが、戦後、一般の消費者向けにも販売されるようになりました。
乾パンは「非常食」のイメージが強く、東日本大震災後、「3月いっぱいは品薄状態」となったメーカーや、震災後の2~3日で通常の1カ月分の注文を受けたメーカーもあったそうです。

極限まで水と油分の含有量を抑えて製造されており、非常食としての用途の他にも登山者の携行食糧として用いられたり、普段からおやつとして楽しむ消費者もいます。
自衛隊では現在も非常用糧食として使われているそうです

・市販されている「乾パン」です。


乾パンの名称は、製法で二度焼きすることから当初は「重焼(じゅうしょう)パン」と呼ばれたそうですが、「重傷」を連想させるため、今の乾パンになったと言われています。
食感は硬くて味のないビスケットのような食感ですが、消化吸収の良さはビスケットの2倍だそうです。



私は子供の頃食べていた食感が忘れられず、今でも偶(たま)に買ってきては、懐かしい味を噛みしめています。

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秋野菜の栽培準備

2011-09-13 | 家庭菜園

大阪・熊取地方は連日33度前後の厳しい残暑が続いています。
残暑は厳しくても、9月中旬になると、家庭菜園では秋野菜を植えるための畝作りの作業が待ったなしの状態となります。
このため、私の畑ではスイカやトマトなどの収穫が終わった畝を片づけて、秋野菜を植え付ける畝立てをしているところです。

今日は私の畝作りについてご紹介します。

・スイカを植えていた畝です。半月ほど前に石灰窒素を散布して土壌消毒をしています。


鍬で畝立てをするために、一畝ずつ立てていきます。
その方法は、1畝分より少し広めに小型耕運機で耕します。
そして、その中央に溝を掘り、元肥えとしてバーク堆肥と発酵ケイ糞を入れます。

・バーク堆肥を入れたところです。


・バーク堆肥の上に発酵ケイ糞を入れました。このあと耕運機でよく混和します。


・鍬を使用して土を戻し、1畝ずつ立てていきます。


・スイカの跡地はこれを7回繰り返して仕上げました。


9月いっぱいはこの作業の繰り返しで忙しい毎日が続きそうです。
私の愛車「ロビン」号には20年近くの老体に鞭打って頑張ってもらわなくてはなりません。現時点では、先日、タイヤ交換しただけで悪いところはなく、よく働いてくれています。




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中秋の名月

2011-09-12 | 季節

今日は旧暦8月15日です。
今夜は「十五夜」で満月となり、この夜の月は特に美しいとされ、「中秋の名月」と呼ばれて、古くから月を愛でる「お月見」の風習が伝えられています。

ところで、「中秋の名月」は「中秋」の字であり、「仲秋」ではありません。
中国の呼び方で、四季の初めの月は「孟(もう)」、中の月は「仲(ちゅう)」、末の月は「季(き)」と呼んでおり、秋に例えれば、旧暦の秋は7月、8月、9月なので、7月が「孟」、8月は「仲」、9月は「季」となります。
従って、旧暦の8月は秋の中の月で「仲」となり、、「仲秋」とは旧暦8月の異称として呼ばれているものです。
これに対して、「中秋」は、「仲秋(旧暦8月)」の中心の日のことで、旧暦8月15日を指して「中秋」と呼んでいます。

人偏のない「中秋」は今日だけであり、今日以外の旧暦8月は、人偏のある「仲秋」となります。
この、「仲秋(旧暦8月)」に満月となる今夜の十五夜の月が、空気も澄んでいて大変美しく見えることから「中秋の名月」と呼ばれているものです。

・自宅のベランダから撮影した今朝(十四夜)の月です。




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東日本大震災から半年

2011-09-11 | 時事

今日、9月11日は東日本大震災の発災から6カ月目であり、アメリカ同時多発テロから10年の節目となります。
奇しくも3月と9月の月の違いはあっても11日と言う同じ日に 東北地方を襲った自然災害とアルカイダによるテロ(人災)が日米に起こり、更に、3月11日の東日本大震災は午後2時46分に発生しましたが、この46分は阪神淡路大震災の発生時刻の午前5時46分と同じ46分という巡り合わせになっています。
非常に不思議な因縁を感じる次第です。

さて、東日本大震災から今日で半年が経ちましたが、被災地の復興への道筋は依然として見えておらず、被災した人の多くは生活再建の見通しが立たずに焦りを募らせているとのニュースが流れていました。
東日本大震災では、10日までに1万5781人の死亡が確認され、4086人の行方が分かっていません。県外などで避難生活を余儀なくされている人は、今もおよそ8万3000人に上っています。

被災地では計画した戸数の94%に当たる4万9000戸余りの仮設住宅が完成し入居が進んでいますが、生活再建に向けては雇用の確保など多くの課題が残っています。
さらに震災や原発事故で転校を余儀なくされるなどの影響を受けた子どもたちについては、遅れがちな学習をどう支援していくかや心のケアも課題になっています。
一方、被災者の暮らしの再建の基礎となる復興計画を策定したのは、被害が大きい40の自治体のうち5つにとどまっており、自治体が復興計画を策定するには国の支援が欠かせませんが、財源の確保など課題が多く、半年になっても復興の道筋は見えていません。
こうしたことから被災された方々からは政府に対する不満がたまっているようです。

被災者にとって不幸だったことは民主党政権の指導者が何もできない菅直人氏であったことです。
彼の政治手法は、長期的視点を持たないその場限りの思い付きであり、大衆受けするパフォーマンスばかりで国家国民の事は全く考えてなく、自身の保身のためだけに行動し、退陣表明から3カ月も居座り大きな政治空白を生じさせてしまいました。
この事が震災復興に大変な遅れを来たし、被災者を一層苦しめたことなど全く理解していないところが、被災者の皆さんには大いなる不幸となって覆いかぶさってきているのです。

民主党政権は今月になって漸く野田政権が誕生し、原発事故の終息と震災復興を最優先課題としてスタートしました。
野田総理は、前総理の負の遺産からのスタートとなりますが、本当の意味での政治主導で迅速なる震災復興に取り組んで欲しいものです。


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