中国地方の旅シリーズも14回目に入りました。今日は島根県津和野町の森鴎外旧宅をご紹介します。
森 鴎外は本名を森林太郎と言い、文久2年(1862年)1月19日に石見国鹿足郡津和野町(現:島根県津和野町)に津和野藩医 森 静泰の長男としてこの家に生まれ、明治5年(1872年)に10歳で上京するまでここで過ごしたそうです。
・森鴎外旧宅の門です。
森 鴎外は、明治14年、19歳で東京大学医学部を卒業後、直ちに東京陸軍病院の軍医に任命され、明治17年に、彼は軍陣衛生研究のためドイツに留学し、明治21年に帰国しています。
その後、軍医総監 陸軍省医務局長、帝室博物館総長兼図書頭(ずしょのかみ)となる一方、文学者としても活躍し、明治・大正を代表する文豪として夏目漱石と並び称されています。
鴎外は死に臨んで、「余は石見人 森林太郎として死せんと欲す」と遺言し、大正11年(1922年)7月9日、60歳で永眠したそうです。
・昭和44年10月29日、国の指定文化財になっている森鴎外の旧宅です。
この建物は、嘉永6年(1854年)に発生した大火の後に建てられたものと伝えられており、森家が東京へ移住した後、別の場所へ移築されていましたが、昭和29年(1954年)森 鴎外の33回忌を機に町へ寄付され、この場所へ戻されたそうです。
・室内です
「鴎外先生詩碑」という石碑がありました。
この詩碑は鴎外の「釦鈕(ぼたん)」の詩を佐藤春夫の筆により建立されたものだそうです。
日露戦争中、激戦となった「南山の戦い(1905年5月25~26日:遼東半島(中国)南山)」でなくしたカフスボタンを惜しむ詩だそうです。
・「鴎外先生詩碑」には釦鈕(ぼたん)の詩が刻まれています。
「舞姫」の詩 (森鴎外)
釦鈕(ぼたん)
南山の たたかいの日に
袖口の こがねのぼたん
ひとつおとしつ
その釦鈕(ぼたん)惜し
べるりんの 都大路の
ばっさあじゅ 電灯あおき
店にて買いぬ
はたとせまえに
えぼれっと かがやきし友
こがね髪 ゆらぎし少女(おとめ)
はや老いにけん
死にもやしけん
20年前、ベルリンで買ったコートの釦を、日露戦争の戦場でなくしてしまった。
その頃はまだ若かった。肩章(えぼれっと)を付けていた友人の将校も、
黄金色の髪をなびかせたあの少女も、今では年老いたか、亡くなったかもしれない。
この詩は、ドイツ留学中に「エルシ」という女性との恋を詠ったのではないかといわれているそうです。
はたとせの 身のうきしずみ
よろこびも かなしびも知る
袖のぼたんよ
かたはとなりぬ
ますらおの 玉と砕けし
ももちたり それも惜しけど
こも惜し釦鈕(ぼたん)
身に添ふ釦鈕(ぼたん)
20年前の思い出を知る釦を戦場で失ってしまった。
この戦争で多くの人命を失ったことは惜しいことだが、
そのときにこの釦を失ったことは、自分の青春を失った思いで、とても惜しい。