らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

中国地方の旅(その11)萩城跡と萩の偉人たち

2010-04-21 | 旅行

中国地方の旅シリーズの11回目は萩城跡と萩ゆかりの偉人について調べました。

萩城は、関が原の戦いの後、毛利輝元が慶長9年(1604年)に築城に着手し、4年後の同13年(1608年)に完成しました。
萩市街の西北隅の指月山(標高143m)の麓に位置したことから、山名をとって指月城とも呼ばれたようです。
文久3年(1863年)4月に山口に移るまで、259年間に亘ってここで政務を執っており、周防・長門(いずれも現・山口県)両国政治の中心であったそうです。

・萩城跡の天守台(左端の石垣)と指月山(標高143m)です。


本丸には高さ14~5mの五層の天守閣がありましたが、明治7年に建物の全てが解体され現在はその台座のみが残っています。
昭和26年6月9日に国の指定史跡となっています。

・萩城のCGの復元図です。




















・現在は指月公園(しづきこうえん)として整備されている萩城跡です。


・萩の城下町です。
36万石の城下町・萩は今でも当時の町並みが色濃く残っています。
萩藩士や豪族の家が建ち並ぶ通りを歩くと時代劇に出てくるような風景を目にします。
  
    ・江戸屋横丁です。              ・青木家の旧宅です。

      

・真っ直ぐな道が東西南北に碁盤の目のように並んでいる城下町の一角です。


・当時の大きな屋敷跡の石垣が続いています。


・平日とあって訪れる人は殆どいませんでした。


「高杉晋作旧宅」
高杉晋作は、天保10年(1839年)に萩藩士 高杉小忠太の長男として生まれ、安政4年(1857年)に松下村塾に通い始めました。
吉田松蔭からは「有志の士」として将来を嘱望されていたそうです。
松蔭の死後、江戸修行や自ら試撃行と称した東北修行の旅で、松蔭の師である佐久間象山らと出会い成長していったようです。

高杉晋作は奇兵隊を組織しましたが、その経緯は、文久3年(1863年)5月、下関海峡で四国連合艦隊の攻撃を受け、萩藩兵力の弱体振りをさらけ出したことによります。
奇兵隊は、少ない兵力で敵の虚をつき、神出鬼没、敵を悩まし、常に奇道を持って勝ちを制することから奇兵隊と呼び、身分を中心に編成された封建軍隊とは異なり、身分を問わず有志の集まりで、力量中心に編成された新しい軍隊でした。
奇兵隊は、その後の倒幕戦争においても諸隊の中核として明治維新に大きな歴史的役割を果たしました。

・高杉晋作誕生の地です。


敷地内には高杉晋作の写真や書などが展示され、産湯に使った井戸があります。
また自作の句碑や初代内閣総理大臣伊藤博文が晋作のことを詠んだ歌碑があります。

 ・自作の句碑  「西へ行く 人をしたひて 東行く 心の底そ 神や知るらん」  高杉晋作

 ・高杉晋作のことを詠んだ伊藤博文の歌碑 
           「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し」

・高杉晋作の旧宅です。



「木戸孝允(きどたかよし)旧宅」
木戸孝允は天保4年(1833年)6月26日、石高20石の萩藩医・和田昌景の長男としてこの地に誕生しました。
8歳で石高150石の桂家の養子となり、江戸に出るまでの約20年間はこの家で過ごしたそうです。
名は孝允ですが、初名は桂小五郎、33歳の時、藩命により木戸貫治、翌年、木戸準一郎と改めたようです。

・木戸孝允誕生地です。


17歳の時、藩校の明倫館で吉田松陰に学び、慶応2年(1866年)には坂本竜馬の仲介によって薩摩の西郷隆盛らと倒幕の一大勢力となる薩長同盟を結びました。
明治新政府では、特に五箇条の御誓文の草案作成に参画し、版籍奉還や廃藩置県の実現に力を尽くしました。
これらの功績により、西郷隆盛、大久保利通と共に「維新の三傑」と呼ばれています。

・木戸孝允の旧宅です。



「田中儀一誕生地」
説明板によれば、田中義一は文久3年(1863年)藩主の六尺(駕篭かきのこと)である田中家の三男としてここで生まれました。
13歳の時、新堀小学校の受業生(代用教員)に登用され、のち陸大に進学したそうです。
大正7年以降、陸軍大臣、ついで大将に進み、再び陸軍大臣になりました。
大正14年に政友会総裁に就任、昭和2年に内閣総理大臣となり、外務大臣、拓務大臣を兼任しました。

・僅かなスペースに田中義一誕生地の石碑が建っていました。



「月輪山円政寺」
月輪山円政寺は真言宗の寺院で、建長6年(1254年)山口に創建された大内氏代々の祈願所でした。
慶長9年(1604年)頃に山口から萩に移転され、毛利氏の祈願所となりました。
境内には十二支彫刻の欄間で知られている金毘羅社があり、神仏習合の形態が見られる点で貴重な寺となっているようです。
伊藤博文は11歳の頃、住職の恵運に諭されて読み書きを習い、高杉晋作も子供の頃にはよくここで遊んだと言われています。

・円政寺の山門です。


・「高杉晋作、伊藤博文 両公幼年勉学之處 円政寺 金毘羅社」の石碑があります。






最新の画像もっと見る

コメントを投稿