中国地方の旅も18回目に入りました。今日は島根半島の美保関(みほのせき)をご紹介します。
美保関町は2005年(平成17年)3月31日に松江市と合併し、現在は松江市美保関町となっています。
古くから海上交通の要所、風待ちの港として栄えた町で、朝鮮半島などとの環日本海交易の拠点として栄えた町です。
また、たたら製鉄による鉄の輸出港として繁栄し、江戸時代には北前船交易の要所として多くの回線問屋などが存在していたようです。
(参考)
「たたら」とは、初期の製鉄法で、製鉄反応に必要な空気を送り込む送風装置の「鞴(ふいご)」のことを「たたら」と呼んでいたことからつけられた名称のようです。
「美保関燈台」
美保関燈台は島根半島の東端に位置する地蔵崎の馬着山にあって、1898年(明治31年)、フランス人の指導により建設された山陰最古の石造灯台です。
構造は、底部直径5.7m、半円形付属舎付の灯台を砂岩の布積で築き、その上にガラスと青銅製ドームおよび斜骨子より構成される灯籠をのせ、総高は14mとなっているようです。
美保関燈台は、1998年(平成10年)には、「世界灯台100選」に選ばれており、「日本の灯台50選」にも選ばれている日本を代表する灯台です。
歴史的文化財的価値が高いので、Aランクの保存灯台ともなり、2007年(平成19年)には、灯台として全国初の国登録有形文化財になっています。
・日本を代表する燈台の一つ「美保関燈台」です。
「地蔵埼」
島根半島の最東端に位置するこの岬は、古くから「美保の碕(みほのさき)」と呼ばれています。
島根半島は、出雲風土記の「国引き伝説」では、この「美保の碕(みほのさき)」は北陸地方から、島根半島の西端にある日御碕は朝鮮半島から引いてきたものと伝えられています。
この日本海に面した美保関の岬に地蔵埼があり、美保関燈台が建っていますが、地蔵崎の名前の由来は、その昔、航海の安全を祈願してたくさんのお地藏さんが、祭られていたことから地蔵埼と呼ばれるようになたそうです。
・大山隠岐国立公園に指定されている、リアス式海岸が美しい地蔵埼です。
「美保神社」
この鳥居の中央約3km先の海上に浮かぶ小島を「沖之御前」、眼下に横たわる島を「地之御前」と言い、共に美保神社の御祭神(俗にえびす様)の事代主命(ことしろぬしのみこと)が魚釣りをして楽しんだ島として伝えられており、毎年5月5日には美保神社で事代主命と御后(おきさき)の御心霊をこの島から迎える神迎(かみむかえ)神事が行われているそうです。
・鳥居右下の岩礁が「地之御前」と言われている島です。鳥居の正面の海上に小さく白い点のように見える島が「沖之御前」です。
「沖の御前島」
この島は地蔵埼の沖約3kmの海上に浮かんでいる小島で「出雲風土記」には「等々島(とどしま)」と記されているようです。
その昔、美保神社の祭神である事代主命(ことしろぬしのみこと)が魚釣りを楽しんだところと言われています。
この島の海底には、常に神楽のような響きがあり神意奇瑞な島として今に伝えられているそうです。
・事代主命(ことしろぬしのみこと)が魚釣りを楽しんだところと言われている「沖之御前島」です
「美保関のかなたへ(日本海軍衝突事故)」
この美保関の沖合い32km付近の130mの海底には、戦闘訓練で沈没した2隻の戦艦と乗組員兵士119名が今も眠っているそうです。
これは昭和2年の日本海軍衝突事故によるものです。
事故のあらましは、昭和2年(1927年)8月24日夜、日本帝国海軍戦艦「長門」以下の連合艦隊60余隻が二軍に分かれて戦闘訓練を行っていました。
折りからの台風が接近する中、両軍灯火を消して全速力で実践さながらの訓練をしていたところ、駆逐艦「蕨(わらび)」の艦腹に巡洋艦「神通」が衝突し、「蕨」は裂けて沈没し、92名が艦と共に海に沈みました。
その1分後には駆逐艦「葦(あし)」の艦尾に巡洋艦「那珂」が衝突し、「葦(あし)」の乗組員27名が海に消えました。
この二つの衝突事故は海軍史上空前の事故でしたが、日本海軍は黙秘し続けていたそうです。
半世紀を経て、沈没した駆逐艦「「蕨(わらび)」の艦長のご子息が克明に調査して真相を明らかにしたそうです。
・海軍衝突事故「美保関のかなたへ」のあらましを書いているプレートです。
「隠岐島(おきのしま)」
「隠岐島(おきのしま)」は500万年前の火山島ですが、侵食で火山地形が失われているため火山ではなく火山岩類として扱われています。
島根半島の北約50km沖の海上に浮かぶ島で、後鳥羽上皇・後醍醐天皇の流された島としてよく知られています。
晴れた日には、ここ美保関からよく見えるようですが、この日はかすかに霞んで見える程度でした。
・遠くも霞む島は隠岐島です。