らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

中国地方の旅(その12)萩市・毛利家別邸

2010-04-22 | 旅行

中国地方の旅シリーズ12回目の今日は萩市の「毛利家別邸」をご紹介します。

「厚狭(あさ)毛利家 萩屋敷長屋」
厚狭毛利家(あさもうりけ)は、毛利元就の5男元秋を始祖とする毛利氏一門で、山陽道の宿場であった厚狭(現在の山口県山陽小野田市)に知行地(8,370石)があったことから厚狭(あさ)毛利氏と呼ばれていました。

萩の屋敷は、萩城大手門の南100mに位置し、面積約15,500㎡の広大な敷地を誇っていましたが、現在は、安政3年(1856年)に10代藩主元教の時に築かれたこの長屋のみが残っており、主屋などは明治維新後に解体されています。
屋根は入母屋造り、本瓦葺きで、桁行51.5m、梁間5mの長大な構造をしており、現在、萩に残っている武家屋敷の中では最も大きく、国の重要文化財に指定されています。
昭和43年(1968年)に解体修理が完成し、内部に当時の調度品などが展示されているようです。

・国の重要文化財に指定されている厚狭毛利家(あさもうりけ)萩屋敷長屋です。


「毛利家別邸の表門」
元は、明治時代に14代藩主毛利元徳が鎌倉材木座に建てた別邸の表門です。
大正10年(1921年)、別邸と共に毛利家 萩別邸の門として市内の東田町に移築されましたが、その後、昭和49年(1974年)に現在地に移築されました。

規模は雄大で、桁行10.9m、梁間3.8m棟高5.2mで、屋根の両端には鯱の原型と言われる鴟尾(しび)が乗せられています。
門の左側は潜門になっており、更に両脇には内側に向かってのぞき格子を持たせた10㎡の広さを持つ土間が付属しています。
このような形式は、萩の門のとしては異色のものだそうです。
現在は萩青年の家の表門になっています。

なお、鴟尾(しび)とは、古代の瓦葺宮殿・仏閣の大棟の両端に取り付ける装飾で、瓦・銅または石で造り、現在のしゃちほこや鬼瓦の原型です。

・毛利家別邸の表門です


「毛利氏の誕生}
毛利氏とは、武家の一つで、本姓は大江氏です。家系は鎌倉幕府の名臣大江広元の四男・大江季光を祖としています。
苗字の毛利は、季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利庄(現在の神奈川県厚木市周辺)に由来します。
「毛利」の元来の読み方は「もり」ですが、後に「もうり」と読まれるようになったそうです。

鎌倉時代末期から南北朝初期にかけて越後国(新潟県)から安芸国(広島県)へ移ったあと山名氏および大内氏の家臣として栄え、戦国時代には戦国大名への脱皮を遂げて、中国地方最大の勢力となりました。
しかし、関が原の戦いで西軍の総大将に祭り上げられ、周防国と長門国の2ヶ国に減封されましたが、江戸時代を通じて安泰でした。
江戸末期には長州藩から数々の優秀な志士が現われ、明治維新を成就させる原動力となりました。



「毛利輝元」
毛利輝元は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名で、豊臣政権の五大老の一人で、長州藩初代の藩主です。
毛利元就の長男、毛利隆元の嫡男として天文22年(1553年)1月22日に安芸国(現広島県)に生まれました。
1563年(永禄6年)に父隆元の急死により11歳で家督を継承しました。
尼子家残党の蜂起や宇喜多直家との争いを経て織田家と敵対関係に入りましたが、本能寺の変により急遽織田側の重臣・羽柴秀吉と講和し、以後、秀吉軍の傘下に入り、後に五大老に一人となりました。

・毛利輝元の墓所です。


「天樹院墓所」
天樹院墓所は毛利家の墓所の一つで、毛利元就の長男隆元の子(長男)である輝元(1553年1月22日生まれ)、輝元の妻、殉死した家臣の長井治郎左衛門の墓石があります。
以前は輝元の本邸があったところですが、輝元の没後に輝元の法号である天樹院が菩提寺として建てられました。
明治2年(1869年)に天樹院は廃寺となり、墓所のみが残っています。

・天樹院墓所です。