中国地方の旅シリーズ17回目は津和野藩筆頭家老の「多胡家」と藩校の「養老館」をご紹介します。
「家老・多胡邸」
多胡氏の発祥は、上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)の多胡に住んでいたことからその名を称したと伝えられていますが、出雲多胡氏の発祥は諸説あるようです。
その一つは、文永年中(1264~74年)に出雲郷の地頭となって下向したことからとの説があり、他には、もともと京極氏の被官で、越前守俊英が応仁の乱の功により、石見国(島根県)中野に地を与えられ、出雲に土着したとの説などが伝えられているようです。
多胡家は、津和野藩主亀井家の初代(1618年~)から11代(明治2年)に亘って筆頭家老を務めてきました。
特に、鬼主水と呼ばれた多胡真武は殖産振興業に力を尽くし産業の基礎を築きました。
また、多胡真蔭は仮名手本忠臣蔵における加古川本蔵のモデルと言われ亀井慈親に仕えて功があったそうです。
更に、幕末の多胡真祇(逸斎)は画を谷文晁、桜間青崖に学んで逸作を残しており、特に渡辺崋山と親交があったことも有名だそうです。
・旧津和野藩家老 多胡家表門です。
この門は同家の表門で、三間一戸薬医門の形式をとっており、屋根の構造は切妻造り、浅瓦葺きとなっています。
また、門の左右には番所を構え、格式の高さを示しています。構造や意匠(趣向、デザイン)はともに簡素な造りですが、威厳のある江戸時代中期の武家屋敷門の建築様式を今に伝えている言われています。
多胡家には、多胡辰敬が書き残した家訓があるそうです。
彼は学問、弓馬、算術など諸芸十七か条からなる家訓を記し、「人の用にたつ」人になれ、という実用主義で貫かれたもので、自らそれを実践したと言われ、「命は軽く、名は重い」は有名な言葉となって伝わっています。
・多胡家です。
(参考)
第3代藩主・亀井慈親(かめいこれちか)は、幕府から勅使饗応役を命じられ、指南役の吉良上野介に辱(はずかし)めを受けます。
余りの悔しさに慈親は上野介を斬ろうと覚悟しますが、これを知った家老の多胡外記は、大事に至らぬようにと機転を利かせて事なきを得たと言われています。
(なお、亀井慈親(かめいこれちか)は在職50年の間に14回も饗応役を命じられたそうです)
この時、家老の多胡が上野介に取り入るために使った進物が「小判をカステラのような平らな生地に包み、小判の形をしたお菓子」だったそうです。
これが現在、津和野土産の「源氏巻き」の原型となっているそうです。
もし、この時、家老の多胡外記が止めなければ「赤穂事件」は発生せず、「津和野事件」となっていたかも分かりませんね。
「津和野藩校・養老館」
津和野藩校「養老館」は、天明6年(1786年)8代藩主亀井矩賢(かめいのりかた)により創設され、明治5年まで国学、儒学、兵学、武芸一般などを教え、藩文化の中心として多様な人材を輩出してきたようです。
藩は財政難にもかかわらず、寛政12年(1800年)には藩士から庶民まで範囲を広げ、医学を目指す者に学資を貸与すると言う、現在の留学制度を設けるなど優れた政策を取り入れました。
・津和野藩校養老館の門です。
この藩校養老館では、西周(明治の先哲)、森鴎外、中村吉蔵(劇作家・文学博士)、山辺文夫(東洋紡初代社長)、高岡直吉(県知事・初代札幌市長)など全国に名を馳せた幾多の賢哲を育成し、俊才を輩出した津和野藩校の跡として貴重な文化財となっているそうです。
なお、現在残っている建物は門より左が剣術教場・居合柔術教場、右が槍術教場で、正面の土蔵は書物庫だそうです。
・養老館です。