らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

吉備津神社と桃太郎伝説

2016-05-06 | 地元紹介

身内が倉敷市のK大学病院に入院していることから度々帰郷していますが、その病院から北東方向へ直線距離にして6㎞ほどのところに吉備津神社が鎮座しています。
この神社は、日本昔話でお馴染みの桃太郎伝説発祥の地としても知られているところです。
今日は私の故郷、岡山にある吉備津神社と桃太郎伝説をご紹介します。

「吉備津神社」
吉備津神社は「大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)」を主祭神とし、その異母弟の「若日子建吉備津彦命(わかひこたけきびつひこのみこと)」と、その子「吉備武彦命(きびたけひこのみこと)」等、一族の神々を合わせ祀っています。
「大吉備津彦命」は、第7代「孝霊(こうれい)天皇」(在位:BC(起源前)290年2月~BC215年3月)の皇子で、元の名前を「五十狭芹彦命(いさせりびこのみこと)」と言い、武勇の誉れ高い方と伝えられています。
吉備津神社は吉備津彦の5代の子孫の「加夜臣奈留美命(かやのおみなるみのみこと)」が茅葺宮に社殿を造営して吉備津彦を祀ったのが始まりと伝えられています。

「比翼入母屋造り」
比翼入母屋造り(ひよくいりもやつくり)は、日本の神社建築様式の一つで、「比翼造り」、または「吉備津造り」などと呼ばれており、吉備津神社の比翼入母屋造りの社殿は足利義満が造営したもので国宝に指定されています。
構造は、内部を仏殿形式とした本殿と前部の拝殿からなっており、特に、本殿の屋根が「比翼入母屋」の形状で、平行に並べた2棟の入母屋屋根と同じ高さの棟の屋根で連結し、一棟としています。

・入母屋破風(いりもやはふ)が2つ並んでいる比翼入母屋造りの本殿です。


神社の縁起によれば、第十代「崇神(すじん)天皇」(在位:BC97年2月~BC29年1月)の命により、四道将軍の一人として西道(山陽道)に派遣されることになった大吉備津彦命は、異母弟の「若日子建吉備津彦命(わかひこたけきびつひこのみこと)」と協力して吉備を平定しました。
その子孫が吉備の国造りをおこない、吉備臣を名乗った豪族と伝えられています。
また、吉備津神社の社伝によれば、吉備津彦は吉備中山の麓に茅葺宮を造って住み、281歳で亡くなり、中山山頂に葬られたと伝えられています。

・吉備津神社の拝殿です。


「桃太郎伝説」
桃太郎にゆかりの地は各地にあるようですが、多くの人に信じられているのが古代から栄えた吉備地方(現在の岡山県全域、広島県東部、兵庫県西部)で、岡山市にある吉備津神社がその舞台の一つとされています。
吉備津神社の主祭神は桃太郎のモデルとされる第7代「孝霊(こうれい)天皇」(在位:BC(起源前)290年2月~BC215年3月)の皇子・大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)で、「従わない者があれば討て」と崇神天皇(すじんてんのう)の命を受け、大和政権から派遣されました。
そして、神社の北西約10㎞にある山城・鬼ノ城(きのじょう)を拠点に悪事を重ねていた鬼神の温羅(うら)を攻め滅ぼしたと伝わっています。

その伝説のあらましは次のようです。
大吉備津彦命は「吉備の中山」(この麓に吉備津神社がある)に布陣し攻め入ったが、変幻自在な温羅に苦戦を強いられます。
矢を射るもいつも温羅の射た矢に落とされるため、ミコトは2本の矢を同時に放ったところ、1本の矢が温羅の左目を射抜きました。
血を流した温羅は雉となって逃げ、ミコトは鷹となって追い、さらに温羅が鯉に変じて逃れるとミコトは鵜となって噛み付きついに捕えました。
ミコトは温羅の首をはねてさらしたが温羅はうなり声をあげ続け、その首を吉備津神社の「御竃殿」の釜の下に埋めたところ、13年間うなり声は止まず近郷に鳴り響いたと言います。
ある夜ミコトの夢に温羅があらわれ、「わが妻・阿曽女に御竃殿の火を炊かせば、この釜を鳴らし吉凶を占おう」と告げます。これが上田秋成の『雨月物語』にも登場し、いまでも同神社の「御竃殿」で行われている「鳴釜神事」(釜うらない)として伝承されています。
また、鵜に姿を変えた大吉備津彦の命がコイに化け、温羅に噛みついたとされる場所には鯉喰(こいくい)神社(倉敷市)が立っています。

この鬼(温羅)退治伝説が桃太郎のお話の元とも云われており、大吉備津彦の命を桃太郎に、温羅を鬼に見立て、更に、特産の桃やきび(吉備)団子から連想されて岡山の桃太郎伝説は多くの人に信じられているのです。