文法というものについて

 教養重視結構。ただその「教養」なるものは、21世紀の今の教養でなくてはならない。マシュー・アーノルドにとっての「教養」みたいなものでもないし、日本国が大学制度を作ったとき、ウェストファリア的秩序の中で重きをなした「国」別対抗戦のネタでもない。
 そこにはレゲエも、ハイチも、カナダも、欲しい。

 話が全然それるが、「文法」もまたそうだろう。21世紀型の文法でなければならない。

 そういう文法であれば、今も、今こそ必要とされる知の重要な構成要素のひとつであるはずのものだ。

 わたしが個人的に作っている「文法の道具箱」が、「文法の玉手箱」となるように、努力を重ねたい。

 2020年6月11日。実に今期は、今クオーターは異常なものだった。そしてこの異常な体験はまぎれもなく世界のひとと共有するものだった。コロナウィルス禍のことを、後世のひとはどのようにイメージするだろうか。

 今日わたしは4コマフランス語クラスをもった。オンラインで。2,3,4,5限ともフランス語の語学クラスだった。他の曜日も詰まっているが、これほど語学オンリーではない。月曜は語学ひとつ、いまのところもうひとつは卒論指導だし、次のクオーターからグローバル時代の文学のわたしのクラスが始まる。火曜日はカナダ文学だ。水曜日はベトナム文学とシティカレッジ。金曜日はフランス語科教育法とプラテーロをすくなくとも西仏独英で読んでスペイン文学、西仏比較文法だをする。歴史が二コマある。
 とにかく木曜は、今日の木曜も朝から晩の6時過ぎまで、フランス語を教えることしか考えなかった。
 こういうのが一クオーター続いた。

 ここで思ったのは、文法クラスにある定まった限界をおけるのではということだ。これだけおさめれば「完成」といえるような限界。
 もしそういう限界を設けることが可能なら、そこを基盤に合理的な教育プランを作ってみせることができる。
 コミュニカティブ=アプローチは限界づくりが希薄だ。少なくとも日本の大学で許容されるようなレベルの「限界」を設置することができない。
 畢竟、警戒され、縮め、壊されるのが当然となる。

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