坂本龍馬とフランス


 「ニッポンと世界をどないしましょう?」にふさわしいタイトルのエントリーですね。

 最近、坂本龍馬にはまってます。

 NHK大河ドラマ、昨日は最後の15分しか見られませんでしたが、続けて見てます。福山雅治は相変わらず男前です。

 ところで坂本龍馬というとわたしは、彼のイメージには虚構部分が大きいのだろうなとずっと思ってました。業績の扱われ方が実証的でないまま逸話的なものが一般にどんどん流布していている、という感じなのだろうと。
 とくに、龍馬の生涯を非常にうまく書いたのがあの司馬遼太郎なので、ますますその印象が強かったのです。

 「司馬遼太郎は、プロレスである」

という名言がありますね(と言っても知っている人はほとんどいないでしょうが)。脚色がきつすぎるという意味ですね。

 ただでさえ文学、モノガタリというのは強力なものなのに(『赤と黒』のモノガタリとしての力について前に書きました)、特にこれが読ませる力をもった「歴史小説」となると、書いてあることが「本当にあったこと」「本当に人間がなしたこと」としての重みをもって、人の人生を文字通り左右します・・・ 

 というか、これこそ文学の一番の社会的機能と言うべきかもしれません。
 叙事詩『アエネイアス』を以てローマ帝国の礎にしようとしたアウグストゥスも、人々が輝かしいローマ建国モノガタリを信じて、ローマ人としての一体感とプライドを持つようにしたかったのです。

 たぶん、今の時期にNHK大河ドラマで龍馬を扱う、というのにも誰かの政治的意思が影響しているのでしょう・・・

 ところでその司馬遼さんの『竜馬がゆく』は、文庫本の第八巻からはじめて逆に読んでます。わたし、白状しますが小説を第一ページから読み進むというのは苦手なのです。「冒頭」、文学理論でいういわゆる「incipit」というもののわざとらしさが、わたし嫌なんです。適当なところから読み始めるのが好きです。
 ただこのたびはそれだけでなく、第八巻に司馬遼太郎のあとがきがまとめてあるということがありました。意外と(?)司馬遼太郎が自分の仕事の虚構性をよく意識していて、それをそんなに隠そうともしていなかったのではないか、という気がしました。

 わたしとしては、かのメリメが『カルメン』にわざわざあとから妙な蘊蓄を傾けただけの第四章を付け加えたのを思い出します。
 メリメはおそらく「わたし、プロの作家として当然ながら読者に受けるように技巧を凝らして書いちゃったけど、これは虚構なんですよ。ジプシー=ロマって美女はいないし、迷信深くもないし、カルメンみたいなキャラクターは、ほんとはいないんです」と言いたいんだと思います。作家的良心から言っているんです。
 だから、この第四章の後付けの真意が分からない文学研究者があれやこれや言っているのはまことにおかしいことだと思ってます。

 それやこれやあって、わたしは坂本龍馬はやっぱりほんとうに偉かったのだろう、と思い始めてます。

 ところで龍馬のモノガタリの中では、フランスはどうみても悪役の方ですね。だって軍事援助から始めて国を乗っ取ろうとする外患、日本が警戒しなければならない危険な外国ナンバーワンですもん。
 幕府側についたフランスは龍馬にとって、倒幕側についたイギリスよりイメージ悪かったでしょうね。
 そのうち大河ドラマにもロッシュが出てくるだろうな。きっと老獪で、憎さげな顔した俳優が演じるんでしょうね・・・

 もっとも司馬遼太郎は竜馬がフランス製の香水好きだったという話を書いてますが、これはほんとですかね?

 
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