退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

いったん「自分を捨てる」ことについて

2011-08-11 01:19:50 | Weblog
晴れ。季節労働が峠を越える。

「哲学の饗宴 大森荘蔵座談集」読了。

素人にわかりやすいのは「第三部 ことば」。
ソシュールを持ち出す中村雄二郎と「日本語は論理的でない」という宮地裕らに対する態度がなかなか。

前者には「新しそうで古いものであること」を淡々と言い
後者には皮肉交じりに笑いを含めながら違うのだと答える態度はまさに「大人」。

廣松渉、黒田亘らが「大森哲学」に「肉迫」するあたりが面白く
山本信は実に頼りになる議論の相手だという印象。

たしか「時間と自我」「時間と存在」は昔読んだ時に
「なんと独自な考え方か」と驚いた記憶がある。

かつて「駒場のソクラテス」とも呼ばれた人は
ちょっと前ならおそらくハーバーマスあたりが「理想」とした議論が出来る人。

「ちっぽけな『現実』」に悩んだりしている向きには
「『世界』に対する目」が開かれると思われるので「クスリ」としてどうぞ。

さて。

明日から8連休。
最終日に飲み会があることといずれかの日にソウルバーへ行くことだけが確か。

「自分中心」の若いおなごと話す。

彼女はこれまでずっと「だってわたしはそうなんだもん」と言って暮らしてきた。
「キライなもの」は出来るだけ遠ざけ「好きなもの」とだけ接してきた。

その結果「電話に出られない身体」になったらしい。
理由は「恥ずかしいから」で自分しかいない時にかかってくる電話は切ってしまうのだと。

あるいは相手構わず「自分のことを自分流に話してきた」結果
誰も彼女の話をまともに受け付けなくなったという。

要はコミュニケーションの回路が非常に「狭い」ために
いたずらに他人を遠ざけることになったよう。

そんな彼女は最後に
「自分のことを理解されるのはイヤだ」と言った。

その言葉を文字通り受け取ってしまうのはもちろん間違っているので
とりあえずひとつひとつ何か具体的に「出来るように」してみればと言っておいたけれど。

おそらく彼女に足りないのは「相手の話を聞くこと」と
「無条件に」「とりあえず」相手を受け入れることだと思われるものの。

「自分の快楽だけを追い求めるとやがて孤独になること」。

有り余る「商品」に溺れる孤独を知ったなら
「狭い自我の世界」を抜け出すために「違う物差し」を使ってみるといいかもしれない。
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