『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

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『みちしるべ』富岡町の復興はるか遠い道のり**<2013.11. Vol.81>

2013年12月04日 | 神崎敏則

富岡町の復興はるか遠い道のり

神崎敏則

時計の針はピクリとも動いていない

 今では日課となってしまった、いくつかのMLをチェックしていると、福島へのツアーを募集しているメールに出くわした。早速参加希望を主催者である小林さんにメールした。目的地は福島県双葉郡富岡町。今でも線量は高いらしい。

 11月29日朝、新大阪駅6時23分発の新幹線のぞみの最後尾の車両の最後尾の座席で、西明石駅から乗っている小林さんに初めてお会いした(小林さんの募集に応じたのは僕だけだった)。東京駅で山手線に乗り換え、40分ほど時間待ちして10時発特急スーパーひたちに乗車し、12時2分にいわき市駅に到着。日差しはとても温かいが、日陰に入ると冷蔵庫の中を移動しているような冷たさだった。

 案内役の藤田さんと待ち合わせたのは、JRいわき駅前。藤田さんのワゴン車の後部座席に乗ろうとすると線量計が置いてあった。車が富岡町へ向けてスタートすると、いわき市内はほぼ0.2μ㏜前後。北隣の広野町に入ると、線量は変わらないが、道路わきの斜面などは幅1~2メートルほど草木を刈りこんでいる。いたるところに除染の跡がうかがえた。

 汚染土を包んだ黒い袋がJRのレールに沿って並べられていた。その西側には、広大な面積に黒い袋を並べた上に緑色のシートがかぶせてあった。「あのシートの下に除染袋は3段に積み上げられているんですよ」と藤田さんが説明する。

  広野町もその北隣の楢葉町も風景にさしたる差異は感じられない。除染が進んでいる中で、人々の生活が静かに確実にあった。畑は耕され、家々にも人の気配がうかがえた。 ところが楢葉町からさらに北隣の富岡町に入った途端に景色が一変した。

 海岸近くに行くと、うずたかく積み上げられたがれきの横に、建物の基礎がある。基礎以外の全てを津波にもっていかれたそうだ。その30メートルほど西には、建物の2階部分が地面に座っていた。海側の壁が抜かれたままの住宅。傾いたまま放置されている屋根。風雨にむしばまれていること、荒れた田畑に伸びる雑草の2点を除けば、富岡町の景色は、2011年3月11日の時を刻んだまま、針はピクリとも動いていない。

 小道の十字路に来た時「ここで警察が避難誘導をしていたんです」と藤田さんは説明し始めた。十字路から北へ2㍍ほとの道路わきに車の残骸があった。「これ、パトカーなんです。ここにパトカーの名残があるでしょう」と指さすその部分に、白色のボディーに黒色のペイントの帯が確かに確認できた。ボディーの鉄板が残っているのはその部分だけだった。ラジエータもエンジンもむき出しになっていた。運転席のラジオのチャンネルの上にあるはずのフロントガラスも天井も、天井に取り付けられていたはずのパトライトももちろんない。「ここで警察官2名が殉職しました。1体は沖合500㍍付近で発見されました。もう1体はまだ不明です。花が手向けられていますね」と語る。

 かつて特急が停車していた富岡駅は、改札の欄干だけがホームの手前でさびしそうにたたずんでいた。案内役の藤田大さんは「改札の横のここには駅舎があって、穴空きのガラス越しに切符を手渡す窓口があって、高校時代に毎日通ってたからすごく思い入れがある場所です。あの頃はホームに立っても海がこんなに近いとは思いませんでした」と聞き、けげんな顔をすると「駅の向こう側は家が建ち並んでいたので海が見えなかったんです。」と説明される。改札の欄干以外に駅舎で残っているのは、上り線ホームと下り線ホームをつなぐ陸橋のほか、目を凝らしてみなければすぐには分からない看板や、使用不能なトイレしかなかった。そしてかつてはあったはずの民家は基礎のコンクリートしか残されていなかった。

ゼネコンのための復興なのか

 「下水処理センターの外観はそれほど傷んでないように見えるでしょ。でもポンプや設備などはもうダメだし、中はぐちゃぐちゃなんです。震災前は富岡町の人口は1万6千人ほどで、センターの中の処理槽は3つあったんです。復興を進めるためにはとりあえずは1槽だけ稼働できるような処理センターを造ればいいはずなんですけど、国から助成を受けるとなると、震災前と同じ3槽とも稼働できるものを造るように決められている。そうすると町の予算が立たなくて、処理センターの建て直しに手がつけられない。おかしな話でしょう。」と説明される。誰のための復興なのか、町民のためであることは間違いないが、軸足が、受注するゼネコンに移動してはいないだろうか?

 富岡町は、年間線量でいえば20m㏜以下の避難指示解除準備区域、20~50m㏜の住居制限区域、50m㏜以上の帰還困難区域のどれかに指定されている。除染が始められつつあるのは、20m㏜以下の区域だ。50m㏜居住困難区域にある住宅には出入りができないように、H鋼を横たえた上にガードレールを固定し、玄関前には鉄製の引き戸がつけられ、ご丁寧に南京錠がかけられている。藤田さんは物々しさにあきれ果てて「やっぱりゼネコンのためなんだろう」とつぶやいた。

賠償金とアリ地獄

 やっと除染がはじまりだした。でも順番が気になる。小学校の広い校庭は一面7、8㌢も表土を取り除いている。藤田さんは「少し早すぎますよ」と語る。

 校門のすぐ手前にバイク屋があり屋外に5、6台のバイクが並んでいた。ブルーシートの残骸がハンドルやシートにまとわりつき、ぼろぼろに引き裂かれた青い繊維が風にたなびいていた。「ここは僕の同級生の渡部君の家で、お父さんは新潟の方に避難していたんですけど、バイクの整備やパンクの修理をしていて生計を立てていた人が、他のことでなかなか働けないでしょう。お父さん自殺したんです。」と聞かされ、返事ができなかった。

 いわき市に戻る車中で、「僕もいわきで生活していますけど、3人の子どもたちがいるのでもう富岡町に戻ることはありません。子どものいる家庭はどこもそうだと思います」と複雑な思いを語る。

 「地震や津波で家を失ったりしたら、あきらめもついてそこからスタートすっぺと割り切れるんですけど、東電という加害者がいると難しいんです」と藤田さんは言う。「事故前に夫が月収30万で、妻のパートの収入が10万で、原発事故のために仕事を失ったらその分が東電から40万賠償されます。それに子どもが2人いたら、精神的な苦痛を与えているということで一人10万、4人で40万の慰謝料が毎月もらえます。月80万ももらっていて誰が働きます?」という藤田さんの顔は悲しそうだった。東電から補償金を得ているのか得ていないのかで、理屈では越えられない深い分断が生じている。そこには信頼関係など産まれないかのような深い溝があるのかもしれない。

 藤田さんは、事故直後に原発作業員がカップラーメンなどのインスタント食品などしか食べられない状況を知り、「しっかり栄養の摂れる弁当を作って出すから、俺にやらせてくれ」と東電の本店と交渉して許可を取り付け、弁当工場を建てて専務として事業を進めている。困難な状況に立たされても、しっかりと向き合ってそれらを乗り越えてきた。

 「原発が爆発したとき、子どもたちを守らねばと思い、今から出て行くぞと家族に言うと、長男が『いやだ』と言って逃げだしたので、追いかけてひっつかまえて車に押し込みました。息子は、『仲のいい友だちを置いて自分だけ逃げだすのはイヤだ』と言ってました。最初はいわき市内のマンションの4階で暮らしてたんですけど、子どもたちは以前と同じように家の中で走り回ったりとび跳ねたりして、下の階の人に迷惑をかけてました。苦情が来たのでそれからは子どもたちが騒ぎそうになると両手で体を抱きしめて『ここでは騒いじゃなんねえ』と言っても、子どもだから言うことをきいてくれません。自分が会社に出ている昼間に下の階の人から妻がどなられて、オロオロして会社に電話してきました。すぐに自分が話ししに行きました。『家の中では騒がないようにきっちり言ってますけど、子どもだからやっぱりおとなしくばっかりはできねえ。これ以上静かにしろと言われたら、子どもたちの足をちょん切るしかないです。何かあったら直接自分に電話してください』と言いました。もう妻には言わないだろうと思っていたんですが、それから2回も言われ、妻はノイローゼになっていました。それで仕方なく一戸建てを探していたら、僕は運が本当にいいんです。すぐに良いところが見つかりました」

 一つひとつ困難を乗り越える福島県民と、賠償金に溺れる福島県民。そのどちらもが現実だ。復興という表看板の下には、県民の抜き差しならない分断が横たわっている。原発震災がつくりあげた悲劇であり、人の心の弱さを映し出した地獄絵かもしれない。誰だって、賠償金に溺れたくはないはずだ。ただ心が弱いだけだ。アリ地獄から抜け出せないでいる状況は、どうすれば改善されるのだろうか?

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 翌日は、いわき市内の仮設住宅に行き、そこの自治会長さんのお話を伺いました。その内容は次号にて報告いたします。

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