明治維新の直前に、世の中が激変すると、大方の庶民は考えなかったに違いない。ただただ世の閉塞感に浸っていただろう▼蒸気機関の発明を端に、産業革命がおこった欧米で、大量失業が起きた。これに怒った庶民は、ラッダイト(機械打壊し)運動を起こしたと聞く。機械力は社会をよくしないと勘違いしたのか、とりあえずの仕事よこせ運動であったのか?急速な変化に、人々の心も社会も対応不能だったのではあろう▼ところが昨今、時代の流れが急速で、“10年ひと昔”の変化を忘れてしまうのである。阪神淡路大震災から19年になろうとしているが、当時、携帯電話など特殊な人の持物。10年前、iモードはパケット料金が高額であった。今日、ネット接続機器としてのスマホが、主流となった▼変わり行く時に流されて、変化に順応しているかに見えない事も無い。が、人間の根本問題について言えば、激変しようとしている時代に、殆ど気が付いていないのが庶民ではなかろうか▼高度な文明を誇ったイスラムの民が、ヨーロッパの遊牧の民に、十字軍などという山賊・海賊の軍事力に浸食された。そして、何世紀も続く欧米の文明と軍事力が、世界を支配してきた。それがあまりにも長かったので、崩壊の序章が始まったのにも気が付かない。江戸時代が長く、変化に鈍感になったことと共通する▼第二次大戦後、欧米のリーダーとして、唯一の戦場にならなかった米国が覇権をふるってきた。その力は、今も軍事力では世界を圧倒する。その経済がおかしくなっている。経済力に比して、借金をしてよい限度を越してしまったのだ。昨年末の“財政の崖”は、クリアしたわけではない。財政法の規制を緩和して、借金の限度額を増やしたに過ぎない。今後、この収支を改善できるプランはないのだ。唯一、軍事力の大量削減だけが、生き残るすべなのだ▼安倍内閣をして、自衛隊を米軍配下に仕組む画策がある。『特定秘密保護法』は、米軍の一部になるためには、情報ダダ漏れの自衛隊では都合が悪い。正に米軍に要請された法律。だが右翼安倍内閣は、戦前の『治安維持法』にまで強化するつもりは明らかだ▼欧米の覇権の次に来るのは、明らかにアジア。それも公称13億の中国の台頭だ。GDP(国内総生産)で米国を抜くのは、2016年だといわれている。軍事力で超えるのも、そう遠いことではない。その際、国民に選挙権のない国体に、覇権が握られることに懸念が無いではない▼現代軍事力は、人類滅亡を簡単に遂げられる威力がある。大国が軍事力で覇権を握る時代は、この先に選択肢としては無い。国際的に市民が手を取り合う時代が来たといえる。インターネットの技術は、それを可能にしている。米国が覇権を維持する悪あがきを許すのか、中国がその座を取得するのを黙認するのか▼時代は、すべての人々に問題提起を突き付けているのだが (コラムX)
今年もあと五週間になった(斑猫独語 58)
澤山輝彦
画でもさわるか、本でも読むか、俳句でも作るか、という気になってひとまずスタートしようと机に向かったのだが、まわりに色々な物を積み重ねてきたのが眼につきだし、これを片付け始めたところ、あれもこれもと大げさな事になってしまい、ほとんど午後半日を費やしてしまった。こういう発作を年に何回か起こしている。
この片付け仕事なかなかてきぱきと進まないのである。写真が見つかれば、どこで、いつのことや、と昔の事を思い出すのだから時間はかかる。コピーした文書などやはり読んでしまう。そんな中の一冊の雑記帳に、川西自然教室が第二名神反対運動に取り組み始めた頃の事だろう、童謡や唱歌、世界名曲の歌詞を第二名神反対という替え歌にしたものを書き留めていたのを見つけた。すっかり忘れてしまったけれどやったことは思い出した。ほんの一晩か二晩の乱造物であるが、まあ懐かしい物であった。
能勢電に乗って川西能勢口へ出る途中で、能勢電をまたぐ第二名神の架橋工事現場が眼につくようになった。山は無惨にけずられている。反対運動って何だったんだろう。そんな気がする。一つは、あの運動の総括が出来ていないからであると思う。(総括という言葉に何か懐かしみを感じるのだが)もとより私達の運動で第二名神がつぶれるだろうとは思っていなかったけれど、そんな中での運動だ、何か得るところ、価値あることがあったはずだ。そこの所をしっかり総括してこなかったことが、今、工事現場を眼にして、打ちのめされてしまうことになるのではないか。いや、ちゃんと総括はしてある、と言われたら夜都市波田(寄る年なみだ、こんな字に変換されました)と自分を責めて終りにしますが。
今日、伊丹市立美術館でベン・シャーン展を見てきた。なかで、1954年の水爆実験に被災した第五福龍丸を扱ったシリーズ物の前で、しばし足が止ってしまった。ちゃんとこんな仕事がなされていたのである。この国の現状と言えば、3.11はもう昔のことにしてしまっている。外国には首相直々に出かけて原発を売り込んでいるし、原発再稼働の声は強くなる一方だ。新聞は原発再稼働反対のキャンペーンをはれない。秘密保護法まで出来てしまったのだ。ほんの少しだが芸術にかかわった私だ。厭な物はいや、憎むべきものは憎む、そんなことを根底にした作品を作らねばと思ったのだ。
政治に不満があっても、元はと言えば選挙で彼等を選んだ人々があるからで、その結果がこうなるのだから仕方がない。でも、外国からそのやり方が心配されるような政治は、多数決の結果だから文句あんのんか、と言ってしまえばそれは危険だ。まあ、大衆がかしこくならなければいつまでたっても何を言っても無駄だ。
ベン・シャーン展は12月23日までです。
赤い夕陽⑩ さまざまなソ連将校たち
三橋雅子
<ラボータ(労働)と国民性?>
我が家と同居していたソ連の将校たちは、軍服を着るとバリッとして、ピカピカの肩章も似合う男前達なのに、どてらを好んで着て蓄音機に耳を当て、いつまでも飽きることなくトランプに興じるさまはあどけなかった。暇さえあれば遊ぼう、か歌おう。彼らの勤務はどうなっていたのだろう。たまに一人が軍服を着て、後ろ髪を引かれるように、口をへの字に曲げて出かけていくのを、遊びの輪にいる同僚たちは口笛を吹いて「なんとかかんとかタワーリシチ(同志よ)」とほざいてザマーミロのごとく見送るのであった。
しかし朝から晩まで彼らに付き合って機嫌を取って暮らすわけにはいかない。食べ物に不足することはなかったらしいが、まともなお米などはなく、混入している稗や石などを選らなくてはならない。あるいは玄米のままを、一升瓶に入れて、棒で搗いて白くする仕事があった。「明日の糧の為に我々は働かなくてはならない。ラボータ、ラボータ(労働)」というと、彼らはこのラボータには殊の外弱い。「働かざる者食うべからず」(いわゆる「スターリン憲法」の第12条・労働の義務規定)のお国柄では絶対の切り札で、諦めて解放してくれるだけでなく、彼らも喜んで「ラボータ、ラボータ」と手伝ってくれた。彼らの腕力で一升瓶をシャカシャカやると、たちまち白いお米になるのだった。「オーチェン ハラショー(very good),スパシーボ(thank you)」と言えば、子供のように喜んではしゃいでいくらでも、もう十分、と言ってもやってくれる。「もうお米粒が小さくなっちゃう、もったいないから止めて・・・酒米じゃあるまいし・・・」と止めるのに必死。彼らは腕力に優れているだけでなく、飽きることを知らず、始めた仕事はいつまでも根気よくし続ける特性があるようだった。
後に佐貫亦男著『発想のモザイク』を読んで、各国の民族性の洞察に驚いたが、その中でロシヤ人の特質は一旦やり出したら、やめない、止まらない、という持続性が記されている(時定率に対して、出力がいつまでも落ちない)のを発見して、「これだ!」と膝を打った。あの時の観察、感想は間違っていなかった、と懐かしく思った。「ロシヤ人は道に水を撒け、とひとたび命じられると、いつまでもこの作業をし続け、雨が降ってきてもまだ撒き続けている」というジョークには吹き出してしまうが、如何にもありそう、とうなづける。
ついでに彼らの「特性」を思い浮かべると、何となく愛嬌のある「抜けている」性癖があるようだ。ソ連の兵士や憲兵達は、物を探すのに誠に大雑把で、押入れを片方開けて目指すものがないと、「ニエット」と諦めよくスタスタ行ってしまう、ということがある。実際、どやどやと踏み込まれて押入れに隠れた女性が、反対側の襖をガラッと開けられて、ああ次はこっち側、もう駄目だ、と観念してぶるぶる震えていたら、そのまま行ってしまって、拍子抜けの命拾いをした、ということも聞いた。また運悪く、潜んでいた方の襖をガラッと開けられて「もう駄目だ」と観念し、破れかぶれで「わーっ」と大声を出して首っ玉に飛びついたら、相手は腰を抜かしそうに驚き、振りほどいてほうほうの態で逃げ去ったとも。あれで兵士が務まるのかねえ?最後まで諦めるものではないよ、と彼女は述懐していた。
そういう時必ず引き合いに出されるのは中国人のしぶとさである。彼らが押入れの片方を開けそびれるなどということはあり得ないし、探し物をするときは、壁という壁までコンコンと叩いて異常を確かめる。日本人は初め、その行動を理解できず、やや経って、大事なものを壁の中に隠すという方法を知る。日本人の知恵はせいぜい庭の土を掘って埋めることくらいだが、それも目印に木の周辺だったりする幼稚さである。我が家が庭に埋めたという、いくつものお金の袋は、庭中に水が撒かれ、凹んだところを掘り起こして、ことごとく持ち去られたらしい。天井裏に燈火管制時の黒い布にさりげなく包んで放り投げてあったお金の包みも、ソ連軍の引揚げまでは無事だったが、中国支配後は電線を張り巡らせて、ことごとく持ち去られていた。彼らが生き抜いてきた知恵からは、日本人の隠し所の看破など、赤子の手をひねるようなものなのだろう。
<ケレオの失敗>
ある時ケレオが、バザール(市場)に行ってきた、と言って、新聞紙に包んだ小鯵をから揚げにしてくれという。
中身が如何にも少ない。母はこれっぽち?自分の分しか買ってこなかったのか、ケチだねえと言いながら調理をしかかった。彼は頭を掻きながら説明をする。バザールで買った新聞紙の包みを持って彼が歩いていると、「モシモーシ、モシモーシ」と呼びかけられたが、立ち止まっても意味が分からない。そのまままた大手を振っていくとまたまた何回もモシモーシと言われる。彼は軍隊の行進のような格好で、大股で両手を振って部屋中を歩き回り、時々傍らによってモシモーシとよびかけるジェスチャーを何回も繰り返す。そのうち沿道で笑いあったりする身振りも添え、「ヤー ニエポニュマーユ(分からない)」と首をすくめたまま家に帰ってきたら、中身がこれっぽっちしかなかった。途中で、あらかた振り落してきてしまったらしい、と肩をすくめて泣きべその顔をする。私たちはもうおかしくておかしくて、涙が出るほど笑い転げた。出来上がった唐揚げを、「はい、よく分かったから、お一人で全部召し上がれ、ポジャールスタ(どうぞ)」と差し出すと彼は首をすくめながら、ニエットニエット(いや、いや)、みんなで食べよう、と一匹づつ口に入れてくれた。笑い転げた後の、久しぶりの珍しい御馳走はまさに「オーチェン ハラショー!(very good)」であった。今でも鯵のから揚げには、この時のおかしさが出てきてしまう。
<最初が肝心?>
彼らがあまりにレコードのボリュームを上げて、ガンガン鳴らしていると、父は「うるさい!もっと小さくしろ」と遠慮会釈なく怒鳴りつけた。首をすくめるくらいでいうことを聞かないと、父は「ここを誰の家だと思ってるんだ!居候らしくしろ!」と怒鳴りつける(自分自身「追い出され先」の居候なのだが)。彼らは首をすくめながら「パパさんフィーッ」と追いやる格好をし、人差し指と中指をトコトコさせて手を払い、あっちへ行け、ヤーパン(日本)へ、というしぐさをする。2本の指は歩く格好なので、父は激怒して「馬鹿を言え!日本に帰るには海があるんだぞ、海が!誰が歩いて帰れるんだ!」と怒鳴りつける。私たちに「海はなんていうんだ、海があるといってやれ!」「えーっとモーリェ?モーリェ…だっけ」なんてその問答がおかしいやら・・・。しかし母が笑いながらもふっと涙ぐんだのを見て、帰りたくても帰るに帰れない父の、それ以上に、ハタチ前に裸一貫で「狭い日本」を飛び出し、この地に苦節40年、ひと言も口には出さなかったが、ここで骨を埋めるつもりで修羅場を潜り抜けてきた父の心情を垣間見た気がした。将校たちは、その剣幕に、素直にボリュームを下げ、座布団を上からかぶせたり、大きい図体を丸めて蓄音機に耳を付けて聞いたりしているのが、何ともおかしかった。
隣の老夫婦がやってきて、ほとほとこまっている、とこぼした。訊けば餃子を作れと言われて作ったら、こんなもん餃子じゃない、と怒られて機嫌が治らない、作り方が分かったら教えて欲しいという。ロシヤの餃子ペリメニは女の眼という、中国のそれとは違った形をしている。私たちはそれは食べたことがないから作りようもない。父はまた激怒して、「そんなことをいちいち相手にしているから相手はいくらでもつけあがるのです。我々の餃子はこれだからこれしか作れない。いやなら食うな、自分で作って教えろ、と言えばいいでしょう。」とどなった。聞けば横暴は今に始まったことでなく、彼らのご帰還には、夫婦で三つ指をついて「お帰りなさいませ」と出迎えるのだという。そうでないと機嫌が悪く、やるまで上がってこない、とも。父はますます怒り、「戦争に負けたからって、誰がそんなことまでやれといってるんですか、大体三つ指ついて出迎える風習なんて、奴らが知ってるはずないじゃないか、スターリンなら、こうして出迎えるのか、と言ってやりなさい。平等の国じゃなかったのかい?そんなことをして、のさばらせているから、際限なく奴らはつけ上がるのです。敗戦国民だって、もっと毅然とするべきです」と、もう怒り心頭で、年長の夫婦に向かってどなった。そこにも父の「必要以上にへりくだる敗戦国民の悔しさ」が滲み出ていた。夫婦が帰ってから父は「最初が肝腎」といい、母は「子供がいなくて気の毒」とぽつりと言った。
しかし子沢山の、反対側の隣家はもっと悲惨だった。子沢山ゆえに。我が家と大体同年輩のお嬢さん達は、同居の将校たちの眼を避けて、物置や天井裏に隠れて暮らしているという。時々草が丈高く茂った裏庭で、背の高い将校が「女の匂いがする」というようなことを呟きながら、鼻をぴくつかせ、鋭い目つきで草を掻き分けているのが怖かった。「隙を見て娘たちに三度三度のご飯を運ぶのがねえ」と老夫婦は溜息をついた。父は最初が肝心と言い、母はうちは良い連中に恵まれて運が良かった、と溜息をついた。
「同じ屋に喜怒哀楽を分かち合う将校達と我が家の幸運」