脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

もうひとつのボクシング

2018-05-18 | Weblog

私は学生のころケグジェンイであったようだ。ピーターにもう少し治安が悪いところだったら撃たれていると言われたぐらいで、その私が言うのもなんだが日本のスポーツの世界は子供じみていて成熟できていない。成熟できていないからお山の大将のような存在が、その世界で君臨してガキ大将のようにふるまうのだと思う。アメフトの事件も監督の指示があったとかなかったとか、でもそんなことは誰が言おうがやってはいけないことである。もしやれと言っていたならばやれと言うほうも言うほうだが、しかしそういう非道徳なことをやるほうもやるほうだ。私ならば何があってもそんな犯罪のような命令には従わないだろうし、そんなことを言われたらなぜだと質問をするし、場合によってはF〇ck youと帰っているだろう。私はそんな監督を絶対に尊敬しない、たぶんそういう性格であるから日本と言う国のスポーツでは順応できないのだと思っている。

私のチームの監督はヨーロッパ系の人間で超インテリである。言葉などもラテン語を引用したりなどと知的教養のある言葉を用いていたが、彼が日頃から言うのはリングを降りたらジェントルマンであれと言うことである。彼はスポーツをする人間は相手を尊敬しなければだめだ。尊敬できない奴は競技する資格がないとさえ言っていたが、たたかった相手を尊敬するといいことは当たり前だがスポーツの根本で、そのことがあるからスポーツを競技することは素晴らしいと言える。私自身もいろいろな民族の中で競技していたので、あいつだけは絶対にぶちのめしてやると言うような人間もたくさんいたし、事実向こうもそう思っていただろう。でも不思議とそういう相手であっても試合後には自ずとその競技者を尊敬できる。それはお互いがボクシングと言う競技の中において正々堂々と力を出し切ってたたかったからこそわかる尊敬であり、そういう尊敬は正々堂々と競技するからできることであると思っている。

私自身一流の競技者でもなかったし、そうたいした実績もない。でも向こうでやったひとつひとつの試合はすごく楽しかったし、私にとってそれらはすごくいい思い出であった。本当に私の競技人生は充実していたと思う。それは私が小さなヒエラルキーにしばられて誰かにやらされているのではなく、私自身がひとりの競技者として相手と向き合って正々堂々と精一杯競技できたからこそそう言えることだ。そしてそのことができるのは監督やコーチが縁の下の力持ちになって私を支えてくれたからである。キャンバスの上は平等だ、何とか軍団の何々とか、どこの国の人間だとかそういうことは一切関係なく、そういうしがらみを一切すてて正々堂々とそこでたたかうからお互いの尊敬が生まれてくる。我々が向き合っているのは競技者で、監督から認められたり賞賛されたりすることがプライオリティではない。相手から尊敬されるようなファイトをすることがプライオリティであり、それが競技する意味であると信じている。そのためにはしがらみを一切すててほぼ100%で相手に向き合うことだと思う。


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