脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

本・人・旅

2024-04-24 | Weblog
「人生を面白くする 本物の教養」の中に「私にいくばくか教養のようなものがあるとすれば、それを培ってくれたのは、「本・人・旅」の三つです。私はこれまでの人生で、「本・人・旅」から多くのことを学んできました。あえて割合を示せば、本から50%、人から25%、そして旅から25%ぐらいを学んできたといったところでしょうか。」と書かれている。私の学生時代の話になるが監督はよく「リングをおりたらジェントルマンであれ」と言っていたが、この言葉は何の実績も根拠もないのに文武両道とかしらじらしく言うのではなく、監督自身教養が高くて、所作も身につけているので、すごく説得力があった。よく運動部で礼儀と言うけれども、でかい声であいさつとか敬語もどきの言葉を使って服従することが礼儀ではないだろう。私は正しい日本語を話すことが礼儀正しいことだと理解しているが、敬語もどきをつかって相手に服従の姿勢を示すぐらいは反社でもできることだ。私が解釈するに監督の言う「リングをおりたらジェントルマンであれ」と言うのはコモンセンスとエチケット、教養を積む、そして弱者をいたわることがそうであり、そのため本を読んだり、半グレのような集団ではなく、大人が集まるコミュニティで人と交流すること、そして外の世界に出て行って見聞を広めることは必要なことだと思う。海外に出ていっていろいろな国の人間と交流を持てば、日本がいかに裕福で、自分たちは恵まれた環境で生きているという事がわかるだろう。そして私自身もドネイションをしているが、それは海外で友人がかかわっていること、そして話を聞いて、自分も何か役に立ちたいと思ったからであり、私の人の役に立つ仕事をするという考え方はその体験が大きい。
ジムで英語やほかの言葉が話せて、教養ある人が一定数で存在することは子供にとって大きなアドヴァンテージだと思う。不良がボクシングやったからと一時的に変わるというのではなく、ここに来ていろいろなことを押し付けられることなく雰囲気の中から学んで成長する、家族の人が安心できるようなジムにしたいと思っている。
参考文献 「人生を面白くする本物の教養」出口治明 幻冬舎新書

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Replace the word Love with I

2024-04-08 | Weblog
"Love is patient and kind. Love is not jealous or boastful or proud or rude. It does not demand its own way. It is not irritable, and it keeps no record of being wronged.It does not rejoice about injustice but rejoices whenever the truth wins out.Love never gives up, never loses faith, is always hopeful, and endures through every circumstance.Prophecy and speaking in unknown languages and special knowledge will become useless. But love will last forever!"

友人のジウンが好きだったバイブルの言葉。私にLoveのところを自分の名前に置き換えて読んでみて、そうしたら最後まで読めないという。確かに私は忍耐強く、親切だ。ねたまない、自慢しない、不作法ではない、ここまで読めば「私はそんな人間ではないです」と言いたくなる。彼女曰く人間は完全ではない。だからその慈しみあふれる神の愛が必要である。でも私は思う。不完全だっていいじゃないか。不完全であるからこそ人間はその人の弱さや欠点に気づき、そしてそれを受け入れてカバーしあう。その不完全なもの同士が集まってお互いを支えあうことで人間は成長する。そしてそういうお互いを認め合った人間が集まる共同体が、人を生かすことができるというのが私の考え方である。うちのクラブに来る人たちは運動音痴や自称ヘタレ、そんな人たちがまず言うことは「こんな自分でもできますか」だ。私はその時「目標をもってやればできる」とか「最初はそちらのペースにあわせて徐々に」なんて言うことは言わない。まずその人の弱さを理解して、ここはそういう人たちが集まるところだから安心して堂々とトレーニングしてほしいというようにしている。よく群れを率いるためにリーダーシップを発揮しろと言うが、しかし私は群れを率いるのではなくて、そういう時、好んでassistという言葉を使う。assistと言うのは援助する、助けて(…)させる、助手となって働く、(…の)助けとなるという意味で、その言葉が意味するように、自分たちが引っ張っていくのではなくて、表に出ないで彼ら彼女らを後ろで支えていく、そういう意味でassistという言葉を選んで使ってる。私は思う。完璧じゃないから人は愛せる。完璧な人間を崇拝することはできても愛することはできない。人間は完璧ではない。そのお互いの弱さを知ってともに支えあっていく共同体、そういうことを目指して存続しているクラブがあってもいいではないかというのが私の考え方だ。 


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ラテン語のすすめ

2024-03-25 | Weblog
以前本の紹介で「教養としてのラテン語の授業」 ハン・ドンイルをあげたが、この本が韓国では100刷を超えるロングセラーになり「世界を見る視野が広くなった」「思考がより深くなった」と絶賛の声が集まっているそうである。 温故知新は韓国語では「온고지신 」意味は日本語とおなじであるが、四字熟語は中国から来ているので日中韓と共通であるが、言葉によって意味がかわる言葉もある。例えば八方美人は日本では誰にでもいい顔をする人のことでネガティブな使い方をするが、しかし韓国では社交的な人のことでポジティブな使い方をする。話は論文の話になるがだいぶ前友人のDrに文系の論文の評価はどこにあるかと聞かれたことがある。その時文系は比較が重要だからなるべく多くの文献を読んで比較すること、その上で参考文献の量だと言ったことがあるが、私は文系は比較が大事であり、さらにその研究によっては原書で読むことは必要な作業だと理解しているが、ラテン語はそういう意味では王道であり、当時世界の共通語的なラテン語を理解することで多くのことが得れると思う。
「Carpe diem」と言う好きなラテン語の言葉がある。これは私の監督が言っていたことでホラティウスの詩の一文、直訳すると「その日を摘め」違う日本語訳ではその日を精一杯生きろである。 私は時々クラブの若い会員に若い人の涙はこやしになるし、恥ずかしい思いをすることは貴重なことだと言う。失敗してもいいし、負けてもいい、どうであってもすべてのことを受け入れることができるように精一杯生きると言うことにその日を生きる意味がある。 自分がそこで一生懸命、力を出せたか、そしてそのための準備をしたかということ、本当に満足できる競技人生はその積み重ねの結果ではないかと思う。勝ち負けだけにこだわっていたら成長などするはずはない。ドイツの詩人ヘルマンヘッセはこういう言葉を残している
「鳥は卵から出ようともがく。卵は世界だ。生まれようとする者はひとつの世界を壊さなければならない。」
ドイツ語 "Der Vogel kämpft sich aus dem Ei. Das Ei ist die Welt. Wer geboren werden will, muss eine Welt zerstören."
英語 "The bird fights its way out of the egg. The egg is the world. Whoever will be born must destroy a world."
失敗や挫折とも思えることも実は後になって考えてみたらその自分の小さな世界をこわすひとつのきっかけである。失敗は成功とはいえないが、しかしそれらのことは人間特に若い人たちを成長させるこやしだ、語学を学ぶことは温故知新を知るだけではなくいろいろな角度から世界、そして自分を見ることができる。実際私はそのことが年を取った今わかりつつあある。


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「ドイツの学校にはなぜ「部活」がないのか」を読んで

2024-03-15 | Weblog
毎年クラブ内でのいじめが問題になっている。インターネットで取り上げられる記事はいじめと言うよりもむしろ犯罪であるが、好きなことをやっているのになぜそのようなことがおこるのか理解できない。私は上下関係があることはかならずしもわるくないと思っている。なぜなら年長者をうやまう関係性において敬語をおぼえるし、何かを学ぶ姿勢を学べるからだ。最近見た面白い本がある。ドイツ在住のジャーナリストが書いた「ドイツの学校にはなぜ「部活」がないのか 」と言う本だが、この本によるとドイツではクラブ活動は、自分の自由な時間であり、もし個人がスポーツがしたければ、NPOなどが運営するスポーツクラブに加入するのが一般的であるそうだ。そしてそのスポーツクラブは日本の部活のように同じ学校の限られた年齢層が集まる集団ではなく、そこには子供だけでなく大人までいて一緒にスポーツを楽しむのだが、それは日本のように学校内だけのクラブではなく、社会全体のクラブであり、年齢や立場をこえて、平等に純粋にスポーツをする人間が集まるコミュニティである。
人間関係においても、スポーツクラブはスポーツを共にする仲間として平等である。一方、日本の部活は監督を頂点とする厳しい上下関係、ヒエラルキーがあって、たかだかスポーツをするのに上下関係を意識し、時には服従をしいられるが、はっきり言ってそれは平等とは言えないであろう。また、ドイツではクラブに入ったけれども、自分に合わないと思えば、簡単に別のクラブを探して入りなおすことが可能だ。けれども日本の学校システムではそれがなかなか難しく、そういう閉ざされた世界での厳しい上下関係が、いじめをひきおこす要因であると思っているが、ドイツのように学校社会とスポーツコミュニティが分離している世界ではそういういじめが起きにくく、日本のように多様性をみとめない、閉ざされた世界がいじめを生み出すのではないかと言う、スポーツ集団の構造を問題にした著者の意見は、現在起こっているスポーツ社会のいじめに対して一考に値する意見であると思う。

参考文献「ドイツの学校にはなぜ「部活」がないのか」 高松 平藏  晃洋書房


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サルトルは死んだ?

2024-03-08 | Weblog
最近会員の人がある研究者にはまっていて、イスラム教の話をする。一般的に日本人の多くはイスラム教に対して警戒心を持っているし、私もそうだ。無利子で貸してくれるイスラム銀行、ウンマ共同体の持つ助け合いの精神は高度な思想であると思うが、しかし問題なのは一神教は排他的であり、その物差しが絶対的に帰依すること、神への服従にあるという事がわれわれには理解できない。「submission」と言うミシェル・ウエルベックの書いた小説がある。これは私がだいぶ前にあげた小説であるが、その時は英語と韓国語にしか翻訳をされておらず、2015年になって日本語訳が出版されたが、舞台は2022年のフランス。大学で教鞭をとるフランソワは、研究者としての能力や知的欲求も低下していると強く感じていた。その時フランスは極右に傾こうとする国家にイスラム政権が台頭し、国民の支持を得ていた。フランスの国民が極右を信じてファシズムになるよりもましだと、イスラムの政党を支持し始めたのだ。そして極右・国民戦線マリーヌ・ル・ペンと、穏健イスラム政党党首が衝突、内戦直前まで行ったが、左派が国民戦線を嫌い、イスラム政党を支持したため、フランスにイスラム政権が誕生する。そしてイスラム政権によって大学の教員はすべてムスリムであることが義務付けられ、主人公は解雇されてしまう。新たに生まれ変わった大学からの求めに応じて、イスラムに改宗するかを真剣に考えるのだ。この小説の題名である「服従」は自分の存在意義を保障してくれるのは、何かに服従している時だけなのではないか?という問いかけを意味する。確かにイスラム社会では、ほとんどの女性は教育機会を奪われ、恋愛の自由も制限され、服装の自由も限られ、徹底した服従を強制される。一方、男性、特に社会的に優位な立場にある人々は、強力な権力を獲得する。そういった不平等、不公平はあるが、しかし男女ともにこの構造のなかで自分が何者かでいられることに何らかの安心感はないかと問う。神への服従、女性の男性に対する服従、人間は服従することで自由になれるのではないかと言う問いかけがある。サルトルによれば人間はこの世に存在し自らの自由な行動によって自分がなんであるかと言う本質をつくっていく存在である。それをサルトルは「人間は自由の刑にしょせられている」といったが、個人主義を徹底してつらぬき生きていくことはしんどいし、非常にむずかしいことだ。人間は何かに帰属することで安心感を得れる。宗教的になると行き過ぎであるが、スポーツクラブもある意味その帰属性が求められる。過干渉せず、常識的で、ボランティア精神がある、誰が来ても帰属することで安心感を得るクラブを目指している。私がコミュニティ論やアドラーなどを研究しているのは、まさにそういうクラブを目指しているからだ。

これは私の個人的な意見だが、かなり昔は日本人は帰属性のようなものがあったように思える。おそらくそれは教育によるものなのだろうが、自由とか個性をうたいすぎるのもいいが、まずもう少し自分たちの帰属する国家について考えることも必要であると思う。

Reference "Submission" Michel Houellebecq Farrar Straus & Giroux
参考文献 「服従」 ミシェル・ウエルベック 河出出版




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Encouragement

2024-02-25 | Weblog
時々いじめやスポーツのことで相談を受ける。これはその中にひとりの人の話であるが、そこそこ上手だったけど記録がのびなくなって、そのことをコーチにつつかれて人間関係に悩んで学校に行けなくなったという事でお母さんと相談に来た。私がまず彼に教えたことはスポーツは遊び、たかだかスポーツだという事である。おそらくこういう人はずっとそれをやることが人生のすべてだと思い、親もそういう環境に子供を置くことがいいと考えて歩んできたから、逆にそういう人間にはたかだかスポーツぐらいに考えてやらないと逃げ道がなくなる。続けることを選択して、あきらめるなとか、見返してやれと言う発想ではしんどくなるだけである。私は昔から家父長制の運動部の体質を批判しているが、監督がお父さん、家父長制のシステムでは成長に限界があるだろう。アドラー心理学で勇気づけと言う言葉がある。これは「ほめる」とか「しかる」という上から目線の行為ではなく、フラットな関係においてお互いを認め合い、リスペクトすることだと理解できる。私が競技した土地では競技者をBoyと呼ぶが、その関係は日本のような家父長制のお父さんと子供ではなく、フラットな親子関係、絆を意味するが、たいした実績ではない私が、ジョージやアレンにレスペクトされたことで自分に自信が持てるようになったことは確かなことで、それが今の私である。犬のように「おい」と呼ばれて「はい」とそこにはせ参じるのは人権侵害、なぜこういうことがおかしいと気づかないのか不思議だ。くだらない精神論を聞かされて強くなったような刺激をうけたり、師従関係で上から目線で犬のようにほめられるよりも一人の人間としてリスペクトされる方が心が育つ。競技が上手とかそうでないとか、どちらが上か下かで優位性が決まるコミュニティはレベルがひくい、こういうところで本当に子供の心が育つかどうか疑問である。あくまでスポーツは遊び、そのスポーツができる出来ないで優劣を決める集団はフラットな人間関係が築けない。
MOBのみなさんは人のいいところを見てくれて、お互いをリスペクトできている。そういう人間関係がジムの雰囲気をよくしてくれているし、競技が上か下かだけで見ていないので楽しくできるし、子供や若い人たちにはいい刺激になり、影響を受けることで将来の選択肢が広がることは確かである。

References  "What life could mean to you " Excerpt a quote from thesis of  Adler 

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おすすめの電子書籍

2024-02-20 | Weblog
最近おもしろいなと思った本がある。それは平山美希 さんの「「自分の意見」ってどうつくるの? 哲学講師が教える超ロジカル思考術」これは電子書籍になるのだが、是非中高生あるいは大学生に読んでほしい一冊だ。彼女は日本の大学に在学中にシモーヌ・ヴェイユに興味を持ち、さらに深く学ぶためにパリのソルボンヌ大学に編入して本格的に哲学研究をはじめ、哲学を教えるようになったのだが、本書はその留学時代に経験したことがベースとなっている。フランスの高校生は卒業するために高校卒業資格を認定する「バカロレア」という試験を受けなければならないのだが、科目には哲学があって 彼彼女らは哲学の授業のなかで、試験を解くためのメソッドを習うそうだが、本書ではそのメソッドを「① 問いを立てる② 言葉を定義する③ 物事を疑う④ 考えを深める⑤ 答えを出す」とわかりやすく解説しているので、哲学がよく分からない人でも理解できると思うが、特に疑うことは大事である。日本人はこういう哲学的思考ができないので、疑うと言うとただ否定的な受け方しかできないが、しかし物事を肯定的に考えるためには疑うことも必要なことである。カエサルなどの格言を見てみると否定から肯定にはいることが多いが、それはこういう一流のリーダーはまず物事をうたがうことからはじめるのだろう。私の例をとって説明すると、よく来た人にジムはアットホームでいいところですねと言われる。でもアットホームはいいことなのか、さらにいごこちがいいのは誰に?と考えてしまう。アットホームはむしろ特定の人たちが強く結びついているだけではないのかと疑うのだが、群れは平等でなければならないので、そこに少数派が存在していないかということを考える。そうなるともっとまわりの人の話を聞いてみようとなるのだが、その時またさらにまわりのことが見え始めて考え方をあらためさせられることがある。一部の人間たちを大事にしてとりまきにしてわいわいとやっているとあたかもジムは活気があって、まわりに喜ばれていると錯覚してしまうが、ジムは公共の場であって昨日入会した人も会員である。私は決してべたべたした人間関係がアットホームで雰囲気がいいと考えていないが、ここに来た人が権利を持ってどうどうと楽しくトレーニングしてくれることを望んでいる。そのためには全体に目を通して、ひとりびとりをリスペクトすることが大事だと考えている。それが私がジムを健全に保ち、雰囲気をよくしていくための答えである。
メソッドを持つことは大事だ、英語でも仮定法はこれとこの問題をおさえていたらだいたいとけるという理解のメソッドがあれば全体を理解できる。




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アーレントとMOB

2024-02-09 | Weblog
ハンナアーレントの「権力」は、「人びとが共に集合し、協力して活動するとき生まれ」共同する人間が多数であればあるほど「権力」は 大きなものとなり、「活動」を 通じた集団の共同行為によって形成・維持されるものである。この考え方はマックスウエーバーが「権力と支配」の中で語るような、他者の抵抗に反してでもおのれの意志を貫徹する可能性としての「権力」とは大きく異なっている点が特徴的である。権力と言うと力による何かによって抑制する力を思い浮かべるが、しかし私なりに解釈すると権力とはその群れが無秩序や暴力的な支配にならないように正しい秩序へと結び付けていく何かであり、それはハーレントのいう活動(言葉による人間関係の構築、異なった考え方の意見が言葉を通じて知られることで、共通理解と認識が生まれ、共通世界が実現させることを理想とする)を通して実現されると理解している。アーレントは「全体主義の起源」の中で共通世界が画一化されて全体主義になると他者の立場になって考えることが希薄になると言っているが、全体主義は権力が集中することだと理解しているが、運動クラブで起こる暴力やいじめなどの不祥事は監督の考え方ひとつで全体の方針や目的が決まる全体主義がひきおこす問題であろう。MOBの権力はそのひとりびとりのコモンセンスやエチケットによって決定づけられるもので、それはひとりびとりが安全でかつ、平等そして自由にトレーニングできる権利をうばうものにたいして抑止力となるものである。そしてさらにアーレントが言うように権力が活動によって生み出されるものならば、その群れは流動的であり、たえずそこでは意見交換がなされなくてはならない。話は少しずれるかもしれないが、私がよく群れに知的レベルの高い人たちが一定数存在することでその秩序が自然と保たれると言うのは、常にコミュニティの秩序が流動的な活動を通して守られ、導かれると考えているからだ。

参考文献
「暴力について―共和国の危機」 ハンナアーレント みすず書房
「ハンナアーレント革命について入門講座」 仲正昌樹 作品社



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「Drastic」「 Dogma 」「Double standerd」

2024-01-29 | Weblog
うちのクラブに来ている人たちのほとんどと言うかほぼ全員が健康維持やダイエットである。中にはボクシングに興味ない人も在籍しているが、それでも堂々と権利を主張してトレーニングできるのがMOBである。わたし自身この群れを形成するうえでこころがけていることを3つのDにあてはめている。それぞれ「Drastic」「 Dogma 」「Double standerd」であるがこれらのことはクラブを運営する上で基本的な指針としている事柄である。
まず「Drastic」は思い切って何でもする。時には後ろを振り返らない決断も必要であるということだ。おそらく多くの日本人はこのことが苦手であると思う。私のことを日本人的でないと言う人がいるが、おそらく私はそういうことだと思っている。うちのクラブは暴力的な人の入会をお断りしているが、女性も多数在籍しているのだから、格闘技でおこりがちな暴力に関しては厳しく管理し、クラブを運営するにあたってこりゃあだめだと思うような人間は退会してもらうようにしている。しかしそれは個人の感情ではなくまわりにとってこの人間やグループがいたら雰囲気をこわすとかクラブであまり目立たない存在がいやな思いをしたりトレーニングがやりにくいと言うような明らかにバランスをかくような自己中心的な人間、エラそうではあるがこれもここにきておとなしくトレーニングしている人たちの権利を守るためであり、そういう人たちも含めて誰でもいかなる目的であっても楽しく平等にトレーニングしてもらうためである。格闘技は目立ちたがり屋やいかにもやんちゃですというような人間が多いので、人にうらまれようが怒りをかおうが、群れを健全に平等に運営するために正しい選択をする、時にはドラスティックであることは大事なことだ。
「Dogma」は宗教用語で教理と言うこと。簡単に言えばどういう哲学を持って運営していることかということである。そのことについては何度も説明しているので詳しく書かないがMOBでは特に共同体がどうあるべきかということを考えて、互いにいい影響を与えあうことができる共同体を目指している。

さらに「Double standerd」は多面的に物事を見るということ。2つ以上の視点を持つということ。これはある意味語学ができなければ難しいことだ。例えば子供にボクシングを競技としてさせることは正しいことかということは日本と欧米では全く立場が違う欧米ではボクシング廃止論を皮きりに子供にボクシングを競技させるなと言う論文が発表され、こういう見解ひとつにしても英語が読めなければ理解できない「double standerd」に立つということは英語が読めなくてはできないことである。私は語学音痴であると保守的になると保守的であることはスポーツ集団にとってはかなりディスアドバンテージでなのだが、問題を起こすようなクラブは保守的で封建的、家父長制的な集団だと思っている。MOBは社会人がおもに集まるコミュニティである。一部の特定の人間だけが目立つのではなく、みなさんが平等に楽しくトレーニングできるように配慮する必要がある。3つのDとはそのための政策である。


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when everyone is in the wrong, when everyone is in the right

2024-01-23 | Weblog
フランスの劇作家ピエール、ド、ラ、ショーセはこういう言葉を残している。
「when everyone is in the wrong, when everyone is in the right(全員が間違っている時には、全員が正しいことになる」 おそらくこの時代はフランスも封建的であったので、そのシステムに向けられた言葉であると思うが、ジムのコミュニティも同じで親玉中心の封建的社会になると正しく機能しない。社会学の用語に「Gesellschft」と「Gemeinschft」という言葉がある。日本語でも「ゲゼルシャフト」と「ゲマインシャフト」という言葉で知られているが、ゲゼルシャフトは都市型の共同体のことで、ゲマインシャフトは農村型の共同体、オリーヴはどちらかと言うとひとりびとりが独立した人が多いので、ゲゼルシャフト型の共同体にあたると考えている。ここの会員はひとりびとりが独立していて大人の付き合いができるから人間関係が楽だ。MOBの会員はみんな責任を持って仕事をしているので、ボクシングは趣味として割り切っている人が多く、仲間意識であつまる集団ではないので非常に来やすいと言うことは初めて来た人からよく聞く。私がさけたいと思っているのが、ディスアドヴァンテージ的ゲマインドシャフト的集団である。ひとりびとりが独立していないとそういう傾向におちいりやすいく、一見仲がよく明るくまとまって見えるが、しかしひとりびとりは孤独で、社会不適合型とも言える。そう言う人間が集まると他人を干渉しあったり、人間関係の優劣をつけようとする、いわゆる家父長制的な傾向が強いクラブである。私は群れに知的レベルの高い人が一定数存在したら、アホなしきたりやシステム親玉の存在がなくても、正しい秩序が自然と保たれると信じているが、スポーツクラブはいろいろな人が集まる場であるから、ひとりびとりの考え方や意見が反映される場であることが理想であると思う。

参考文献「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念」テンニエス  岩波文庫 

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