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まらずもうの歴史(9)

2014-01-05 10:00:00 | まらずもうの歴史

 

・まらずもうの歴史(9) 平安時代のまらずもう

・陽物くらべ

 この絵は『陽物くらべ』というタイトルで、『鳥獣戯画』で有名な平安時代の高僧・鳥羽僧正(1053-1140)が描いたとされています。僧侶、下級貴族、武士などさまざまな階層のひとびとが、たのしそうにまらの大きさを比べている様子が描かれています。飛鳥時代・奈良時代のまらずもうが上級貴族や身分の高い僧侶によって行われる国家の運営方針を決めるための占いであったのに対して、平安時代になると、もっと広い階層によって行われ、より身近な内容が占われるようになりました。一言でいえば、まらずもうが大衆化したのです。今回は、平安時代におけるまらずもうの大衆化の過程について概観してみます。

 

・平安遷都

 前回触れたように、道鏡の失脚後、まらずもうは政治の表舞台から姿を消しますが、政治の実権を奪い返した藤原氏は、まらずもうが力を盛り返すことを恐れていました。そこで、まらずもうの教えが色濃く残る奈良の都を捨て、遷都を行うことになりました。まらずもうの呪力の届かない地で、まらずもうと切り離された新しい政治を行おうとしたのです。あたらしい都の場所については、道鏡を失脚に追いやった和気清麻呂の意見が取り入れられ、山城国葛野郡から愛宕郡のあたりに決まり、平安京と名づけられました。

 また、平城京のころには聖武天皇の発案で宮中で年に1度、男女の交合を象徴する七夕の7月7日に、相撲節会という儀式が行われていましたが、平安遷都後はしだいに惰性で行われる形式的なものとなりました。それも西暦830年ころからは行われなくなり、宮中からまらずもうが完全に消えることとなりました。

 

・弘法大師によるまらずもうの封じ込め

 平安遷都後の政府首脳たちは、単にまらずもうの呪力から離れるだけでなく、その呪力をきちんと封じ込める必要を感じていました。そこで、唐から密教を持ち帰って帰国したばかりの天才・弘法大師(774-835)を抜擢し、まらずもうの封じ込めを依頼しました。まず、弘法大師は、まらずもうの呪力の残っている奈良・平城京を南北から挟むように、南に高野山金剛峯寺、北に教王護国寺(=東寺)をつくり、霊的な結界をつくります。とくに教王護国寺は平安京の南端に位置し、都を守る最後の砦としての意味も持っていました。

 同時に、まらずもうの呪力を弱めるための手段として、まらずもうの本場、奈良の東大寺(=まらずもうの本尊である大仏が安置してあるお寺です)に潅頂道場を開きます。この道場では公然と男色のやり方が教えられていました。まらを男性の肛門に挿入し、まらのもつ呪力を男性の体内に吸いあげることで、まらの呪力をべつのエネルギーに転化してしまうという方法で、まらずもうを無力化したのです。我が国はのちに男色天国と言われるほどホモセクシャルが一般化するのですが、日本に男色をはじめて持ち込んだのが、この弘法大師だと言われています。弘法大師が指導した男色の方法は貴族や僧侶たちの間で人気を集め、広く行われるようになり、それと反比例するようにまらずもうのもつ呪力が落ちていくのでした。

 

・まらずもう復権運動とその失敗(1)~菅原道真~

 まらずもう側もただ手をこまねいていたわけではありません。まらずもうを政治の場に取り戻そうとする運動もありました。まらずもう復権運動の代表的な人物が、菅原道真(845-903)と平将門(903-940)です。

 菅原道真は、相撲の祖と言われる野見宿禰の子孫ということもあり、幼少のころから相撲やまらずもうに深い理解を示していました。また、まらずもうの才能だけでなく、学問や詩歌にも優れた才能を見せ、まらずもうに冷たい時勢ということもあり、まらずもうよりも学才をもって朝廷に仕えました。若いころは中くらいの家格に応じてほどほどの出世コースを歩んでいた道真ですが、41歳のときに讃岐守に任命され、任国の讃岐国で目にした光景に愕然とします。讃岐は弘法大師の出身地。弘法大師は故郷・讃岐の狸に呪いをかけ、狸たちは玉袋だけを異様に発達させ、成獣になってもまらが幼児のように小さいままという、見るも哀れな姿になっていたのです。いや、狸だけではありません、国衙にいた現地出身の下級役人の服を脱がせてみると、呆れるほどに小さなまら。あろうことか弘法大師は讃岐の男性がまらずもうに手を出すことがないよう、また、男色のときにまらを肛門に挿入するのに都合がいいようにと、まらが大きくならない呪いをかけていたのです。(筆者註:筆者が大学1年生のとき、香川県出身の同級生がいたのですが、彼もやはり「おかま」でした。当時は「もおー、星野くんったら~」などとくねくね動くのが気持ち悪いとしか思わなかったのですが、あれも弘法大師の呪いだったのかもしれません)

「これはなんということだ!」 まらずもうを愛する道真は怒りをあらわにしました。「呪いで讃岐の男のまらを小さくするとは、やっていいことと悪いことがある!」 怒りに燃える道真は「弘法大師がそういうつもりなら、わしはまらずもうで国を動かしてみせる!」とまらずもうの復権を祖先の神々に誓うのでした。その日から道真はまらずもう占いを使って大きな手柄をいくつも立てていきます。京都にもどったあとも道真はまらずもう占いでつぎつぎに功績を重ね、家格からすると異例なペースでの出世を果たしていき、当時の政府のナンバー2である右大臣にまで出世しました。

 しかし、道真の出世もここまででした。連日連夜のまらずもう占いに、彼のまらは爆発寸前。暴発しそうなまらを鎮めるために通った女郎屋で悪い病気をもらってしまったのです。梅毒にかかって以降は道真のまらずもうは精彩を欠き、些細なミスから政敵に上げ足をとられる形となり、大宰府に左遷され政治生命を失いました。梅毒にかかって膿のでるまらを見ながら詠んだ次の歌が有名です。

  「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

 まらずもうができなくなった道真の無念な気持ちが伝わってくるようです。道真は恨みの気持ちを抱えたまま左遷先の大宰府で命を落とし、その死後、平安京にはさまざまな事件が起こります。道真の政敵が不幸な死に方をしたり、皇居に雷が落ちて火事になったりしたため、関係者たちは「道真の祟りだ」「まらずもうの呪いだ」と恐怖に震えました。その道真の祟りのなかで、もっとも大きなものが平将門の反乱だったのです。

 

・まらずもう復権運動とその失敗(2)~平将門~

 平将門は道真が死ぬのと同じ年、道真の生まれ変わりのようにして誕生しました。地方豪族の息子として生まれた将門は、ほんとうに道真の生まれ変わりのように、誰に教わったわけでもないのに幼いころからまらずもう占いの才能がありました。とくに軍事の方面の能力は抜きんでており、まらの指し示す方向に兵を動かせば決して負けることがなかったほどです。優れた才能を持ちつつ地方豪族として静かな暮らしを送っていた将門ですが、近隣の豪族との領地争いをきっかけに、平凡な生活が一転します。まらが指し示すまま兵士を動かし、いつのまにか関東一円を征服、周囲から「新皇」と持ち上げられるような立場に立ってしまいました。しかし、そんな将門の前に立ちふさがったのが、弘法大師でした。いや、弘法大師はすでに死んでいたのですが。

 将門の反乱にあわてた当時の天皇は、教王護国寺からある僧侶をよびだして「関東におきた反乱はまらずもうの呪力によるものときく。教王護国寺は弘法大師ゆかりの寺。この反乱を鎮める方法はないか」と相談しました。相談された僧侶は「それならばたやすいこと」と、弘法大師が彫った不動明王の像を携え、関東へ向かいます。関東は成田の地についたその僧侶は不動明王像にむかって熱心に祈祷を行いました。するとどうでしょう、弘法大師の法力で、将門からまらずもう占いの能力が消えてしまったではありませんか。その日以降、将門の軍は連戦連敗を重ね、ついには捕えられ、処刑されてしまいました。(ちなみに、このできごとが成田山新勝寺ができる由来とされています)

 処刑された将門の死体は、まらずもうの呪力による死後の復活を心配されたのか、バラバラに切り刻まれて、パーツごとに埋葬されました。いまでも将門の首塚は有名ですが、首塚以外にも関東各地に腕塚・足塚・胴塚などがあり、それぞれ篤い信仰を集めています。ただ、肝心のまらについては、どこに埋葬されたかわかっていません。「将門のまら塚がどこにあるのか」は現在のまらずもう研究の最大のテーマのひとつです。

 

・まらずもうの大衆化

 道真の祟りや、将門の反乱は、当時のひとびとに大きな衝撃を与えました。奈良時代にはまらずもうは宮中の秘事として行われていたため、一般の庶民にはまらずもうの存在は知られていなかったのですが、このふたつの事件で、まらずもうの呪力の強さが一般にも広く知られるようになりました。

 また地理的な面でも、それ以前、まらずもうは畿内でしか行われていなかったものが、弘法大師の封じ込め作戦で畿内から追い出されたために、弘法大師のパワーから逃れるようにして畿内以外に広がっていきます。道真の流された九州、将門の関東、将門の乱の同時期に藤原純友が反乱をおこした瀬戸内海など、西暦1000年すぎには全国でまらずもうが行われるようになっていました。

 このように全国各地で、老いも若きも身分も問わずまらずもうを行う状況に、一部の貴族や僧侶には「世は末法だ」と嘆くものもいましたが、庶民は「新しい娯楽」「よく当たる占い」としてまらずもうを受け入れていくのでした。

 

 

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