“しかし現代の人びとは、この宗教をもたぬ義人、哲学科に学ばなかった賢人、囚人服を着た苦行者を受けいれようとしないし、また受けいれることもできない。なんのために師はわたしにその生活を書くことを命じたのか? フランスのチーズのように長持ちする古めかしい叡智をだいじにしまいこみ、机上にトルストイを飾った書斎にぬくぬくとおさまっている、誠実な知識人たち、つまりこの本の仮想読者たちを考えて、わたしはながいこと疑惑に苦しめられた。だが今回は狡猾な記憶がわたしを救った。わたしは、師がもみじの種子を示して、わたしにこういったのを思い出したのである。
「きみのほうが正しい。この種子は空間ばかりでなく、時間へもとんでいくよ」というわけで、わたしがこの本を書くのは、精神界に君臨する人びとのためでもなく、一部の、実を結ぶ力のない、亡びることを約束された人びとのためでもない。未来の下づみの人びとのためである。かわった鋤で掘りかえされた土地、その上でかれの子供たちや、わたしの兄弟たちがしあわせなばかとなってピョンピョンおどりまわる土地のためである。
一九二一年 イリヤ・エレンブルグ
――『フリオ・フレニトの遍歴』より ”
『フリオ・フレニトの遍歴』のなかでも、とくに私が好きな冒頭のこの一文が、このところ長らく私を苦しめていたある問題についての答えを示してくれました。
私が悩んでいたのはこういうことで、つまり最近私はどうも物語の中に深く入っていくことができなくなったのだが一体どうしたことだろうということでした。私がそうありたいと望めば望むほどに向こうは私から遠ざかっていくので、置き去りにされたような寂しさに沈んで、物語を読むことへの情熱も以前と比べると冷たいものになっていきました。たくさんの書物に囲まれながら、たとえそれを読んでも私はそこから何も汲み取ることができないかもしれないという恐れから手に取ることもできない日々がずっと続いていたのです。
そうなった原因のひとつは、私がいつのころからか、物語から何かを得ようとするのではなく、その世界に没入し、のみならずその世界のなかへすっかり逃げてしまおうと考え始めたことだったのだと、今日なら分かります。私はそんな風に物語を読むべきではありません。私という存在は物語と現実を結ぶ装置としてあるべきで、現実との繋がりを失おうとしていた昨日までの私には、少なくとも私の望むような価値は自分にはなかった。私が現実に立ち向かおうとした時、はじめて彼らは私に手を差し伸べてくれる。どうしてそれを忘れていたのだろう。
「きみのほうが正しい。この種子は空間ばかりでなく、時間へもとんでいくよ」
見知らぬ誰かによって遠いところから飛ばされた種子を、見知らぬ誰かに宛てて飛ばされた種子がもしも私のところまで飛んできたならば、それをできるかぎり受けとめたいというのが私の望みです。そのためには土にならねばならない。種を包む殻を無理に破ってそのなかへ押し入り陣取ろうなんてことをしでかして、種そのものまでも滅ぼしてしまうようなことはしないで、種が落ちるのを待って、それがいつでも好きに芽吹くことが出来るような柔らかい土地を耕しておくのが、私のやるべきことであったのではないだろうか。私は間違っていた。
私はまだ固く乾いた不毛の土地ではあるけれど、いつかは、狭い小庭くらいの空間に、あるいは小さな植木鉢くらいの空間にでも、豊かで瑞々しい美しい何かを育てることができるだろうか。過去に私を励ましてくれた言葉の数々が、今日も私をしゃんとさせようとしているからには、私の努力次第では、もうちょっとどうにかできるのではないかな。後ろばかり見ている私だが、それを生かしてきたのはやはり未来への希望だったのではないか。現実から逃走するというのは、未来への希望というものをも手放すということだったのか。そうだったのか。どうして私は。いや、こうしよう、これから私は。日当りの良い土地ときれいな水が必要だ。
まだ、はっきりと決着がついたわけではありませんが、私はだいぶすっきりしました。やっと読めそう。さらば倦怠期。
今日から9月!
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