元ベース弾きの田舎暮らしは

60歳で田舎にUターン、素人の「米と野菜」作り
音楽が縦軸の人生
就職相談・紹介が「天職」

亡き父親に四人の娘を見て欲しかった。

2008年06月04日 | ふるさと

あと数日で、父親の命日です。
58歳の若さで交通事故でなくなった父親です。もう30年近くになります。

ガードレールの間から転落して、脳挫傷で亡くなりました。
雨の日の出来事です。自損事故でした。
当時 義務ではなかったのですが、もしシートベルトをしていたら・・・と思います。
田舎の議員として、地元の相談ごとに訪問の帰りでした。

当時私は、30歳を過ぎながら、独身でした。
そのため嫁探しに母親と奔走していたようです。
親は何時までもいるものだと錯覚していて、結婚に耳を貸さなかった私です。
ただ 義務的に見合いだけはしていました。

遊びにきた従兄弟の子供をじっと見ていた父親のことを思い出します。
親の気持ちを考えたこともない「幼さ」です。
かみさんや孫の顔を見せられなかった後悔の念があります。

そのためかどうか、私と10歳近く離れた妹を特に可愛がっていました。
シャイだった父親は、酔った振りをして、妹に冗談を言います。
酒に弱く、あまり飲んでなくても真っ赤な顔です。

9人兄弟の長男に生まれ、祖父と一緒に、弟妹の面倒を見てきました。
最寄駅から田舎の食材をみかんの木箱に詰め、弟達に発送する父親を覚えています。
宅配便などない時代で、国鉄の貨物の利用です。

     

自家用車の普及以前、オートバイで通勤です。何台も乗り換えていたようです。
そのおかげで高校生からオートバイに乗ることを許してもらい、125ccのホンダで
通学です。暴走族ではありませんが、スピードは快感です。

大学入学後、オーケストラに入部し、学校訪問演奏会でふるさと新見市を訪れました。
市内の小学校に多くの子供達が聴きに来てくれました。
そのときオケ仲間の昼食に、「チラシ寿司」を数十人前作り、届けてくれました。
母親が作り、父親が運んでくれたのです。
その時のミニコンサートの写真と、学校の先生のお礼の手紙を母親は保存しているらしい。

結婚後四人の娘を授かりました。
父親は娘達の存在や成長を知らないのですが、生きていれば喜んでくれたでしょう。

家族や仕事や世の中のことをもっと話したかったと、最近ちょっとしんみり。
もう父親の亡くなった年齢を越しました。


画像  SL(新見駅近くの布原付近1970年頃、母親は結婚前は国鉄に勤務)
       http://www.shimonoseki-cu.ac.jp/~nishida/SL055-23.htmより
       新見駅・石蟹駅で荷物を送っていました。
     ホンダ ベンリイ(高校~大学時代乗っていたオートバイ)
        http://wing.zero.ad.jp/~zas90507/triton/C92.htmより
        大学時代アルバイトで市政だより(広報誌)を配達していました。
コメント (8)
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