元ベース弾きの田舎暮らしは

60歳で田舎にUターン、素人の「米と野菜」作り
音楽が縦軸の人生
就職相談・紹介が「天職」

理想の「舅(しゅうと)と嫁」

2007年06月30日 | 藤沢周平
家族関係が良いことは最高の幸せです。
私が見聞きした中ですばらしい関係があります。

私には4人の娘がいますが、息子はいません。
息子が欲しいとの憧れと、もしいたならその嫁との関係はどうあるべきかを,テレビの時代劇のドラマに探し当てました。

NHKのBS2 火曜日夜7時45分からの藤沢周平の原作の「三屋清左衛門残日録」がそうなのです。
連続ものであと数回しか放映されませんが、もう何回も再放送されています。
ビデオに撮ることが多いのですが、何回見てもニヤッとしたり涙したりします。

主人公はリタイアーした52~3歳の初老の武士です。(今なら60歳代?)
藩の重職を勤めた頑固だが自分の立場をわきまえている舅です。嫁は少し気の強い頭のいい女性です。主人公は亡くなった奥さんが忘れられないため、うわごとで奥さんの名を呼び、つい嫁との比較をしてしまうのです。それが悔しい嫁が一生懸命尽くすのです。
たまに帰ってくる実の娘の存在感より、嫁の方が気になり感謝もするのです。

そのやり取りがおかしくもあり、泣かせるのです。
藩の勢力争いがストーリーの縦糸ですが、それより人間関係が面白いのです。

普段はやさしい声も掛けず家のことはまかせっきり、亡くなったあと後悔している主人公は,私も含め大半の男特にサラリーマンは思い当たるでしょう。

この主人公三屋清左衛門の「日残りて 昏るるにいまだ遠し」の心境は今の私です。

(写真の水車は、私の伯父の設計管理したもので実家から数キロ近くにあります。
日本有数の親子水車です。)
  www.kcc.zaq.ne.jp/tsusan/sub88.htm
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「熊」社会  北海道にて

2007年06月26日 | 思い出
先週末 北海道の登別の近くの「熊牧場」を訪ねました。

ロープウェイを上ること10分で着きます。
多くの熊がいくつかのグループにわけられ、5メートルほど低い飼育場を、歩き回っています。

がっかりしたのは、熊が人間に媚びている姿を見たからです。
観光客が売店で100円で売っているお菓子を熊にやるのですが、どうすれば人間が自分にえさをくれるのかを知っているのです。

人間のように座ったり、立ち上がって手をたたいたり、大きく口を開け注意を引く術を披露するのです。
なんだか悲しくなりました。
ボス熊が歩くと、逃げる熊、擦り寄る若い熊、なんだか人間社会を感じさせます。

飼育係の人に聞くと、オスどうしのけんかはまさに力の社会でわかりやすいのだそうですが、メスのけんかは周りを巻き込んで複雑なのだそうです。母性本能からくるらしいのです。

猛獣を感じさせたのは、若い熊同士のけんかでした。その声はまさにヒグマらしく、迫力満点でした。牙をむく姿になんだかほっとしました。

長い年月培われた本性がそんなに簡単に変わるとは思えません。ということは熊は人間を熟知し、見透かした上で行動しているのでしょう。賢いのです。
生まれたときから人間の中にいると、自分も人間と思っているのかも知れません。
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恩師 保科洋先生の40年前の写真

2007年06月19日 | 作曲家 保科洋
遅くなりましたが転勤の挨拶状を出しました。

これをお読みいただいた方から、多くの電話やメール、ブログのメッセージが有りました。懐かしい声を一杯聞かせていただきました。来年定年退職だとお話すると「もうそんな年になったか」とみなさんに言われました。

そんな中でオーケストラの仲間からも連絡がありました。一挙に学生気分です。
恩師である保科先生のことにも話がおよびます。

 昨年浜松で音楽の指導者相手のゼミに先生が実際のアンサンブルを使って、指揮法を教えられました。

 その話をして電話で盛り上がりました。次の日 70歳でゴルフで78のスコア(一緒にまわって唖然としました。先生には口止めされましたが)を話すと皆 絶句です。

 実は冒頭の写真は、40年前の保科先生です。

先生に断り無しにこんな写真を出して叱られるかも知れませんが、全国のオケ仲間のために私のブログの特典と思ってください。(なんと若い!!)

 合宿のときのリラックスした先生です。頭のタオルが可愛いものです。
「風紋」などは、この写真のずっと後の作品です。

 保科先生には、私の夢である「音楽村」の村長をお願いしています。
先生のパーソナリティーがあればこその構想です。

 対比のために最近の先生です。
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亡き父への想い

2007年06月16日 | ふるさとの母親

今日は父の日です。

私は今年父親の亡くなった年齢を越しました。
自分では若いと思っていますので、父も50歳代の死は残念だったに違いありません。

交通事故でした。
当時田舎の議員をしていたのですが、地域の相談事の後、6月の雨の日ガードレールの間から数十メートル転落し、ほとんど即死状態でした。

セメント会社に勤務し、退職後(当時55歳の定年)まもなく田舎の議員となったのです。
無口でした。いやといえない性格のため板ばさみで悩んでいたのがわかりました。

田舎の選挙ですが、選挙カーに乗り込み「父が苦戦しています。よろしくお願いします。」と連呼した記憶があります。妹がうぐいす嬢でお願いをするとそのほうが同情を買ったのです。おばあちゃんが涙で妹の手を握ったことも何回かありました。女性は得だなと思ったのですが、そうではなく妹のほうが真剣だったのでしょう。

父は9人兄弟の長男でしたが、今のように宅配でなく、兄弟に送る田舎の餅などを駅に運んだことを覚えています。

野球が好きで夏になると高校野球のテレビにくぎ付けでした。
広島カープの試合を一緒に見に行ったことは数少ない思い出のひとつです。

後悔しているのは、結婚話に耳を貸さず結局孫の顔を見せてやれなかったことです。

その分父親にできなかった孝行を母親にしようと思っています。

(写真は生まれ故郷の近くにあるダムです。なつかしい風景です。)
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「八つ墓村」の生家初公開 その①

2007年06月09日 | 住まい、場所
私の「八つ墓村(のモデルとなった地区にある)」の生家の一部を初公開です。
岡山の北部 新見市にあります。(合併のため。昔は郡部)

生まれ故郷を離れてもう40年近く立ちます。
あれだけいやだった生まれ故郷がなつかしくてたまりません。
子供のころ、暗くて古い家が嫌いでした。
新しくてモダンな家にあこがれていました。
生まれた家は、もう今では築後120年になります。
建てつけは悪く、ふすまや引き戸の開け閉めに力が必要なのです。
あちこちから雨漏りがします。台風時は特に心配です。

 家は石垣の上にあり、離れと母屋の間に石の階段があります。
もう一箇所なだらかなスロープの坂が母屋の裏につながっています。
年取って足の弱った母親は、正面の石段が上がれず、もっぱら裏からあがるそうです。

 すばらしいのは、奥の間からみる景色です。
周りは、山に囲まれていますが、その間にある20戸足らずの集落と田畑を見下ろすと、タイムスリップして子供時代に帰ります。
心地よい風が当たり、天然の空調です。

 庭のイチョウの樹が屋根をはるか越えたため、切るかどうか迷っています。
石垣には山吹が植えてあり、春の黄色い花は見事です。
また階段をおおう藤も伸びすぎましたが、母親の好きな花です。

                  

 この家をどうするかが懸案事項です。
栗の木が多いため丈夫なのですが、古民家再生は金がかかります。
この夏休み帰省して、専門家の意見を聴こうと思っています。

 この家での生活を目標にがんばっています。
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悲しき「営業の性(さが)」

2007年06月02日 | 食べ物、飲み物
 営業出身の習性が身についてしまいました。

先月末 お台場のグランパシフィックホテルで、ある企業のフランチャイズの会員が集まり、総会と懇親会が開かれました。

このホテルの肉、特にローストビーフは最高です。(と信じています)
しかし 楽しみにしていた料理を一口も口にできなかったのです。いや しなかったのです。

 懇親会で乾杯のあと、昔からの得意先の顔があちこちのテーブルに見えるのです。
早速 ご挨拶にお伺いし再会の喜びを分かち合いました。隣のテーブルにも知った顔が見えます。主催者のスタッフにもご挨拶が必要です。

その横でコンパニオンの人たちが、お寿司や肉を運んでいます。それを横目で見ながら、食べたいのを我慢して、テーブルの間を駆け回ります。最後のコーヒーのみいただきました。

 多くの名刺が残りましたが、胃袋は空っぽです。
お客様の前で、ビュッフェ料理を口にすることはタブーだと思ってきました。もちろん和食とかコースの料理は自分用があるのでこの場合はいただきます。その場合でもかき込んでお酒の酌をするのです。

 昔 北海道で食中毒が発生しましたが、私だけ難を逃れました。保健所から食べたもの、食べなかったものを聞かれました。中毒の料理を特定するためです。何にも食べてない旨告げると呆れていました。

 懇親会が終わり、住まいの近所のお店でホテルの料理に遠く及ばない食事をしました。
凡人ですから、食べておけばよかったと後悔しきりです。

 でもほんのわずかですが、お客様の笑顔が会社との関係力強化に役立ったのではないかとの想いがあります。

 でも 次の懇親会では食べるぞ!!!

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