元ベース弾きの田舎暮らしは

60歳で田舎にUターン、素人の「米と野菜」作り
音楽が縦軸の人生
就職相談・紹介が「天職」

ヤフー、グーグルのトップページ掲載の謎

2007年07月27日 | Weblog
私のこのブログが、ヤフーとグーグルのトップページに掲載されています。
「元ベース弾き」で検索すればの話ですが。

アクセス数が多いわけでもなく、リンクを張っているわけでもないのですが。
不思議でしたが、その理由がやっとわかりました。

ハンドルネームの命名に「種」があったのです。
私は、検索エンジンの「空きスペース」を知らないうちに見つけていたのです。

「元」と「ベース弾き」の組み合わせが他に無かったため「元ベース弾き」を検索すると、私のブログがトップに来るのです。
「元」や「ベース弾き」だけでも数百万~数十万の検索数です。

多くの人が色々な名前でブログを書いていますが、検索のことを考えてネームを決める人はいないでしょう。

より多くの人に読んでもらうためには、トップページに掲載されることが重要です。
まして 商品名などでは、このことは大きな意味があります。
しかし 検索されるためには、あまりに固有すぎる名前は意味が無いのです。検索行為そのものがありえないからです。

一般的でありながら、組み合わせで数少ないものがトップに掲載される可能性が高いのです。言葉の候補を検索して、数が少ないものを選ぶ方法でタイトルを決める作家がいます。

このことがわかったのは、新潮社の新書「ウェブ人間論」を偶然読んだからです。
梅田望夫さんと平野啓一郎さんの対談をまとめたものです。
久しぶりに面白いと思いました。

ブログを書くことは「人間の成長」に繋がる話とか、ブログのタイプ別人間像が表現されています。
しかし この本で二人が言いたいことはウェブによって、人間や社会がどう変化するのかということです。この本の内容を全て肯定するわけではありませんが、発想が新鮮でおもしろいのです。

グーグルの社員は、映画「スターウォーズ」を必ず全員見るそうです。発想や構築力が宇宙的なのだそうです。「ダークサイドに堕ちる」などの言葉の使い方には感心しながら読みました。

もっと本屋に行かなくてはと思わせる「新書」発見でした。
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新宿昼食事情

2007年07月19日 | 食べ物、飲み物
西新宿のオフィス街の路地に昼休み前から、バンやワゴンタイプの車が続々集まります。
ハッチバック式の後部ドアを跳ね上げます。
また車を持たず大きなクーラーを持って、鮮やかなパラソルを広げる人たちもいます。
みんな昼食用の弁当を売る人たちです。

周りに都庁や高いオフィスビルが立ち並ぶ場所なので、お昼には人があふれ返ります。西新宿にも飲食店はかなりありますが、人気の店の前は順番待ちの行列です。
お弁当を買って食べる人が多いための弁当屋さんが並ぶのです。
味にも違いがあるらしく、すべての店がまんべんなく売れるのではないらしく、弁当屋さんでも行列ができるところと開店休業状態のところがあります。サービス競争も激しく、ペット入りのお茶をつけたり、バナナを一本サービスしたりしています。昼休み後半になるとタイムサービスと称してダンピングするのです。400円の看板が出ている店もあります。

当然 西新宿のすべての店を知っているわけではありませんが,どうしても行きつけの店に行ってしまい、なかなか新規開拓ができません。
おいしくて安い店に当たるとラッキーと思います。

今 私がよく行くのは、少し歩きますが、和食の店です。
魚中心で、毎日目先を変え楽しませてくれます。
サラリーマン相手の小料理屋がもともとの姿ですが、昼はその腕を生かして昼食を出しています。
少し頑固な親父はがんばっていますが、従業員が良く変わります。外国人風な人が片言で話しています。日本人で飲食店で働く人が減っているそうです。
昼は1000円の定食しかないのですが、出遅れると並んでいます。

新宿は昼食だけを見ても大変な街です。
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30年ぶりの再会

2007年07月16日 | 思い出
台風の雨の中、広島県呉市から珍しい人が東京の私を訪ねてくれました。

30年前 お世話になった販売店の社長です。

私の新入社員の赴任地が広島でした。
何にもわからない新入社員が特約店に連れられて、販売店に同行していました。
ようやく慣れてきたころの話です。

呉市で兄弟で経営していた販売店の弟が、将来を考えて独立したのです。

流通の常として、どんなに円満退社であろうとも顧客の奪い合いになることは必至です。
両方に均等に付き合うことの難しさは新入社員に毛の生えた程度の私には、荷の重いことでした。

独立間もない販売店の自宅にお邪魔して、よく食事をさせてもらいました。
奥さんや義理のお父さんの熱意が伝わってきたのを覚えています。

私の出した東京に転居の案内状を見て、急に会いたくなったそうです。
年賀状は出し続けていましたので所在は意識していましたが、新幹線で台風の中、そのためだけに上京してくれたのです。

非常にうれしい想いで、恵比寿のガーデンプレースでビールを飲んだあと、単身のマンションにおいでいただき夜中まで話しました。当時の先輩にも連絡を取り、同窓会の雰囲気です。

友人でなく、メーカーと販売店のお客様の関係で、独立の支援ができるベテランでもない私を良く覚えていて、会いにきてくれた社長(頭が白くなっていましたが)の義理堅さに驚くと同時に、懐かしさで、大雨の中幸せな一日でした。

(写真はお土産にいただいた呉の饅頭とチリメン)
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「廃屋」に棲み付く「魔女」

2007年07月14日 | ふるさとの母親
昨晩、オシムジャパンのサッカーを見るために、テレビをつけたら、宮崎駿のアニメの「魔女の宅急便」を放映していました。
魔女は13歳になると1年間違う街で修業するそうです。
テーマ曲は、今シャングリラで全国ツアーをしているユーミンが荒井由美時代に歌った「ルージュの伝言」です。

実は、私のふるさと岡山の新見にも「魔女」が「棲みついて」います。
60年前からです。和名を「鬼婆」とも言います。「推定年齢」84歳です。
この「魔女」の好物は、野菜です。その野菜をおかずに今でも「丼飯」を食べるのです。
棲んでいるのは、築120年になるあばら家です。
ここに棲む前は、国鉄に勤めていたそうです。
「ほうきに乗らず」無料パスで北海道から九州まで住む街を探していたそうです。
しかし「魔女」のお父さんの勧めで隣の「八つ墓村」にきたそうです。

今ではとても「人間臭くて」温泉と選挙が大好きです。
近くの千屋温泉にいりびたり、国政選挙から地方選まで関心を持ちかなりの票がとれると、自慢をしています。

足の衰えた「魔女」ですが何歳まで生きるのでしょう。
私はこの「魔女」から長男として生まれました。

                

先日久しぶりに、岡山にいきました。
駅や駅前のビルが改装中でした。駅前のビルで私たち夫婦の結婚式をあげました。
貧乏学生時代 この市内を配達のアルバイトで走り回っていました。
真っ黒な色の125CCのホンダのベンリー号です。
懐かしい想いで、駅前の桃太郎の銅像を見ました。
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「音楽村」のきっかけ  Ⅱ

2007年07月06日 | NPO
音楽村の設立に必要なものが建物・食事以外にもあります。
仲間とネットワークです。

この構想に当たって、大先輩からアドバイスがありました。
田舎を離れて生活している私の価値観とふるさと新見の価値観が、必ずしも同一ではない。つまり独りよがりに陥らないようにとのことでした。

高校時代から数えて40年新見を離れているのです。
懐かしさだけではふるさとで活動できないのです。

この「音楽村」の構想の原点は、初めて聴いたオーケストラの響きです。
テレビでも「N響アワー(だったかな?)」で観た経験はあっても、生の音楽に触れたのは大学が初めてでした。
大学のオリエンテーションで初めてオケを聴いた感動が、大げさに言うと私の人生を決めたのです。ほかのスポーツや芸術のことはよく知りませんが転機となることがあるのは多分同じでしょう。

大学卒業後 音楽総合企業にはいり(仕事は音楽とは関係ない事業部でしたが)、オーディオにはまり、社内結婚をし、4人の娘を授かりました。
二人の娘がトランペットやチェロに親しんでいることはまさにその証明です。

学生時代「どさ回り」で所属のオケが新見の少学校で演奏会を開催したことがありました。多くの小中生が聴いてくれた記憶があります。そのとき私の両親が田舎のちらし寿司を楽団員に作って運んでくれました。応援してくれたのです。

今 全国に仲間を必要としています。音楽好きな人の人的ネットつまり口コミでのPRによる「広報」担当者が欲しいのです。
「村外の村民」です。精神的バックアップや側面支援です。それぞれお持ちの知恵や技術をお借りしたいのです。知り合いの広告会社の人やデザインのプロが協力を約束してくれています。
                 
 岡山県内の音楽好きの人もネットを通じて応援を表明してくれています。ありがたいと思っています。どれだけ勇気をもらえているか。会ったことも無い人だから好意が嬉しいのです。将来「音楽村」においでいただき、村長就任予定の作曲家の保科洋先生を交え、音楽とお酒を楽しめるでしょう。

クリアーすべきことは多いのですが、「音楽村」開村を目指します。

画像はふるさとの芸能 備中神楽です。
 たかはしフィルムコミッション より
 http://bitchu-takahashi.chu.jp/fc/
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私の夢 廃校で「音楽村」を

2007年07月04日 | NPO
退職後 ふるさと新見市に設立予定の「音楽村」の準備も本気でかかる必要があります。

ふるさと新見市では、少子化と過疎化で学校が統合され、廃校が増えています。
この廃校を利用して、「音楽村」を開きます。

この廃校をオーケストラやバンドの合宿所にしたいのです。
予算に苦しんでいる各団体に格安で合宿所を提供したいのです。
パート練習や合同練習のできる教室のある廃校は最適ではないかと考えました。
しかし いくら田舎とは言え、下手な音を出すことは近所迷惑です。
防音のため二重サッシにして、音漏れを防ぎます。この費用をどこから調達するかも
思案中です。助成金か企業メセナか。

また食事も重要です。プロの仕出しではなく地域でつくります。
元気なシニアの力を借りたいのです。田舎料理を中心に量はたっぷり出します。
ボランティアではありますが、料理人のプロとしての賃金は支払います。
好意のみに依存するのではなく、永く続けるためにけじめをつけるのです。

オケやバンドは合宿費用を安く上げてもらったお礼に、近所の人対象のお礼の演奏会を開催します。これを義務付けたいのです。
どんなジャンルであれ、生で聴ける演奏会は、子供たちに夢を与えます。
               

市の施設担当者は、廃校の活用の申し込みに積極的な協力を約束して
くれています。宿舎としての活用には、衛生課より設備の条件が重要といわれています。
基本的なルールは、事前に東京の保健所に確認してはどうかとのアドバイスも
いただきました。法律の壁は厚そうです。

市庁舎には今年も、お盆に帰省したときに、直接訪問し詳しく教えてもらいます。

素人が手探りでやるのですが、必ず実現させます。
多くの仲間、同志が期待してくれています。もちろん家族も。

下側の写真は 新見駅前の銅像

画像の校舎は  ながのフィルムコミッションより
  http://www.nagano-fc.org/locationlib.php?cat=school)
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84歳の母の「宝物」

2007年07月02日 | ふるさとの母親
私の母はかばん(バッグ)が好きです。

写真のバッグは、母親が大切にしているものです。
昨年 新見市の千屋温泉で会った見ず知らずの他人が母親に作ってくれたものです。
隣の広島県からきていた人だったそうです。絣(かすり)を使って作ったもので、人目を惹きます。

84歳になった母親はだんだん子供っぽくなって、見ず知らずのひとに作って欲しいとおねだりをしたのです。材料代に近い金額しか請求されなかったそうですが、一般の人の頼みを断ってきた忙しいその人は、私の母を自分の親をみる思いで作ってくれたそうです。

確かに古い素材をうまく使ったモダンなかばんに仕上がっていて、欲しいと思わせる何かがあります。

すっかり母親は気に入って、どこに出かけるときも持っていきます。
見せびらかすのです。母親の自慢の宝物です。

本当の宝物は私たち子供たちと孫であると言いたいのですが,じつは本当にこのかばんが母親の宝物ではないかと思っています。
自分のためにわざわざ作ってくれた、見ず知らずの人の好意がその象徴です。その人に限らず 母親を気にしてくれる多くの人たちがふるさとにいるのです。

遠く離れて能書きを言うだけの息子(私)より、近くに住んでいる人たちの好意が、宝物なのでしょう。その宝物は私にとってもうれしいものなのです。
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