元ベース弾きの田舎暮らしは

60歳で田舎にUターン、素人の「米と野菜」作り
音楽が縦軸の人生
就職相談・紹介が「天職」

転勤族の「終の棲家」 「八つ墓村」実家編

2006年12月31日 | ふるさとの母親
 横溝正史の作品に八つ墓村」がありますが、そのモデルとなった岡山県北で生まれました。「たたりじゃあ」の言葉が有名です。合併後今は新見市です。定年後はそこに帰ります。

 この小説は岡山県に疎開していた横溝が、地元を題材に書き上げたものです。
ショウケン主演の映画に出てくる、石垣の上の旧家は「広兼邸」と言い、銅とべんがらで財をなした庄屋の家柄なのです。

 私の実家は、比べるべくもありませんがやはり石垣の上にあるのです。
明治28年に立てられたもので、築 百十数年です。古いためあちこちで雨漏りがします。その為台風時には雫を受ける洗面器が必要なのです。また立て付けが悪く隙間風が入り、冬寒く夏暑いのです。

 二重屋根で、今でいう小屋裏を物置とした建物で、2階建てとは異なる外観です。
その2階に上がるには、つり梯子を下ろし、横にスライドする天井から上がるのです。
忍者屋敷みたいなものです。子どもの頃はそこは恐怖と好奇心を掻きたてました。

 客間である奥の間の天井は他の部屋の天井よりかなり高く取ってあります。
祝いのための神楽を自宅でやるため、なぎなたが振り回せる高さなのです。

 四十年以上前に大改造をして、昔の土間が応接間になっています。
叔父が設計士だったため、当時はまだ珍しい間接照明が施されています。

 風呂・洗面・キッチンはタイル張りの全て作り付けです。
枕付きの浴槽は冷めやすく、キッチンは高さがないため帰省したかみさんの腰痛の原因となりますが、背の低い母親には丁度良い高さです。

 我が家の墓地は自宅から程近いところにあります。墓石が四十ほど並んでいます。
今は亡き祖父からこう言われました。「この墓石の高さがほぼ同じなのは、金持ちでもなく、貧乏でもなく子孫が続くことの証だ。」

 2年後この「八つ墓村」に帰ります。この建物を修復するか、取り払い新築にするか迷っています。どちらにしてもお金がかかりますが「宿命」です。

 八つは実は縁起の良い数字で、中国では最高の数字です。八卦はここから来ています。

 ここで生まれ、育った私は、庭のイチョウの木を見るのが好きです。そして周辺の山も見慣れたものです。奥の間から見る景色は世界に1つであり最高なのです。

 参考 広兼邸 http://www1.ocn.ne.jp/~nariwa/fukiya1.html
(画像は明治28年新築時の経費明細と頂いたお祝いを記した文書)
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転勤族の住まい  浜松編

2006年12月30日 | 住まい、場所
 本社のある浜松に来たのが平成13年の夏でした。
家族は、学年末を待っての引越しでした。

 高校生の転校には、苦労しました。

 首都圏から九州に移り住むときに、九州は素晴らしいところだから、一緒に行って欲しいと無理やり家族を連れて行きました。その九州がたったの3年弱で又転勤になり浜松だと言ったものですから父親はワンマンだ、今度こそ単身赴任だと家族全員から宣言されました。

 「家族は一緒に住んで家族だ」と苦しい理由をつけて、頼んだのです。
しかし高校の転校はすんなり行かず、試験を受けてようやく入りました。

 仕事は全国の営業所や得意先への訪問が多いため、駅に近いところを選びました。ところが物件が少ないのです。社宅扱いの法人契約を盾にようやく見つけました。築年数も新しいのですが、九州と比べて部屋数が減りました。九州では4人娘がそれぞれ個室がありました。大きくなっての姉妹同室で、不満たらたらでしたが、結果的には姉妹の絆は強くなったようです。

 引越し直後に自治会の人から、浜松の凧祭りの準備と心がまえを言い渡されました。
この祭りは、子どもの誕生を祝い砂丘で凧を揚げ、近所や親戚に披露するのです。
 全部で最低100万円はかかるそうです。5月の連休に開催ですがそれ以前から、仕事はそっちのけで祭りにのめりこむ会社のメンバーもいます。

 横浜の港祭り、博多のどんたく・山笠、広島のフラワーフェスティバルと大型の祭りを転勤で体験しましたが、この浜松の凧祭りの熱気も負けてはいません。

 引越し後、駅前のスーパーで二度買い物をしました。その二度とも会社の人に、見られて、「スーパーがお好きなんですね」と言われました。それほど「狭い」街なんです。
 又ブラジル人はじめ外人の比率が高く、日韓ワールドカップ時の興奮は、すごいものが
ありました。

 この街は競争が少ないためか、物価は高値安定です。
でも全国企業の生産基地も多く、ブルーワーカーが多いためか、デパートが成立せず
撤退や倒産が相次ぎました。

 この街ともあと2年でお別れです。定年後は岡山です。
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転勤族の住まい  九州編(博多の東 古賀)

2006年12月29日 | 住まい、場所
 以前 お世話になった博多の特約店の社長から辛子めんたいが届きました。
私にゴルフを勧めた2代目社長からです。「ゴルフをしない会社とは取引中止だ!」と。冗談でしたが。

 九州に住んだのは3年弱です。平成10年の春引越しでした。
博多から東に快速で20分ほどの古賀という町です。

 気に入ったのは、一区画が全て60坪以上という東京では考えられない広さの新しい住宅団地の戸建てでした。電気ケーブルが地下を走り、電柱の無いすっきりした景観です。でも家賃は首都圏の3分の2でした。庭も広く、ターフを張って、会社のメンバーが20人以上でバーベキューをしました。大騒ぎでした。むきだしの一升瓶を電車で持ってくる人もいました。

 近所も新しい入居者ばかりで、転勤族やリタイアー組が多く、よく話を聞いていた隣の家の公務員0Bの発明家が新案で大金持ちになったと後で知りました。

 博多を起点に全九州を回っていました。大分の得意先には、よくふぐを食べさせてもらいました。お金を払った記憶が有りません。いつもおごってもらっていました。

 黙認でしょうがふぐのキモも食べました。やみつきになりました。
でも最初の恐怖感は今でも覚えています。固辞する私のポン酢の皿にキモを入れ、箸で潰して溶くのです。それに刺身をつけて食べるのです。1回目味などわかりません。しびれが来ないかそればかりが気になりました。
しかし慣れると美味しいのです。ふぐの刺身の淡白さを濃厚なキモが補って絶妙でした。キモを食べる理由があったのです。
 お奨めはふぐのから揚げです。うまみが凝縮されてされています。


 九州のお得意先とはとことん焼酎で付き合いました。たった3年ですが10年分付き合った気がします。
かみさん始め家族みんなが九州の友達とは、今でも付き合っていて、良く行きます。九州はよそものにでも人情は厚いのです。

 結論。九州男児といいますが、そう思っているのは男だけで、実は女性が働き者で男を立てているだけなのです。
 又 「九州は」と一口に言いますが、各県で県民性が異なります。「他県と一緒にされてたまるか」との思いも強く感じました。
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転勤族の住まい  新百合ヶ丘編

2006年12月28日 | 住まい、場所
 昨日 東京から帰省した三女が、家で着ていたジャージにKANAHODOの文字がありました。今から10年以上も前に長女の着ていた小田急線沿いの新百合ヶ丘の金程中学校ものを気に入って着ていたものです。

 その新百合ヶ丘に三女の通う学校が来年3月に移転するそうです。
昔私達が住んでいた町に再び娘が通うのです。

 平成5年 新百合ヶ丘に引越ししました。四女が生後5ヶ月の頃です。
出産間近かのため5ヶ月だけ単身赴任をしました。そして家族を呼び寄せるために家探しをしました。広島から東京の営業企画に転勤になったときです。

 数十件の物件をfaxで送ってもらい、数件を尋ねました。しかし満足な物件がないまま、夏休みのピンポイントでの引越しに間に合うかどうか、あせりました。

 そのとき不動産屋さんが、高いけどこれはどうですかと送ってくれたものが新百合の物件で、広さはありました。狭いけれど庭もあったのです。小田急で初めて新百合に下りたとき、駅前のバス停の上の回廊が気に入ったのです。

 その家は大手ゼネコンの設計者がオーナーで、イギリス赴任の為の留守宅を貸してもらうことになりました。4人の子持ちのため最初断られたのですが、女の子4人だからと懇願して、貸してもらったのです。その交渉は、不動産屋とオーナーの国際電話でした。
 
 大きな人造大理石のシステムキッチンとオーディオのための防音室がありました
又周辺には梨等の果物畑がありましたが、当時から特急が止まる新しい町でした。近所の高台にはお金持ちが住むゾーンがありました。どの家のガレージにも外車とRVが必ずありました。

 ビックリしたのは、子どものお誕生会のプレゼント交換で数千円のおもちゃをもらったときです。我が家は数百円のものを持っていったので、もらっていいかどうか迷った記憶があります。お金持ちっているのだと実感しました。

 お金の無い私達でしたが、リッチな雰囲気の新百合ヶ丘は気に入った町でした。ここに7年住み次に九州に引っ越したのです。
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私のこだわり ラーメン編 Ⅱ

2006年12月23日 | 食べ物、飲み物
メッセージ、コメント、電話での問い合わせがありましたので、再びラーメンに
ついて書きます。(マイブログ,mixi共通文書です)

 広島の來頼亭の住所は、広島市南区西翠町3-3です。

 広島駅からは、広島港行きの広電の電車で、県病院前下車、進行方向に向かい右手の50mほど戻ったところです。暖簾が出ていますが、大きな店ではありませんが、道路に向かって換気扇が回っていて、臭いがしますのですぐわかると思います。

 外観も垢抜けていませんし、決してしゃれた店ではありません。
11時~ですが、ピークには外まで並んで待っている人がいます。中でも立って待っている人がいますので、食券を買うのに苦労します。しかしラーメンのみですから回転は速いのです。近くの人のなかにはなべを持ってきている人もいます。持ち帰り用もあります。
ただ 夕方でもスープが切れたら閉店しますので、確認したほうがよさそうです。
 (電話 082ー253ー1701)

 小さな店で、20~25人ほどで一杯です。感心するのは、座った順番を覚えていて、満席のお客さんとのトラブルがないことです。忙しい時 常連客が、食べたどんぶりやコップを片付けていることもあります。知り合いが多いせいかも知れません。親子2代、3代通っている人は珍しくありません。

 食べ物は、味付け他に好みがあります。
店の卓上に調整用の特製醤油があります。自分の好みで食べたら如何でしょうか。
(昔はこれが邪道だと思っていましたが、今はCSつまり顧客満足だ思うようになりました。麺のゆで方も通常柔らかめですから、固め希望の人は申し出たら如何でしょうか)

 まるでグルメ日記になりました。
これほど問い合わせをいただくというのは、ラーメンへのこだわりは、皆さんお持ちのようですね。

追伸
 THE 転勤族さん(写真つき記事で連絡頂きました)のご好意で、ラーメンの内容と店の雰囲気を見ていただけると思います。
http://inotaka2001.cocolog-nifty.com/the/2006/12/post_aa63.html

※(又コメントの入れ方について、問い合わせをいただきましたので、お知らせいたします。日記のタイトルをカチカチとクリックして下さい。一番上の「私のこだわり ラーメン編」の部分です。単独文章になります。文章の下のほうにコメント欄が出てきます。
又は記事の最後の右下のコメントの()内をクリックしてください)

 早速今日 来頼亭に宅配の依頼をしました。年内には届くでしょう。私だけ先に頂きます。皆さん申し訳ありません。
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私のこだわり  ラーメン編

2006年12月21日 | 食べ物、飲み物
かみさんの幼馴染にラーメン屋さんがいます。

広島の翠町にある「來頼亭」の娘(もう中年?昔の娘)です。
代々女系で、味を受け継いでいます。
4代に亘って知っていますが、なくなった先代のおばあちゃんは岡山県北の成羽町(現在の高梁市)出身と聞いています。

 この味と臭いに最初であったときは、衝撃でした。
私のラーメンの概念を根本から変えました。醤油とんこつ系です。見た目は白っぽくて、スープは粘度があります。あっさり醤油系の澄んだスープのラーメンが正統と思っていたため、九州でなく広島でとんこつにであったのですから、よくわからず見た目にも抵抗がありました。

 今はこのラーメンが最高だと思っています。
冗談に「このラーメンには、薬が入っていて習慣性になるのだ」と言うくらいしばらく食べないと、ラーメン飢餓状態になります。

 友達のよしみでむりやり宅配をしてもらいます。
店が忙しい為、頼んでも何時来るかわかりませんが、来るまでは楽しみです。
その送り方に工夫がしてあるのです。(スープの送りかたが面倒くさい)冷えると白いプリン状になる(油分が多いため)スープを一人前ずつポリエチレンで密封しています。冷えると固まるのです。このスープを人数分なべで暖めるのです。このスープに醤油らしきもの(成分は不明)を入れ、初めて味つきスープになるのです。
 麺も特注らしくこだわっています。焼き豚も自家製です。送られてくるパックには、ねぎまで刻んで入っています。

 この味に似ていて好きなラーメンは、九州博多の「しばらく」と北海道の旭川の「とんこつ醤油」です。博多から地下鉄で西新に行くと駅から5分です。旭川ラーメンは新千歳空港のラーメン街に店が出ています。入って左の最初の店です。

 「生きているラーメン」は、送ってもらうより食べにいくほうがおいしいのですが、そうそう出張ばかりはできません。このラーメンなら3日間3食でもOKですが、家族からは1人占めだと責められ3食のみ食べます。

 ただし 友達といえどもラーメン代金・送料とも払っています。
このラーメンには送料を払っても惜しくはありません。

 これを書いているとラーメン屋に行きたくなりました。
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年賀状

2006年12月17日 | 日常
今年も年賀状を書く季節になりました。

友人・お得意先・ふるさとの人々に必ず、一人一人にワンコメントを添え書きます。
自分がもらったときに、印刷だけだと何か物足らなさを感じるため、自分の出す年賀状には、近況や相手への問いかけをヘタな文字で書き加えます。

今年の枚数はおよそ400枚、営業本部の現役の頃は会社分を併せて600枚でした。
当然のことながら出す相手が、少しづつ変わってきます。その多くは、関係力が薄くなりコメントが書けなくなるからです。そのタイミングで出すのを止めます。

入社以来紛失分を除きおよそ7000枚の名刺を保存しています。この人たちとの関係はほとんど失われていきます。その代わりに毎日新しい出会いもあります。

 最近 素晴らしい人と出合うことが多くなりました。だんだん仕事とプライベートとの区別がつかない人間関係になってきています。それは将来 NPO立ち上げを考えていると、仕事で知り合っても将来のネットワークをお願いしたいからだと思います。

 自分のブログやmixiの仲間こそ将来の友人と考えています。まだお会いしてない大半の人のひととなりが、メッセージ・コメント・メールを通じて分かります。

 ふるさとの近所の人たちにも必ず年賀状は出します。母がお世話になっているからです。転勤族でしたから、どこに住んでいるかだけでも知ってもらっていると、母との会話に上ると考えました。母を気遣ってもらっている人には心底お礼を言いたいのです。

さあ コメント書きに忙しい今日の日曜日、頑張ります。



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クリスマスケーキ

2006年12月16日 | 食べ物、飲み物
もうすぐクリスマス。

我が家のクリスマスケーキが、年々小さくなっています。
娘達が進学のため、3人が次々に東京に行きました。4人のうち家に残っているのが孫のような中学生が一人だけです。昔のような大きさは必要なくなりました。

 昨晩 音大に行っている娘が、高校時代 お世話になったウィンドオーケストラの定期演奏会のために、久しぶりに帰ってきました。母親と妹に学生生活を嬉々として、早口にまくし立てます。トランペットを吹いていますが、少しスランプのようです。

 ご飯を食べたあと、時間を置かずショートケーキを立て続けに、ほおばっていました。
学生のため、ケーキはなかなか買えず、駄菓子で我慢しているため、嬉しそうでした。

 この時期になると思い出すことがあります。

 私が大学の頃から就職しての数年間くらい、クリスマスを過ぎた年末に帰省すると、売れ残りと思われるケーキがいつも置いてありました。40年も前のことで、当時は生クリームではないため食べることができたのです。かたくなったクリームとぱさぱさのスポンジを家族で食べていました。

 数日遅れのケーキの意味は、今思い出しても胸が痛みます。

その理由を母親から聞き出しました。帰省する子供たちとケーキを一緒に食べたい父親が、予約のケーキをいつも遅めに引き取って持ち帰っていたのです。

 新鮮さより、子どもの顔を見ながら、食べるケーキの方が父親には、美味しかったのです。特にたった一人の娘である妹に対しての想いは一番大きかったそうです。

 寡黙な会社員の父親の、子供たちへの深い愛情を感じます。
交通事故で無くなった父親の年齢と並んだ私も、多分同じことをしたでしょう。 感謝。


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ふるさとの味   さば寿司編

2006年12月15日 | 食べ物、飲み物
尾頭付きのさば寿司を小さい頃から食べていました。

 頭の付いたさば寿司と言うと皆「ギョッ」として、怪訝そうな顔をします。
さば1尾の内臓を取り除き、小骨までピンセットで抜き、酢に漬けます。
酢飯を詰め込み出来上がりです。

 「ばってら」に近いのですが、片身でなく一本丸ごとです。
最初にこの姿を見た人は、とても寿司とは思わないのです。

 近海もののさばが取れなくなって、ほとんどノルウェー産ですが、結構 寒さばはおいしいのです。

 でもかみさんも私も作れず、83歳の母親の手作りのさば寿司を食べているのです。
さば寿司は、母親が秋祭りによく作っていました。今も11月から年に数回、母親からクール便で届きます。

 ふるさとが山の中です。多分中国地方を横断する「さば街道」が何本もあるため、この食文化を育てたのでしょう。頭の付いたお祝い用の鯛の替わりのものだった可能性もあります。

 さばの酢の強弱、酢飯の強弱、さばの大きさによる酢の浸透度合いのばらつきなど
さば寿司つくりは難しく、同じ味は出ないのです。

 これこそ、おふくろの味になりました。母親の年齢から考えても、いつまで食べられるかわかりません。市販されているのも、食べました.


 しかし 実家の母親の味が最高です。
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ふるさとの味  雑煮編

2006年12月14日 | 食べ物、飲み物
 雑煮の種類で大まかな出身地がわかります。

 まず丸もちか切り餅か餡餅かです。煮るか焼くか。清ましか、味噌か、ぜんざいか。
甘い餡の入った雑煮のことを聞いたときには、あぜんとしましたがあるのです。

 そして一緒に食べる正月の魚がぶりか鮭かによって西日本か東日本かもわかるのです。

 私の実家は、大ぶりの餅を煮て、澄ましでいただきます。
かぶと豆腐は必ず入れます。後はにんじんとか昆布です。

 ハイライトは、ブリを甘辛く煮付けたものを雑煮と一緒に食べます。

 昔 子供時代に正月前になると、大黒柱にブリが一匹つるしてあったのを思い出します。寒い土間に下に血受けの入れ物がおいてありました。海から遠い山間部でしたので、塩を擦り込んでいたのでしょう。刺身を食べられるのは、年に数えるほどでした。ほとんどが塩ものでした。決して裕福ではなかったのですが、ブリを一匹買うことが慣わしだったのでしょう。その置き場所も暖房のない土間だから長持ちがしたのでしょう。

 9人兄弟の長男だった親父は、たくさんの餅をつき、旧国鉄の駅から弟達に餅を送っていたことを思い出します。長男から送ってもらった餅を食べながら、ふるさとの親や正月を思い出していた、叔父叔母もほとんど亡くなりました。

 今のように宅配の発達していない時代の荷物の贈り物は、お互いの心をつなぐ
大切な絆だったのでしょう。

 NPOでこれを「魔女の宅急便」として復活したいと考えています。
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ふるさとの味 年越しそば編

2006年12月13日 | 食べ物、飲み物
私の実家の年越しそばは「けんちん汁」なのです。

もうすぐ大晦日、正月を迎える慌しい季節です。
年越しそばを「けんちん(野菜をたっぷり煮込んだごった煮風)」で食べると言うと「エッ」と驚く人が圧倒的に多いのです。

生まれたときからですから、それが当然と思ってきましたが、全国、各家庭では、そばの食べ方が違うようです。まず汁そばかざるかでも大きく分かれます。

我が家の年越しそばは、つなぎ無しのそばです。そのためにゆでた後、ぶつぶつ切れて食べにくいのです。又そばの実をそのままつぶしてある為に、色が黒いのです。

 まさに出雲そば系のその又田舎風です。

 さすがに自分ではそばは打てませんが、懐かしい味ですからか欠かせません。年末には、特別にお願いをしてこのそばを打ってもらいます。
 転勤族のためどうしても正月帰省できない年には、クール便で送ってもらいます。

 初めは文句を言っていたかみさんも娘達も、慣れてきました。

「けんちん汁」も独特の創り方をします。

豆腐も入れますが、包丁をいれずに手で握りつぶすのです。
油を敷いた中に放り込むと水分が、油の中で「ジャー」と大きな音とともにはじけます。ここに野菜をたっぷりと入れるのです。

 だしは煮干(いりこ)ですが、中くらいの大きさのいりこの頭とはらわた部分を丁寧に取り去って、身だけを使いそのままだしが出た後も捨てずに食べるのです。
昔からのやり方ですから、貴重な蛋白源であったのでしょう。

そばが、ぽきぽき折れて食べにくいので、最後は箸よりスプーンのほうが食べやすいかも知れません。

これを食べないと、大晦日ではありませんし、正月も来ないのです。
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「スーパーマン」登場

2006年12月10日 | NPO

 映画の話ではありません。
 
 退職後にNPOの立ち上げを考え、その中のひとつの活動内容「お助けおじさん」を考えているのです。まだ「夢」の段階ですが。

 
 仮称「スーパーマン」制度です。食品スーパーなどの御用聞きも兼ねる為のしゃれの言葉です.「魔女(田舎のシニアの総称ー好意からこう呼ぶ)の宅急便」を助ける「スーパーマン」に登場してもらう構想です。
 
 市内の一人暮らしのシニア(年配者)、夫婦のみのシニア、山の中のシニアなどの宅配の梱包を手伝うヘルパー制度を考えています。デジカメで元気な姿を撮り、簡単プリントの後、宅配便に写真を同梱します。荷物を開けて、写真とたくさんの贈り物に驚き、感謝する子ども・孫・知人・親戚とよりつながるのです。私が母親にしてもらったように。

 また宅配の梱包を手伝うだけでなく、シニアの欲しいものの買い物のリクエストをもらい買い物の代行をします。シニアを定期的に訪問し、買い物の代行のほか、生活に不便を強いている家屋・設備の簡単な営繕仕事の要望を聞き、簡単な営繕仕事は自分でこなし、そうでないものは市内の大工・工務店に取り次ぎたいと思います。その無償の行為には、安価ですが「地域通貨」報酬を当てたいと思います。(地域通貨は後日 日記で)
 
 買い物をする食品の店をどこにするのかは、この主旨に賛同いただけるお店をリストアップし、シニアのみなさんの要望も聞きたいのです。又リフォームについても同様で建設・営繕工事業のリストに基づいて主旨に賛同いただける業者の方に発注を考えます。又お願いする店が偏らないように公平性を持たせ、協力業者の皆さんの気持ちが冷えないようにします。

 「スーパーマン」の登録は、同じ街で60歳以上で、信頼されている人にお願いをしますが、見直しもします。又退職を期にふるさとにかえってくる団塊世代にもお願いをし、知恵も貸していただこうと思っています。
 現在市の担当者に構想をお話し、側面的支援をお願いしている最中です。

 
 およそ2年後 退職を期に、「魔女の宅急便」「スーパーマン登場」「音楽村創設(村長 保科洋)」「地域通貨の発行」など立ち上げたいと思っています。ひとつづつやります。手伝っていただける人との出会いも楽しみです。
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私のこだわり  ジャム編

2006年12月09日 | 食べ物、飲み物
この歳になると、和食中心で家族の嗜好と外れてきて、好みを言うとかみさんと娘達からはブーイングです。

 こんな私は米が一番好きですが、実はパンも大好きなのです。
パン屋さんに行き、トレイを持って選ぶときのわくわく感は大きいのです。

 それに加えて、ジャムが大好きです。
全国に出張したときに、地方のデパート、名産館、物産展で必ず捜すのが変り種のジャムです。甘夏・桃・さくらんぼ・マスカット・トマト・ミルク・ラズベリーなども食べてみました。生産地のラベルで都市部の住所が入っているとがっかりです。
値段もピンキリです。名産と言うだけで高いものは敬遠です。

 デパートのジャムコーナーは輸入品が充実しています。
しかしデパートでもあり、輸入品ということで値段が高い為、商品券をもらったときぐらいしか行けません。世界のジャムが並んでいますが、輸入物は糖分が多いものが多く、国産の方が低糖になってきています。輸入のための日持ちの関係なのでしょう。

 果物のみずみずしさを味わえるノンシュガータイプが好みですが、冷蔵庫の中でも
忘れて腐らせてかみさんから苦情が出るのです。パンの上に溢れるばかりのジャムを載せる為に、「パンの味がしないのでは」、「ジャムを食べている」と家族からも厳しい指摘ですが、そのとおりジャムを味わっているのです。

 この場合は、コーヒーより紅茶を濃い目に入れた方がベスドッチです。レモンよりもミルクティーが良く合います。(私好みですが)プレーンヨーグルトとも良く合いますが、この場合は彩りが重要です。ジャムの色です。見た目の鮮やかさがおいしさに大きく影響します。。

 食卓に並べて、その日の気分で選ぶときが至福のときです。
大きさやビンの形も様々で、見ているだけでも楽しいのです。

 農園の手作りジャムも送っていただきますが、無花果が大好きです。
珍しいものに一時的に凝りますが、やはり定番のマーマレード、イチゴは欠かせないものです。
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私のこだわり  心理学 第3章 「家族」

2006年12月08日 | 自己啓発
子育ての成功か失敗かは孫を見ないと判断がつかないと思っています。

娘達の性格や癖をみて、心配したり、悩むことはあります。
しかし この娘達が結婚して、どのような子育てをするのかには、大きな関心があります。その結果が成功か失敗かであって、子供だけでは判断できないと思っています。

かみさんと子育てについて、話したことは少ないのですが、4人の娘を比較した発言・行動だけはお互いに戒めました。子供達はそれぞれが個性を持っているために、ある面だけの比較であれこれ言うのはやめようとだけ話しました。

もっと工夫をすれば良かったと思うこともあります。
娘達に小さい頃から「おまえはすごい」といいつづけてきた為に、学校の成績が良くても悪くても、それがごく一部と思い動じなくなってきたことです。そのために公立ではなく、学校がほとんど私立に通うことになり、家計を圧迫したことが誤算でした。ますます個性が強くなった感があります。

親との関係についても、大きく変わりました。

この心理学のなかで学んだ20年カレンダーの制作がありました。
自分や家族の20年間の年齢と起こるであろうイベント(入学・結婚・出産・新築)を記入するのです。それを作ってみて、母親と会える回数が盆暮れだけだと数十回しかないことに気づいたのです。口うるさい母親とけんかをし、既に聞いたと邪険にしてきました。しかし数少ない親子の会話を大切にしようと考えました。

休日も朝早くから電話をし、母親の言い分や愚痴を聞くことが習慣になりました。
もっと早くに気づけばよかったと思っています。

様々なヒントがこの心理学に隠されていました。
この心理学は、ポール・J・マイヤーのSMIプログラムです。私の宝物です。
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私のこだわり 心理学編 第2章

2006年12月07日 | 自己啓発
この心理学を学んで、多くのことが変わりました。

自分の人生観や子育てを初めとする家族への想いが変わりました。

まず自分がいかに、多くの人に生かされている大切な人間なのかに気づきました。
自分の両親、又その両親と10代さかのぼるだけでも、先祖は1000人を超えるのです。
そのうち1人でも欠けると自分が存在しないのです。このことは奇跡に近い確率であり
自分の存在は何物にも変え難いものであり、自分を大事に、自分の人生を大切にと思うようになりました。最初宗教かなと思いましたが、過去長い年月と多くの資金をつぎ込んで出来上がったプログラムとわかり、ますます自分のものにしたくなったのです。

この手法は、旧くは王侯・貴族や、時の権力者が口伝で子孫に伝えていた方法とも聞きました。又アメリカ大統領を目指す上院・下院の議員達が息子に小さい頃から施す教育プログラムの一環とも聞きました。

このプログラムに出会ったことで、人との接触方法が変わり始めました。

出向先の人たちとの拘り方、又合弁会社のオーナーとの関係力強化にも役立ちました。
人間ですから不平不満を言います。しかしそう言っている自分を客観的に見ている自分に
気づくのです。一日の中でもポジティブになったり、ネガティブになったりしますが、帰って来るポジションが決まったのです。

徐々に出向先の人たちとの距離が縮まってきました。これなら一緒にやれると感じました。

ネガティブな言葉を最初使わないように心がけました。知りません、わかりません、できません、時間がありませんとかの言葉と決別しようと思いました。
 うっかり使うことはありますが、それらを使うときに心のどこかでアラームが鳴っています。

 気をつけないと新興宗教と間違われやすいのですが、この心理学を学んだことで「人生のバイブル」ができたのです。

(心理学 第3章に続く)
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