オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

【続報】セガのMills機は海賊版などではなかった?

2024年07月14日 20時05分31秒 | 歴史

前回記事「【衝撃】セガ製Mills機、実は海賊版だった!?」において、「拙ブログでこれまで『セガは米国Mills社から金型と権利を買い取ってコピーした』との言説を事実として流布してきていたがその根拠とする資料が見つからない」と述べました。

しかしその後必死に捜索したところ、やっとその根拠を発見しました。それは米国在住の英国人、フレディ・ベイリー(Freddy Bailey)氏という方から受け取ったメールでした。てっきり雑誌の記事だとばかり思い込んでいたため、発見がここまで遅れてしまいました。

フレディ・ベイリー氏。米国の地域ケーブルテレビ「SOMATelevision」が放映する「Nostalgia Alley」と言うシリーズ番組でのインタビューより。

彼は長くAM業界で活躍してきた大ベテランで、ご本人は「Coin Machine Historian」と名乗られ、「歩く百科事典」と評する人もいます。ワタシは彼から「Freddyと呼んでくれ」と言われているので、畏れ多くも敢えて以下は「フレディ」とします。

フレディは、ワタシが拙ブログを始める以前にウェブ上で公開していたセガの古いスロットマシンのフライヤーを見てメールをくださり、以降現在に至るまで貴重な資料や知識をシェアしてくださっています。

問題のメールは2012年12月13日に受け取ったもので、セガの部分のみを要約すると、

1950年のジョンソン法成立後、Millsは工場をシカゴからリノに移し、マーティ・ブロムリーはシカゴにあったMillsのツール(予備の在庫だった)を購入した。

とのことです。ジョンソン法とは、州を超えてスロットマシンやその部品を運ぶことを禁じる法律です。これにより、当時の大手スロットマシンメーカーは、海外に拠点を移したり、廃業したりなどしましたが、Millsはギャンブルが公認されているネバダ州に移転しました。

「ブロムリーが購入したツールはシカゴにあった予備の在庫(原文は'Marty bought the Mills tooling that they had in Chicago, this was the back-up tooling that Mills had in stock.')」などは知らなければ言及できることではなく、またフレディ自身もブロムリーとは50年代の昔から深い付き合いがあったことから、十分信ずるに足る証言と思われます。

ただ、ブロムリーがミルズからツールを購入したことは事実だったとしても、それがどのような契約内容のうちに行われたものかは定かでありません。Service GamesとMillsにはそれぞれ見解が異なる部分があるようですが、どちらが合理であるかは今のワタシには判断が付きません。とりあえずは、前回の記事の趣旨へのカウンターとしてこのような言説もあるということを記録することが今回の趣旨です。

なお、フレディは現在も「Game World」という会社を運営し、元気に活躍されています。末永く頑張っていただきたいものです。


【衝撃】セガ製Mills機、実は海賊版だった!?

2024年07月07日 19時46分39秒 | 歴史

拙ブログではこれまでセガの古い歴史について何度も言及しています。過去記事「セガのスロットマシンに関する思いつき話」では、セガの前身である「Service Games Japan」はマーティン・ブロムリーという人物によってアジア・太平洋地域の米軍基地にスロットマシンを売るために設立された」と述べ、さらに「(Service Gamesは)米国ミルズ(Mills)社の、アジア太平洋地区のディストリビューターとなり、ほどなくして自社でミルズ製品のコピーを製造するようになった」と述べています。

また、「セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(3) セガのスロットマシンその1」では、「ブロムリーは米国の大手スロットマシンメーカーだった米国Mills社から金型と権利を買い取ってコピーした」とも述べ、この部分は風営機オリンピアの誕生の経緯を想像して創作したストーリー「オリンピア・たぶんこうだったんじゃないか劇場(4):第4幕/第5幕」で、ストーリー上の重要なキーポイントとして反映させています。

しかし最近、上記二つの赤文字で記した部分ついて、その認識を怪しまなければならない新資料を発掘してしまいました。

特に衝撃だったのは、「セガがMillsから金型と権利を買い取った」が虚偽である可能性が濃厚となったことです。ワタシはその根拠とした資料を探しましたが、なにぶんにも昔の事で長い間見返すこともなく、その後に次々と追加されていった資料に埋もれてしまい、どうにも見つけることができません。そこで今回は単純に、拙ブログがかつて事実として流布していた言説の反証となる資料をご紹介するに留めておきます。

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今回発掘した資料は、米国のエンターテインメント業界誌「Cash Box」1958年6月21日号の「Part II」の65ページです。(「Part I」は音楽業界関連、「Part II」がコインマシン関連であるようだ)ここにMills社はこんな広告を掲載しました。


Mills社がCashBox1958年6月21日号に掲載した広告。推奨サイズでなるべく大きく表示するために上下二分割してある。

セガの前身である「Service Games (Japan)」は、1956年9月の時点で、自らを「Millsのスロットマシンの太平洋エリアにおける排他的ディストリビューター」と名乗って、Mills製スロットマシンのマニュアルを頒布しています。

Service Games (Japan)が1956年に頒布していたMills製スロットマシンのマニュアルの表紙。Mills社の商標であるフクロウのマークとともに、最下段に「Exclusive Distributor - PACIFIC OCEAN AREA」とある。

しかし、Millsのこの広告は、これを否定しています。あまりの衝撃に手が震えていますが、詳しく見ていくことにします。

まず冒頭に

あなたはMillsの純正品とただのニセモノのどちらを取りますか?

と大書し、続いて

以下の広告を使用している Service Games (Japan) Inc. もしくは Westlee は、新品の純正Mills Bell-O-Maticマシンの販売代理店ではありません

と、「Service Games」他一社を名指しで否定しています。そして、これら二社「Service Games (Japan)」と「Westlee」の広告を左右に置き、その中央に

これらの広告の機械は、新品ではなく、Mills Bell-O-Maticの純正品ではありません。これらは左の写真に見られる純正品のただのニセモノです

と述べています。

あげつらわれているService Games (Japan)の広告はこう延べています。

90%以上...
世界に供給されているMills Bellモデルは、経験豊富な技術者と職人であるベルマシンエンジニアの中でも最も優れたスタッフの監督の下、我々の東京の工場で製造されています。

業界の歴史上最高級のMills製品は、世界に向けて販売されている機械の90%が日本で製造されています

もちろん、我々のMillsの品質、デザイン、それにプレイヤーへのアピールは、Service GamesのMills Bellマシンを導入することが良いビジネスであることを地球上のコインマシン業者を納得させています。


Millsはこうしてけしからん二社の広告を挙げた上で、

純正のMills Bellを主張する機械は米国ネバダ州リノで、Mills Bell-O-Matic社のみが製造し、公式のディストリビューターのみが販売します。それ以外の日本やその他で製造された機械は、Millsの50年前のデザインと製造経験に基づく古いものです。

過去何年にもわたって、Millsは100%純正のMills Bellマシンを製造し続け、世界中に販売しています。品質への評価は米国Mills Bell-O-Maticの純正品によってのみ築かれてきたことは明らかです。あなたは本物を手に入れることができる時に、なぜ保証のないニセモノに賭けるのですか?

とたたみかけています。この広告には他にもいろいろ書いてありますが、とにかく純正品はMillsのみ、それ以外はニセモノ、ベストな商いは純正品であってこそ、と言うようなことがしつこいくらいに書かれています。

そう言えばService Gamesは、「Mad Money」と言う機種で、米国の人気雑誌「MAD」のキャラクターを無断で使用したこともありました(関連記事:【小ネタ】セガ・マッドマネーとアルフレッド・E・ニューマン(Alfred E. Neuman))。現在のように世界が狭くなかった当時、一般的な米国企業の目はService Gamesが商圏とした極東・アジア地域まで届いておらず、それを良いことにService Gamesは好き勝手をしていたのかもしれません。

そして時期的に考えて、Service Gamesがオリジナル筐体「スターシリーズ」(関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(3) セガのスロットマシンその1)を作ったのも、外観を変えてMills製品とは無関係の振りをして、Millsからの表立った批判を回避する目的があったものと考えることもできそうです。

「segaがMillsからライセンスを得ていた」とする資料は引き続き探しますが、現時点ではその説は分が悪そうに思われます。


新・幻の「アタミセンター」を求めて(6):これまでのまとめ(終)

2024年05月05日 20時49分06秒 | 歴史

【前回のあらすじ】
●熱海市立図書館で調べた地図から、アタミセンターの存在時期は概ね判明したが、並行して進めていた追加調査で、熱海市立図書館にはなかった地図のいくつかが国会図書館にあることが判明したので、まとめは次回以降とすることにした。

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3月に熱海市立図書館で得た熱海市の住居地図は以下の12冊です。

1960年代:61,67(2冊)
1970年代:71、73、74、79(4冊)
1980年代:81、84、85、86、88、89(6冊)

熱海から帰ってから、欠けている版がどこかに無いものかと調べて、70年代は72、77、78年版の3冊が、80年代は82、83、87年版の3冊が国会図書館にあることを発見しました(60年代は見つかりませんでした)。

そこで去る5月1日、雨が降る中を行って調べたところ、1972年版(ゼンリンの住宅地図 ’72 熱海)に「加奈」の記載があり、同時に「銀馬車」の名が消えていることを発見しました。

「ゼンリンの住宅地図 ’72 熱海」の銀座町2丁目。「銀馬車」の名が消え、代わりに「加奈」が記載されている。

ネット上には「加奈」に言及しているよそ様のブログが多数あり、その中で「加奈」の開業時期を「1973年」としているものが複数見つかるので、今まで拙ブログもそれらに倣ってきましたが、どうやら「加奈」は1972年には既に存在していたようです。

また1982年版(ゼンリンの住宅地図 ’82 熱海)には「アタミセンター」の記載が無くなっていることもわかりました。

「ゼンリンの住宅地図 ’82 熱海」の銀座町2丁目。「アタミセンター」の記載が無くなっている。同時に、79年版と81年版に見られる傷だかゴミだかもまだ残っている。

これらにより、先週まで不明だった「銀馬車」と「アタミセンター」の消滅時期は、「銀馬車」が1972年、「アタミセンター」が1982年であることが判明しました。そして、「アタミセンター」は少なくとも1961年以降1971年までは「銀馬車」と、1972年以降1981年までは「加奈」と、おそらくは1階と2階で棲み分けて営業を行い、1982年以降は「加奈」のみが営業を続けていたということのようです。

アタミセンター、銀馬車、加奈が存在していた時期の一覧。

つまるところ、「スーパーホームランゲーム」のフライヤー画像に見える「階上 高級喫茶」は「銀馬車」を指している可能性が高いです。

「スーパーホームランゲーム」のフライヤーに掲載されている「アタミセンター」の画像。壁面に見える「高級喫茶 階上」の文字は「銀馬車」を指しているものと思われる。

しかし、「銀馬車」と入れ替わった「加奈」は、当初から1階で営業しているとのことなので、「アタミセンター」は1972年に1階から2階に移ったと考えざるを得ません。

「アタミセンター」の1階と2階の移り変わりの推測。

いったい、どの時期に、どのフロアで、どの屋号で、営業が行われていたかを推測してみました。「アタミセンター」の建物で行われていた営業には以下の5種類があったと聞いています。

◆アタミセンターが入る建物内で行われていた営業
① 高級喫茶
② スーパーホームランゲームの直営宣傳場
③ キャバレー
④ 射的場(空気銃)
⑤ 喫茶店

これらのうち、既に判明しているのは、①が「銀馬車」、②が「アタミセンター」、⑤が「加奈」であることで、③のキャバレーと④の射的場の運営主体は不明です。しかし、料飲業である共通点から③が「銀馬車」、遊技業である共通点から④が「アタミセンター」であったと考えるのが自然であると思います。ただし、キャバレーだった時期や、射的場だった時期は全く不明です。実はこの建物には反対側にも入り口があり、片方が遊技場、もう片方がキャバレーの入り口であった可能性も高そうです。

「アタミセンター」の建物の、反対側の入り口。

ただ、この考え方だと、「加奈」が1階で営業を始めたタイミングで「アタミセンター」が2階に移ったことになり、これはこれで違和感が残ります。2階がキャバレーとして残っていたのなら、消えるのは「銀馬車」ではなく、むしろ「アタミセンター」の方ではないでしょうか。それとも、キャバレーの屋号を「アタミセンター」に変更したのでしょうか。

結局のところ、末期の「アタミセンター」がどんな営業をしていたのかはわかりません。あくまでも現状合わせの考え方ですが、「加奈」開業後、「アタミセンター」は建物の名前として残りはしたが特に何か営業をしていたわけではない可能性も述べておきたいと思います。

実は熱海での二日目、この辺りについてもう少し詳しいお話を聞けることを期待して「ボンネット」を再訪したのですが、昼前の11時半時点でまだ開店しておらず、諦めて家路についていたのでした。

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今回の調査では、当初の疑問である「スーパーホームランゲーム」のフライヤーの頒布時期は結局解明できませんでした。個人的には、完成はできなかったものの、欠けているパズルのピースが少しずつ埋まって行く時の嬉しさや、熱海の昭和史を辿る楽しさが感じられて、楽しい作業ではありましたが、明快な答えを期待されていた皆さんには申し訳ありませんでした。この疑問については、「リズムボーイズ」(関連記事:「リズムボーイズ」第三の資料発見!)と同じように、今後も継続して注目する対象としておきたいと思います。

(おわり)


新・幻の「アタミセンター」を求めて(5):二日目の記録その1

2024年04月28日 16時14分43秒 | 歴史

【前回のあらすじ】
およそ半世紀前のTVのCMで知った「熱海ニューフジヤホテル」に投宿。温泉ホテルにはしばしばレトロゲームが残っていたりするので期待していたゲームコーナーには、残念ながら見るべきものは全く無かった。

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7時15分に起床。昨晩、写真や資料の整理をしながら、念のため80年代の地図も見ておこうと考え、今日もまた図書館に行こうと考えていました。しかし、その前にまずは朝食です。

今回の宿泊は、朝食付きプランとしていました。チェックイン時に希望する朝食の時間帯を申請することになっていて、ワタシは「8:00」としていました。このシステムによって入場者数をある程度調整しているのでしょう。

朝食は別館の1階にある「麗峰」でとります。昨夜覗いたゲームコーナーはこの上階にあったので、通りすがりにディナータイムの営業の様子を垣間見てはいたのですが、中に入るとその広さに驚きました。テーブル数はラスベガスのカジノのバフェイ(コロナ禍後に次々と閉鎖され今は僅かしか残っていないが)の数倍はありそうです。かつてステージだったと思しき造作も見えるので、昔はここでディナーショウが行われていたのかもしれません。

スタイルはバフェイ形式です。入り口で受け取った「このテーブルは使用中」の札をテーブルに置いて、料理を取りに行きます。

朝食バフェイで取ってきたもの。

実はこの後で一度お代わりをして、さらにおデザもいただいています。

おデザ。

料理は押しなべて並クラスですが、別な言い方をすれば悪くとも並止まりで、ひどいものはありません。これで550円(素泊まりとの差額)ならむしろおおいに上等です。ただ一つだけ、ワタシはホテルの朝食バフェイではごはんよりもパンを好む傾向があるので、パン類の選択肢が貧弱だった点は残念でした。

朝食から部屋に戻ったのが8時40分頃。チェックアウトは10時ですが、あまり間際だと混むかもしれず、また徒歩5分程の場所にある図書館は9時に開くので、ホテルを出ることにしました。

歯を磨き髭を剃って荷物をまとめてフロントに行き、ルームキーを差し出すと、「入湯税150円です」と言われました。そうか、そういう課金もあるのか。昨晩、寒い思いをしながらも露天風呂に入っておいて良かった。もし不精してお風呂をさぼっていたら、ただ150円を取られただけだったろう。

図書館に行き、カウンターで「1980年代の住宅地図をお願いします」と告げると、1981年、84年、85年、86年、88年、89年の6冊を出してくれました。これらのうち最も古い1981年版の「喫茶 加奈|アタミセンター」の記載は1973年版以来変わっていません。

1981年発行の「ゼンリンの住宅地図 熱海 ’81」(善隣出版)での銀座町2丁目とその付近。「喫茶加奈|アタミセンター」の記述は1973年版以降変わっていない。赤矢印部分に意味不明の傷がある。

ただ、赤矢印が示す傷かゴミのような線は実は1979年版にもあり、また区割りの形状や字体も79年版とほぼ重なるので、銀座町2丁目の部分は79年版のコピーであるように思えます。とは言え、他の部分では屋号が変わっているところもあるので、まさかこの部分だけ手直しがされていないなどと言うことは無いと信じて話を進めます。

1979年発行の「ゼンリンの住宅地図 熱海 ’79」(善隣出版)での銀座町2丁目とその付近。81年版に見える傷と同じものがここにも見られる(赤矢印)。

てっきり「スーパーホームランゲーム」の宣伝場の名称だとばかり思っていた「アタミセンター」は、少なくとも1981年まで存続していることが判明しました。しかし、次に参照できる地図は3年後の1984年版まで飛び、ここで「アタミセンター」の記載がなくなっています。

1984年発行の「ゼンリンの住宅地図 熱海 ’84」(善隣出版)での銀座町2丁目とその付近。「アタミセンター」の記載が消え、「喫茶 加奈」のみとなっている(赤円内)。

・・・と、ここまで記録したところで、この後、熱海市立図書館で参照した地図の情報を基に、アタミセンター、銀馬車、加奈が存在した時期を一覧にして考察していこうと考えていたのですが、並行して行っていた追加調査で、国会図書館に、熱海市立図書館では欠けていた70年代、80年代の地図があることを発見してしまいました。それらを参照すれば、現時点よりも解像度の高い記録となりそうなので、今回はここまでとして、このGW中に新たに発見した地図を調査して来ようと思います。

(つづく)


新・幻の「アタミセンター」を求めて(4):初日の記録その3

2024年04月21日 17時09分02秒 | 歴史

【前回のあらすじ】
●初日の午後、図書館を出て、熱海のレゲエスポット「和田たばこ店」と、熱海に唯一残る射的場「ゆしま遊技場」を巡ったが、収穫と呼べるものはなかった。
●「加奈」の近くにある開業75年の老舗喫茶店「ボンネット」で、
 ・アタミセンターはキャバレーだった時期がある。
 ・アタミセンターは射的屋だった時期がある。
 ・加奈は開店当初から1Fだった。
とのお話を聞くことができた。

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「ボンネット」を出たのが午後2時半ころ。そろそろチェックインが始まる頃合いなので、ホテルに向かいました。

今回宿泊する「ニューフジヤホテル」は、図書館や加奈のすぐ近くという格好の立地だっただけでなく、朝食付きで8000円ちょっと(但し部屋の眺望は無し)と、コロナ禍前のラスベガスの中堅ホテル並みにリーズナブルでした。

ニューフジヤホテルのエントランス付近。往年の大型豪華ホテルの威容は今も残る。右手に少し見える白い建物は別館の一部。

1960年代から70年代にかけて、東京のTVでは温泉ホテルのCMが良く流れていました。「ニューフジヤホテル」はそのある時期、冒頭で「Las Vegas On Ice!」と謳い、最後にコーカソイド系外国人のショーガールたちがカタコトの日本語で「アタミニキテネ」と言って終わるCMを流しており、中学進学前から「いつか必ずラスベガスに行くのだ」と心に決めていたワタシの記憶に強く残っていました。

ワタシの記憶に残るニューフジヤホテルのTVCM。この画像のソースはYouTube。放映時期ははっきりしないが、ワタシが多少なりとも英語を解しているので、中学生か高校生だった1975年±2年の範囲と思われる。

海外からショウの一座を呼ぶなど今では到底考えられないことですが、当時の大ホテルはどこも豪華さを競っていたように思います。あれからおよそ半世紀を経て泊まる事になるとは、タイムスリップでもしているかのような気になります。

レセプションの列に並んでチェックイン手続きをしたのは午後2時40分頃でしたが、ルームキーの引き渡しは3時からとのことで、別の行列に並ぶ必要がありました。キーを受け取り、別館に続く地下通路の手前にある棚から浴衣を選んで部屋に向かいました。

受け取った館内案内図より、部屋の構成の部分。ワタシは9階の45号室(赤丸内)で、外界に向かう面が無いが、角部屋だったのは良かった。

部屋の広さは18平米くらいでしょうか。ビジネスホテルの狭いシングルルームよりはずっとゆとりはありますが、机もしくはテーブルが無いのでパソコンの作業をするには若干不便ではありました。窓は開かず、開いたとしても向かいの16~21号室の窓が見えただけでしょう。しかし、それも承知の上での選択です。

部屋の様子。窓は採光のためのもので、開かない。

部屋に荷物を置き、まだ日はあるので再び外に出て繁華街や海岸などをうろつき、いくらかの熱海観光らしきものをしてみました。

静岡県に唯一残るストリップ劇場「銀座劇場」。

画像:①「加奈」の脇を流れる「糸川」は、渚町から河原に降りられるようになっている。 ②河原にはベンチがあり寛ぐことができる。 ③橋の下。満潮時にはかなり足元まで水が迫ってくるようだ。 ④河口の先はヨットハーバー。

画像:①渚町から海側は「熱海親水公園」となっている。 ②1950年の熱海大火の火元となった、渚町の北端付近。 ③熱海の興隆と凋落の差を示す廃墟の一つ、旧熱海海浜ホテル。現在再開発計画が進行中とのこと。 ④「金色夜叉」の像。バカボンのパパとママの馴れ初めのモチーフなのだが、ナウなヤングはわかるだろうか。

銀座町に戻るとすっかり暗くなっていました。メイン通りの「熱海銀座」は意外と早い時間に多くの店が閉まり、中央町の旧赤線地帯は元々仕舞屋が多く、日が暮れるとやることがあまり無くなってしまいました(大人にはそれなりの遊び場があるのかもしれないけどワタシはケチなので興味がないので知らない)。開いている数少ない店の一つで、ゲストハウスを名乗る「マルヤテラス」で鹿のソーセージだという「ジビエドッグ」(750円)をテイクアウトして、さらにコンビニでいくらかの食料と飲み物を買い足してホテルの部屋に戻り、夕食としました。

メニューに記載されているジビエドッグ(750円)と、その実物。珍しいから試してはみるし、うまくないというわけでもないが、積極的にリピートしようと思うほどでもない。

食後は、別館3階にあるゲームコーナーに行きました。本館と別館は道を隔ててはいますが、地下通路でつながっており、外に出ずとも行き来できます。温泉ホテルのゲームコーナーはレトロゲームの宝庫であることが多いので期待していたのですが。

ニューフジヤホテルのゲームコーナーの1。メカ系の一部。


ニューフジヤホテルのゲームコーナーの2。メダル機の一部。


ニューフジヤホテルのゲームコーナーの3。ビデオ系の一部。

むむむ・・・ 期待していたようなレトロゲームが殆ど無いのは仕方ないとして、コンセプトというものが全く感じられない、空いているスペースにただ漫然と機械を並べているだけの、悪い意味での昔ながらのゲームコーナーです。

例えば昔のピンボール機を多数置いてピンボールの聖地を謳うとか、台場一丁目商店街のようにレトロゲームで昭和の雰囲気を再現する(関連記事:セガのエレメカ機「MOTOPOLO」 (1968))など、今だからこそできる施策はあるはずだと思うのですが、せっかくこれだけのスペースがあるのに、なんとももったいないことです。どうせ手をかけないのなら、定見なく新台と入れ替えるより、いっそ1960年代のままでいてくれた方が今の時代には良かったのではないかと思います。

全くお布施をする気にもならず部屋に戻った後、せっかく熱海に来たのだからと本館屋上の露天風呂に行ったのですが、3月半ばの気候では洗い場で濡れた体に風が吹くと滅法寒く、屋内の大浴場に行けばよかったと後悔しました。

(つづく・次回から二日目)