オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

【ちょっとひと休み】近況報告など

2019年02月24日 20時49分08秒 | その他・一般
◆先週、【史上最も期待された「クソゲー」:「与作」の記憶】をアップしたところ、その翌日は歴代アクセス記録タイ程度のアクセスがありました。ゲームセンターのゲームに例えるなら、それまで1日200円とか300円程度のインカムしかなかった機械に、800円くらい入ったほどの快挙でした。

さらに翌日には、インカムが初めて1000円を超えました。さらにさらに翌日には、インカムは3000円に達する勢いとなりました。さすがに次の日からはインカムは漸減していきましたが、それでもまだ以前の基準でいえばかなり入っている方の数字を維持しています。まあ、これもそのうち平常運転に戻るものとは思いますが。

特に世に広く知らしめる活動をしていなかった拙ブログ、ひと月ほど前に女房から「更新したらせめてお仲間にお知らせするくらいしろ」と言われ、ツィッターでひっそりと更新の告知をするようにしていたので、その影響も大きかったのだと思います。改めてSNSのある意味での恐ろしさを、身を以て体験しました。

また、「与作」は何しろ古い話なので、現在のゲームプレイヤーのコア層に引っ掛かることはないと思っていたのですが、コンシューマー系ウェブサイトで拡散されたのも大きかったようです。そういえば「与作」は家庭用としてもエポック社などからも出ていたなあと思い当りました。やはり、今、ビデオゲームの話題に敏感な人は、コンシューマーから入ってきた方が多いという事なのかもしれません。

◆来月9日から10日にかけて、初めての「シルバーボールプラネット」と「KINACO」のために、何年振りかで大阪に参ります。

もちろんそうなれば、一昨年の放火事件から見事にリニューアル復活された「かすが娯楽場」や「スマートボールニュースター」も覗きに参ります。また、まだ詳しいことはよく把握していないのですが、新世界には「レトロゲーセンザリガニ」というお店が複数あるそうなので、それらにも期待しております。

余談ですが、大阪に行くたびに困るのが、食べるものです。何しろ食い倒れの地なので選択肢が多すぎて、最大のペイアウトを求めようとすると身動きが取れなくなってしまうのです。悩んだ結果、結局スタンドのうどんなどを食べて済ませてしまったりするということになるのかもしれません。

◆拙ブログは、今週の2月28日を以て開設3周年となります。これを記念して、もしもご希望の方がいらっしゃるようなら、切手を貼付した返信用封筒をお送りくださった方全員にオリンピアマシンのメダルをプレゼントしてしまおうかなどと考えましたが、こんなものを欲しがる人なんてそうもおるまいと思われるので、考えるだけの企画倒れに終わることでしょう。


オリンピアのメダル。直径はおよそ30.6㎜。

史上最も期待された「クソゲー」:「与作」の記憶

2019年02月17日 19時01分41秒 | ビデオゲーム
タイトーの「スペースインベーダー」ブームが始まったのは1978年の事です。しかしそれもさほど長くは続かず、1979年の夏ころには陰りが見え始めます。ビデオゲームというもの(当時は「テレビゲーム」と呼ぶのが一般的だったが)が一般に広く認知された今となっては、「ポストインベーダー」は社会一般の興味となりました。そしてこの時、世間の耳目を最も集めたタイトルは、「与作」であったように思います。

「与作」は、もともと1978年に北島三郎さんが歌い、ジャンルは違えどスペースインベーダーに匹敵する大ブームとなった歌謡曲でした。ゲームメーカーはこの人気に目をつけ、便乗しようと考えたのでしょう。実際、当時のTVの取材番組でも、「与作」が期待を担うタイトルとして紹介されたこともあります(関連記事:それはポンから始まったのだけれども(5) ポストスペースインベーダーの頃)。

しかし、「与作」人気に目を付けたメーカーはいくつもあり、「与作」を名乗るビデオゲームは複数作られました。その「与作」には全く奇妙なストーリーがあります。業界誌「コインジャーナル」1979年6月号の編集後記に、こんな一文があります。

「▼ポストインベーダーをめざして各社とも10月のAMショーに向けて新機種開発に余念がないことと思われるが今、静かに、また、時には熱っぽく語りつがれているマシンがある。その名も『与作』。ところがこのヨサクゲーム、誰も見たことがないというから業界七不思議の一ツ ▼福岡で見たとか高松で見たとか言われるが問い詰めれば謎に包まれたままだ。噂話に尾ヒレがついて、遊び方もインベーダーの変形だの、木こりが木を切るだのとかまびすしい論議の割に実態がつかめぬのだ(後略)


コインジャーナル1979年6月号の編集後記。「与作」を幻のように述べている。

ところが、コインジャーナル誌はその翌月号に、「遂に見つけた 『与作』ゲーム」という続報を掲載しました。しかもタイトルの冒頭には「大々スクープ」とまで銘打っています。


コインジャーナル1979年7月号の与作に関する続報。3本の木が表示されているゲーム画面が紹介されている。

この記事によれば、その正体は(株)オーエムが開発したもので、4月末から東京、大阪を中心にロケテストを実施しており、本格的な生産は8月から、月産二千台を目標にしているとのことです。さっそく資料を探してみたところ、コインジャーナルの更に翌月号(8月号)にその広告を発見しました。


オーエムの「与作」の広告。コインジャーナル1979年8月号に掲載。「ついにヴェールを脱いだ幻のマシン」と謳っているのは、以前のコインジャーナルでの取り上げられ方を意識しているのかもしれない。

オーエムはさらに、コピーが当たり前だったこの時代、同業他社を牽制する広告も同時に掲載しています。


権利を主張する社告。なぜか「株式会社藤興産」が筆頭に挙がっているが、オーエムが製造元という事になっている。

だがしかし。コインジャーナルの同じ号に、「株式会社ウイング」が、「幻のテレビゲーム与作とドン平ウイングより登場」と称して、「与作とドン平」を発売する広告を打っています。そのコピーには、「かねてテストロケーションでご好評をいただきました【与作とドン平】を、下記の日程で一般販売いたすことになりました。この【与作とドン平】は、ポストインベーダー・マーケットを考慮し、インベーダーで高度なテクニックをマスターした人にも初心者にも、満足していただけるように「高度なゲーム内容プラス、コミックな絵と音」に構成いたしました(後略)」と謳っており、まるでコインジャーナル誌が言っていたのは実はこの「与作とドン平」のことであると主張しているかのようにも見えます。


ウイングによる与作とドン平の広告。コインジャーナル1979年8月号に掲載。「イタズラカラスを撃て!!」とあるように、オーエムの与作とは異なるゲーム性のようだ。

さらにさらに。この1979年8月号には、「株式会社西日本販売」による、前述2機種とはまた異なる内容と思われる「与作」の広告も掲載されています。


第3の「与作」の広告。「コントロールレバーで与作が上下・左右と歩きます」とあり、オーエムの与作とは異なるゲームであることが伺われる。

この西日本販売が扱う「与作」については、コインジャーナル1979年10月号に続報があり、大、中、小9本の木を切るゲームであると説明されています。


西日本販売の与作の説明。どんなゲーム画面なのかわからない。

西日本販売の「与作」はどんなゲーム画面なのかがわかりませんが、ワタシはこのゲームを渋谷のセンター街で一度だけ遊んだ覚えがあります。しかし操作の方法がまるで分らず、インストラクションには「ボタンを押して木を切れ、コツは第六勘に頼れ」というような趣旨の事が書かれており、結局1回か2回、偶然斧をふるうことができただけで、まるでゲームになりませんでした。

もう一つ付け加えると、ウィキペディアによれば、新日本企画(後のSNK)も「与作」というタイトルのビデオゲームを出したことになっています。また、セガも「与作」をリリースした記録があるとも記述されていますが、ワタシはこれらを把握しておりません。いずれにしろ、業界がどれだけ「与作」の名に依存しようとしていたか、そして「与作」という歌がいかに日本国民に浸透していたかがうかがいしれます。

しかし、ビッグネーム「与作」に便乗したゲームは数々出たにもかかわらず、ヒットしたと言えるものはただの一つもありませんでした。結局、ポストインベーダーとして実際に業界に貢献したと言えるのは、これら複数の「ヨサクゲーム」が乱発されていたころと同時期に出てきたナムコの「ギャラクシアン」でした。まだビデオゲームプレイヤーの意識はそれほどマニアックではなかった時代だったはずですが、名前に騙されるプレイヤーは多くは無かったようです。

サンブルーノ・アメリカン・アンティーク・ミュージアムの記憶 3/3:2017年、再びSFOで邂逅する

2019年02月10日 21時40分04秒 | 歴史
(前回までのあらすじ)
2009年11月、ワタシはラスベガスに行く途中の乗り継ぎ地であるサンフランシスコ国際空港(SFO)で「サンブルーノ・アメリカン・アンティーク・ミュージアム」を知った。帰国後に調べたところ、それはSFOのすぐ近くにあることが分かったので、翌2010年9月、リノに行く途中のSFOでの乗り継ぎに敢えて8時間を取り、SFOから出る「Bart」と言う電車に乗って訪問した。サンブルーノ駅から徒歩五分ほどのところにあったそのミュージアムには、フェイのリバティ・ベル機を筆頭に、夥しい数のアンティークのスロットマシンがコレクションされていた。オーナーであった「ジョー・ウェルチ」氏は不動産業で成功した地元の名士だが、ワタシが訪問した翌年の2011年8月に逝去した。


(ここより本編)
我が家では、毎年のゴールデンウィークには女房と共にラスベガス(と、可能ならプラス別のもう一か所)に行くのが慣例となっています。しかし、女房も仕事持ちなのでスケジュールが合わないこともあり、そんな時はそれぞれで自分の都合に合わせた飛行機を手配し、米国内で合流したり解散したりすることもあります。

2017年は、ワタシが先に渡米し、女房は4日後に遅れてやってくるという段取りとなったので、ワタシは先行する4日間を、久しぶりにリノとカーソンシティで過ごすことにしました(関連記事:新・ラスベガス半生中継 2017 年GW 初日。 / 新・ラスベガス半生中継 2017 年GW 5日目(ラスベガスに移動する日))。

リノへ行くにはSFOで乗り継ぐのですが、この時、利用するユナイテッド航空の国内線ターミナルに続くコンコースには、2009年に見たジョー・ウェルチのコレクションがまたもや展示されていました。


(1)今回のテーマ「GAMES OF CHANCE」の看板。シガーストアに置かれたスロットマシンの前でポーズをとる男の写真は1905年に撮影されたもの。この時代のサンフランシスコのサルーンやシガーストアは、どこでも殆ど必ずスロットマシンがあった。 (2)今回の口上。書かれている文章は、8年前の展示での口上に新たな一文が加わったほかは殆ど同じ。 (3)コンコースの様子その1。 (4)コンコースの様子その2。その1の反対側から見たところ。

8年前の時は「For Amusement Only」だったテーマは、今回は「GAMES OF CHANCE」となっていました。これは、「偶然のゲーム」と訳され、ギャンブルゲームの本質を指す言葉とされており、スロットマシンはまさにその典型例のひとつです。この反対概念が「Game Of Skill (技量のゲーム)」で、そのどちらに属するかでそのゲームがギャンブルかどうかを判断する一つの基準とされています。(関連記事:フリッパー・ピンボールに関する重箱の隅 「フリッパー」と「Gottlieb」)。

今回の展示で掲げられている口上は、8年前の時のものと比較すると、若干の推敲がなされているものの同じ内容でした。ただ一点、「1919年のボルステッド法(The Volstead Act)によるギャンブル機の全国的な禁止は、1933年の禁酒法の廃止まで続いた」という一文が新たに加えられていました。スロットマシンを規制した法律としては、1951年に制定された、州を越えてギャンブル機を運ぶことを禁じた「ジョンソン法(The Johnson Act)」はよく聞くのですが、「ボルステッド法」は初めて聞く言葉です。また一つ、面倒な謎が増えてしまいました。

実際に展示されている機械は8年前にも見た機種も多く、初見と言えるものは殆どありませんでした。しかし、全ての展示品には説明文が付いており、これが貴重なので、結局全部を撮影しました。


今回撮影した写真のサムネイル。全部で162枚になった。

本来なら、展示品の写真も掲載しておきたいところですが、前述の「The Volstead Act」を検索したら、なんとSFOミュージアムの公式サイトがヒットしてしまい、こちらの方が写真がきれいで鮮明なので、これを以て代えておこうと思います→「GAMES OF CHANCE」のSFOミュージアム公式サイト


SFOミュージアムの公式サイトのスクリーンショット(部分)。出展機種全てではないが、プロが撮影した美麗な画像と、展示時そのままの説明文が掲載されている。

今回の展示では、SFOミュージアムを紹介するフリーペーパーまで作られていました。4つ折りになっている紙面を開くと、紙面の1/4ずつを使って、表紙と裏表紙、それに口上と代表的なスロットマシン4機種の画像が掲載されており、その裏面は全面を使って看板に採用されていた写真のハイライト部分が掲載されていました。


4つ折りのパンフレットを開いた片面。この画像の状態から中央で水平方向に山折りし、続いて中央で縦方向に谷折りすると、表紙、口上、展示機種の例、裏表紙となる。


4つ折りのパンフレットの裏面。全面を使って看板に使用されている写真のハイライト部分が掲載されている。

さすがに2回目であり、更に本家にも行っていたワタシは、今回は飛行機に乗り遅れることもなく、無事にリノに飛ぶことができました。その時の、リノ、カーソンシティ、ラスベガスでの顛末については前述の「新・ラスベガス半生中継 2017 年GW 初日。」から記しておりますのでよろしければご参照いただければ幸甚です。

(おわり)

サンブルーノ・アメリカン・アンティーク・ミュージアムの記憶 2/3:で、調べて、行ってみた。

2019年02月03日 17時03分35秒 | 歴史
(前回のあらすじ)
2009年11月、ラスベガスに向かう途中の乗り継ぎ地であるサンフランシスコ国際空港(SFO)のコンコースの展示で「サンブルーノ・アメリカン・アンティーク・ミュージアム」を知ったワタシは、いつかは行かなければと心に期しつつ展示物を写真に収めることに夢中になっていたら、ラスベガス行きの飛行機をうっかり乗り逃してしまいましたよてへぺろ。


(ここより本編)

帰国後に調べたところ、「サンブルーノ(Sun Bruno)」とは、SFOからは「バート(Bart)」と呼ばれる電車で僅か一駅で行ける町であることがわかりました。

さらに、「サンブルーノ・アメリカン・アンティーク・ミュージアム」の所在地も判明したのですが、Googleマップが指し示す場所をストリートビューで見てもそれらしいものは見当たりません。なんだかんだ調べを進めたところ、Googleマップが指し示す位置からサンブルーノ駅を中心として点対称のような位置に目的地を発見することが出来ました。当時は日本にGoogleマップが公開されて1年ちょっとの時期でしたが、バグなのか精度の問題なのか、たまにこのような問題があったように思います。

2010年9月。ワタシはマイル修行のコースの一つにネバダ州のリノを選びました。日本からリノに行くにはSFOを経由するので、乗り継ぎの合間に「サンブルーノ・アメリカン・アンティーク・ミュージアム」を訪れようと企んだのです。そのために乗り継ぎには8時間ほどの時間を取りました。

SFOで入国審査と荷物のリチェックを終え、そのまま国際線ターミナルにくっついているBartの乗り場に向かい、料金システムが複数あってわかりにくいBartのチケットを難儀しながらもなんとか買って、サンブルーノに到着した時は、まだ朝の10時半くらいだったように思います。事前にプリントアウトしておいたGoogleマップの地図(この頃はまだスマホなんて持っていなかった)に従って歩くと、5分ほどで現地に到着しました。

窓から中を覗き込むと、人がいるのかいないのかわからないような寂しげな雰囲気で、しかし古いスロットマシン類がたくさん見えます。恐る恐るドアを開けて中に入ると、正面にはトレード・スティミュレイターなど比較的小さなマシンが陳列されている低いショーケースが、奥のオフィスとを区切るカウンターのように設置してありました。また、左手には背の高いショーケースがあり、そこには比較的大型のアンティークのコインマシンが並べてありますが、それらの中にSFOで見た機械はあまり見受けられません。


(1)「サンブルーノ・アメリカン・アンティーク・ミュージアム」が入る建物。本来は、所有者であるジョー・ウェルチという人が経営する不動産会社の建物のようだ。 (2)ミュージアムの入り口。 (3)入って正面のオフィスの中。リアルタイムでは気づかなかったが、ガムボールのベンダーも多数コレクションしているようだ。 (4)オフィスに向かって右手の窓際にもスロットマシンが。

ワタシはそこで少しの間待っていたのですが、誰も出てくる気配がないので、勇気を奮い起こして「すみません、どなたかいらっしゃいますか」と声をかけました。すると奥の方から中年の男が出てきたので、「あの、おいどんは、こちらのアンティークミュージアムを見学にニッポンのジャパンから来たの事ある」と告げると、ワタシの背後にあった、施錠されているケージの鍵を開けながら、「ここに名前を記入して」と、レストランのウェイティングリストのようなスタンドに記名を求めてきました。男は「終わったら声をかけてくれ」と言ってまた奥へ引っ込んでしまい、ワタシは一人ぽつんと取り残されました。

こんなに不用心でいいのかと思いながら狭い階段を上りきると、さほど広くはない部屋には、まったく「ぎっしり」の形容が相応しいほどの大量のコインマシンが陳列されている様子が見えました。


(1)階段を登りきると、2体の「片腕の追いはぎ」に迎えられる。2体の間には、昨年SFOで見た展示の看板が置かれていた。 (2)2階は中央のショウケースを境として左右の通路となっている。これはそのうち階段から上がって左側の通路。 (3)こちらは右側の通路。奥に別室に繋がる入り口が見える。 (4)階段の上から階下を見たところ。一旦180度折り返す形になっている。


(1)~(4)2階の様子の一部分。意外と狭く、また窓からの外光のためうまく写真を撮影できるアングルが取りにくく、2階の全容を知れる画像を残すことが難しかった。


さらにはショウケースの上(1~2)だけでなく、棚までしつらえて展示(3~4)している。個人でこれだけコレクションするとは、きっと本業の不動産屋がよほど儲かっていたのだろう。

これらの展示の中には、おそらく戦時中に作られたモノと思われる機械もありました。ワタシはこれまでいくつものスロットマシンに関する文献に目を通してきましたが、激しい憎悪の言葉が描かれているこれらのような機械は一度も見たことがありませんでした。


戦時中に作られたと思しき機械。「Remember Pearl Harbor」、「Kill The Jap」、「Smack A Jap」、「Bomb Hitler」などの言葉が見られる。

無数の展示の中から敢えてこれをピックアップしておくのは、今となっては積極的に表に出されることの無いスロットマシンの歴史上の事実を押さえておくためです。日本だって「屠れ米英我らの敵だ」とか「鬼畜米英」などと言っていたのだからお互い様ですし、そんなことよりも、かつては不倶戴天の敵だった国でこうしてのんきに趣味の交流ができる平和のありがたさを感じます。

さらに奥の別室には、まるでこれから出荷されるのを待っているかのように、おびただしい数のフロアマシン(床上に設置される前提の機械)が置いてありました。


フロアマシンがぎっしりと並ぶ別室。

そしてこの部屋の四方の壁の頭上にも、相当数の小型のスロットマシン類が陳列されていました。


フロアマシンの部屋の四方の壁。そのラインナップは、19世紀末頃のレアな機械から、相対的にあまり価値が高くない(とは言っても買えば少なくとも100ドルや200ドルくらいはすると思われる)トレード・スティミュレイターまで幅広い。

そして、やはりと言うべきか当然と言うべきか、アンティークスロットのコレクターにとっては垂涎の、フェイのリバティ・ベルもありました。


アメリカン・アンティーク・ミュージアムが展示する、フェイのリバティ・ベル(1899)。

リバティ・ベル機と言えば、ワタシはそれまでフェイの孫であるマーシャル・フェイ氏が所有する1台と、ネバダ州カーソンシティのネバダ・ステート・ミュージアムに展示されている1台しか知りませんでした。しかし、ここに新たな3台目を発見することとなりました。

一つ余談。フェイのリバティ・ベル機は100台以上作られましたが、1906年のサンフランシスコ大地震でほとんどが失われ、現存するのは4台のみとされているそうです。2017年10月にオークションに出されたのはおそらくその4台目だと思うのですが、3万7千ドルからスタートした値段は53回のビッドを重ねて、結局22万5千ドルで売れています。

「サンブルーノ・アメリカン・アンティーク・ミュージアム」を開いた「ジョー・ウェルチ(Joseph Wilbur Welch Jr.)」氏は、ワタシがここを訪れた翌年、2011年の8月17日に81歳で逝去されました。地元では結構な名士であったようで、その死はマスコミで広く報道されていました。氏が亡くなった後も博物館は存続しているようですので、何かのタイミングでまた訪れてみたいものです。

(次回、3/3につづく)