オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

大阪レゲエ紀行:エレメカ研究所(大阪・北区中崎町)その4

2023年04月30日 21時56分34秒 | ロケーション

エレメカ研究所にはたくさんの見どころがありますが、白眉と言えば2台の「一銭パチンコ」だと思います。

エレメカ研究所の2台の「一銭パチンコ」。上は大学野球をテーマとしており、下は当時の女性の映画スターがハッタリ(入賞口の飾り)にフィーチャーされている。台枠は同じものを使っているように見える。

「一銭パチンコ」は昭和の初期に流行した遊技機で、1銭硬貨を投入して出てきた玉を弾き、ゲームの結果によっていくらかの1銭硬貨が払い出されるゲームでした。「パチンコ誕生博物館」の杉山一夫館長の著書「ものと人間の文化史186 パチンコ」(法政大学出版局刊)(関連記事:法政大学出版局「ものと人間の文化史 186 パチンコ」のご紹介)の87ページでは、「パチンコは一銭パチンコから始まっている」と、現代パチンコの直接の先祖としています。とは言え、やはり現代のパチンコとは相違点も多く、人類の進化の歴史に例えるなら、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人くらい違うように思います。

エレメカ研究所の二つの一銭パチンコを良く見比べると、どちらも同じ台枠が使われているようです。拙ブログにしばしばコメントをくださるtomさんによれば、どちらも同じ寸法だそうで、確かに台枠の上部には同じメーカーの銘板が取り付けられています。

「YOSHIMITSU SAFE WORKS」と書かれている銘板。上が大学野球、下が映画スターのもの。

これら2機種はゲーム性が異なります。大学野球の方は、欧米で既に存在していた「ウォールマシン」と呼ばれるゲーム機のうち、盤面を落ちて来る球をカップを操作してキャッチする「ピック・クィック」と呼ばれるゲーム性を踏襲しており、もう一つの映画スターの方は、やはり「ウォールマシン」のうち、どこに入っても勝ちとなる「オールウィン」のゲーム性を踏襲しています。これらは、パチンコがウォールマシンの流れを汲んでいることの証拠となる貴重な資料と言えましょう。

ピック・クイック。拙ブログにしばしばコメントをくれるCaitlynのブログより

大学野球の方は、最初のアクションでキャッチできなかった玉を、もう一度別のハンマーで弾いて入賞させるチャンスを与えています。

 

大学野球のセカンドチャンス。台枠左にある小さなレバー(①)を引くと、②のハンマーが左に引っ張られ、レバーを離すとハンマーが③の玉を打つ。打たれた球はレールの穴のどこから下に落ち、セカンドチャンスとなる。

一銭パチンコは戦前からあったものですが、太平洋戦争が始まった1941年以降の日本では民間から金属を供出させる「金属供出」が行われたため、軍需物資に姿を変えたパチンコ機や玉も多かったことでしょう。また娯楽産業自体が不要不急の産業として禁止されたこともあり、パチンコの歴史は一旦途絶えることとなりました。

しかし、それでもいくらかのパチンコ台は残ったようで、戦後間もなくから隠匿されていたパチンコ台が闇市や復興イベントなどで稼働していたようです。Caitlynのブログでは、終戦直後の日本を舞台とする黒澤明監督の映画「野良犬」に登場するパチンコ屋の画像を掲載しています。エレメカ研究所の2台もどうにかして戦禍を免れて残った貴重なものです。

Caitlynのブログより、映画「野良犬」の一場面女の背後に戦時中を生き残ったパチンコ機が見える。

エレメカ研究所の2台の盤面には、右上に「兵庫県 公安委員会」との名が入った「検査済証」が貼られています。日本に「公安委員会」が設置されたのは戦後のことで、つまりこの2台は戦後に改めて営業の許可を得たものであるようです。

盤面に貼付されている、兵庫県公安委員会の検査済証。

パチンコ誕生博物館の杉山一夫館長はこれについて、「戦前の台にこれが貼られているのは、私の知る限り、この2台だけである。この2台は公安委員会誕生を示す超貴重な資料である」とSNSで述べています。

本来ならば博物館に展示されていてもおかしくない日本の娯楽産業の歴史遺産が実際に遊べる状態で展示されていることは、奇跡的と言っても過言ではないと思います。「いつまでもあると思うな親とカネ」という格言がありますが、このような歴史遺産についても同じことが言えます。遊べる、見られるうちに、その幸運を存分に味わっておくことをお勧めします。


大阪レゲエ紀行:エレメカ研究所(大阪・北区中崎町)その3

2023年04月23日 20時18分21秒 | ロケーション

エレメカ研究所探訪記録の3回目は、ワタシが特に気になった2機種を採り上げておこうと思います。

コインパンチの筐体。

数年前に、ある方より大量のフライヤーの画像データを頂いた中に「サニック」(またはサニー東京)の名が入ったものがいくつかありました。そこには、ワタシが小中学生の頃に行楽地の食堂や旅館のゲームコーナーなどで見た覚えのあるゲーム機がいくつかあり、そのうちの一つがこの「コインパンチ」でした。ワタシはそれまで「サニック」の名を聞いたことが無く、以来ワタシにとって究明したい謎のメーカーとなりました。

しかし、「サニック」はおそらくは1973年頃に消滅したと思しき節があり、ワタシが持つ資料は殆どが1974年以降のもので、それらの中に「サニック」の名前は見当たりません。ネットを検索してもまるで関係のないノイズしかヒットせず、「サニック」の調査は難航しました。

それでも、オールドゲーム関連のコミュニティでシェアしていただける資料の中に、時々「サニック」や「サニー東京」の名が見つかることもあり、そんな時はまるで砂金を掘り当てたかのように嬉しかったものです。

「コインパンチ」は、過去記事「『三共』についての備忘録(4) 三共精機のAM機」の中で若干触れ、「いずれ機会を改めて述べたい」としていました。いい機会ですので、ついでに現時点でのワタシの「サニック」に関する認識を記録としておこうと思います。

【サニックに関する現時点での認識】
・創業時期は不明だが、遅くとも1960年代には存在している。
・もとは「サニー東京」と名乗っていたが、1970年に「サニック」に社名変更した。
・代表者は「多崎太々生」という人。
・新宿区西落合にあった。
・「'69遊戯機械名鑑」の巻末資料には「サニー東京」の記載あり。
・「'72コインマシン名鑑」と「'73コインマシン名鑑」の巻末資料には「サニック」の記載あり。
・「'74-'75遊戯機械名鑑」の巻末資料には記載なし。以降の名鑑も同じ。

「'74-'75遊戯機械名鑑」の発行日は1974年6月15日となっています。これらから類推するに、サニックは1974年か、早ければ1973年に消滅したものと思われます。

さて、その「コインパンチ」ですが、1973年かその前後1年に、ワタシは渋谷で現在も営業が続いているボウリング場が入るビルの1階にあったゲーセンで1度だけ遊んだことがあります。プレイフィールドでは裸婦が描かれた円盤が反時計回りに回転しており、インストラクションには「コインを美女の足に挟んでください。これが第一のチャンスです」と書いてあるのですが、その意味がまるで分かりませんでした。

「コインパンチ」のプレイフィールド。裸婦が描かれている円盤は反時計回りに回転している。

どうすると何が起きるのかが知りたくて、試しに右上のコイン投入口から入れた10円硬貨はたまたま回転盤の長い切れ込みに入り、回転に従って回転盤の3時半くらいの方向にあるポケットに運ばれました。次に筐体のボタンを押すと10円硬貨はポケットからはじき出されてプレイフィールド下方のパチンコ部分に落ちていき、「THIS LINE HIT!」と書かれたルートに入りました。出てきた景品はタバコの「ショートピース」で、その頃のワタシはタバコを吸う年齢ではなかったのでカウンターに持って行ったところ、ガムと交換してもらえました。これでこのゲームのことはすべて理解しましたが、なにもわからずデタラメに入れたコインで最善の結果を得られたのは大変ラッキーでした。

インストラクションが言う「第一のチャンス」の、成功時のコインの経路を示す図。しかしそもそもこれは「チャンス」なのか。

オリジナルのインストラクションには、「どうしても景品が取れない場合は白いボタンを押すとささやかなプレゼント」という趣旨のことが書いてあったと思うのですが、ワタシが遊んだ機械ではその部分が黒マジックで塗りつぶしてありました。

【アングラ―ゲーム(サニック、製造年不明)】

アングラーゲームの筐体とプレイフィールドの拡大図。

エレメカ研究所にはもう一つサニックの製品がありました。それがこのアングラーゲームです。ワタシはなぜか不覚にも、このゲームを遊ばずに帰ってしまったのですが、インストラクションを読むと、「コインパンチ」の回転盤に相当する部分がパチンコパネルに置き換わったものと言えそうです。

アングラーゲームのリリース年はわかりません。アンディ・ウォーホルのポップアートを想起させられるプレイフィールドのアートワークから、1960年代のものではないかと推察します。

プレイフィールドの右下には、展覧会で飾られている絵画で見られるようなサインがあります。そしてそのようなサインは「コインパンチ」にもあります。

プレイフィールドの右下に書かれているサイン。上が「アングラーゲーム」、下が「コインパンチ」のもの。

これら二つのサインの字体は若干異なっていますが、どちらも末尾の「i」と「y」は一体化させていて、「Design by T. tazakiy」と書かれているように見えます。そう言えばサニックの代表者の名前は「多崎太々生」でした。これらから、サニックの多崎さんは絵描きになりたかったか、少なくとも美術愛好家だったのではないかと推察されます。

アートワークとしては他に、プレイフィールドの左上付近に検印のようなものが見えます。

アングラーゲームのプレイフィールドに見える検印のようなもの。

「INSPECTED」とは「検査済み」の意味ですが、ラスベガスのギャンブルビジネスを管理するのは「ネバダ州」ですので、本物であれば「LAS VEGAS」ではなく「NEVADA」とあるはずです。その「LAS VEGAS」も、「LASVEGASS」と、ワンワードで記述されている上に、最後のSが1個余計です。さらに言えば、公的な機関であれば、「GAMBLING」とは言わず、「GAMING」と言うことでしょう。おそらくは、ポップアートとともに「豊かな国アメリカ」の雰囲気を出すための演出だったのだと思いますが、ともすると官名詐称を疑われかねません。それでも問題となったとの話は聞いたことが無いのは、誰もこんなところを気にしない、おおらかな時代だったということなのかもしれません。

(つづく)


大阪レゲエ紀行:エレメカ研究所(大阪・北区中崎町)その2

2023年04月16日 16時43分56秒 | ロケーション

前回の記事で、「メーカー不明、1980年頃」としていた「ロボット」(駄菓子屋ゲームその1の③)のメーカーと発売年は、「KアンドU商会 1979年」であることが判明したので、修正しておきました。この「KアンドU商会」の名は、かつては業界紙誌の広告でよく見かけていたし、AMショウへの出展実績もあるのに、業界団体名簿には名前が見当たらず(ワタシの目が節穴なだけかも)、良くわからない企業です。

************************** これより本文

エレメカ研究所探訪記録の2回目は、大型の機械を記録しておこうと思います。大型と言っても「駄菓子屋ゲーム機と比較すれば」程度の意味であって、今の感覚では必ずしも大型には見えないかもしれません。

【ジャンボ (セガ、1969以前)】

セガの「ジャンボ」。

空気で吹き上げられているボールを、象の鼻を上下左右に操作してとらえ、所定の位置に運ぶゲームです。上下と左右の2系統を別々に操作して目標の1点を目指すのは案外難しい作業で、ワタシは満足に得点できた記憶がありません。

セガはその後、「ジャンボ」の筐体を流用した「ダンボ(Dan-Bo)」をリリースしています。こちらは空気で吹き上げられているボールを、空中を旋回する象の高低を操作してとらえて所定の位置に運びます。ワタシはほんの数年前まで、「ジャンボ」と「ダンボ」の区別が極めて曖昧で混乱していました。

「ダンボ」の全体像。'74-'75遊戯機械年鑑より。操作系はジャンボと異なるが、筐体とアートワークが同じで、ワタシは長年混乱していた。

「ダンボ」がリリースされた時期はよくわかりません。72年5月にセガが発行した「プライスリスト」には記載されておらず、74年6月発行の「'74-'75遊戯機械年鑑」には記載されているところから、1973~1974年と推定されます。(202384/20追記 Caitlynより、「ダンボのリリース年は1973年と確認されている」とのコメントをいただきました。Thank you Caitlyn!)

 

【クレイジー15 (こまや、1965)】

こまやの「クレイジー15」。

おそらく国産初のフリッパー付きピンボール機である「クレイジー15」のゲーム内容については、過去記事「初期の国産フリッパー・ピンボール:「クレイジー15ゲーム」で述べていますので、ご参照いただければと思います。こまやの看板タイトルとも言える機種で、その後も何度かリメイクされていますが、エレメカ研究所の個体は最も古いバージョンのものです。

1ゲームは6ボールですが、ビンゴカードの縦横斜めいずれかで一直線に並んだ時点で直ちにゲームがリセットされ再ゲームとなることと、ゲームオーバー後もフリッパーの操作だけはできることが、今回改めて確認できた点でした。

オリジナルではプレイヤーへの褒賞はリプレイのみですが、エレメカ研究所は中央横の3-5-7が揃うと100円ゲーム用のメダルが払い出される改造が施されています。今回のワタシはリプレイは何度か獲得できましたが、メダルを獲得することはできませんでした。

【BASEBALL・2(こまや、1977)】

こまやの「BASEBALL・2」。

コントロールパネル左手の「ピッチ」ボタンを押すとプレイフィールドに描かれたダイヤモンドの中央が持ち上がってボールが出てくるので、右手の「バット」ボタンでこれを打ち、ボールが入った穴に書かれている結果で野球に準じたプレーを行います。米国では第二次大戦以前から同コンセプトのコインマシンが作られており、IPDB (Internet Pinball Data Base)は「バットゲーム(Bat Game)」と言うジャンルに分類しています。

ゲームマシン77年10月15日号は、こまやが同年10月に開催された「第15回アミューズメントマシンショウ」に「ベースボールII」を出展したと報じていますが、この記事には画像がありません。しかし、1978年3月発行の「'78遊戯機械総合年鑑」には「ベースボール2(BASEBALL 2」として写真付きで記載されているので、同一のものと判断して発売年を1977年としました。

実は同じショウでは「三共」(関連記事:三共についての備忘録(1) 三共以前の三共 他同シリーズ)がやはりバットゲームの「ホームランキングII」を出展しています。「II」が付かない「ホームランキング」はパチンコタイプの小型機で、なぜコンセプトの異なるゲーム機に名を継がせたのかは謎です。とまあ、以上はどうでもいいトリビア。

エレメカ研究所の「ベースボール2」は、老朽化によるものか、メカの動作が多少おぼつかない様子がありましたが、何とか遊ぶことはできました。

【ATTACK II (セガ、1971以前)】

セガの「ATTACK II」。

タイトルで「II」と名乗る通り、この機械には「ATTACK」と言う前作があります。さらに「II」の後には「Lunar Rescue」が作られていて、前二作では戦車を操作していたものが、三作目では「月面の救援車」を操作するようになっています(関連記事:(予定変更)70年代のセガのエレメカゲーム「ATTACK」とそのシリーズ)。

初代の「ATTACK」は一定の得点で記念メダルを払い出しましたが、「ATTACK II」では記念メダルの払い出しかまたはリプレイのどちらかに設定する仕様になっており、「Lunar Rescue」ではメダルの払出はなくリプレイのみとなっていました。ゲーセンが購入する景品の記念メダルは「1000枚15000円」で、当時の感覚としては結構高いものだったことと思います。

プレイフィールドの下にはX-Yプロッターのような機構が隠されており、プレイフィールド上の戦車はその交点にある磁石に引きつけられて移動します。これだけなら比較的単純そうなメカですが、戦車の向きを進行方向に向けるメカは少し難しそうに思えます(メカの専門家ならすぐに思いつくのかもしれませんが)。

ゲーム内容はどれも同じで、プレイフィールド上の戦車、または救援車をジョイスティックで操作して、三方の壁に埋め込まれているボタンのうち点灯しているものを砲身もしくは救援車の先端で突いて押し込めば得点を獲得します。しかし砲身はグニャグニャと曲がるようにできていて、ボタンを正しく押し込むためには真正面から垂直に突かなければなりません。時間制のゲームなので、焦って最短距離を取ろうとしたりすると適正に突くことができず、いたずらに時間を浪費するところがミソなゲームでした。この機械も動作に若干不安定なところはありましたが、曲がりなりにも遊べるだけで感涙ものです。

【ニンジャガン (関西精機、1978)】

関西精機の「ニンジャガン」。

関西精機と言えば、1955年の創業以来エレメカひとすじで日本のAM業界を牽引してきた功労の多い老舗です。1968年に発売したドライブゲーム「インディ500」は海外にも輸出されましたが、これは輸入やコピーなど海外製品に依存していた当時の日本の業界にとっては画期的とも言える出来事でした。

「ニンジャガン」は1978年10月に開催された「第16回アミューズメントマシンショウ」に出展されています。この頃はビデオゲームの人気が急激に上昇し、またテーブル筐体も増えてきていましたが、まだギリギリ、ゲーセンの主流はピンボール機を含むエレメカ機と言えました。しかし、すぐに「インベーダーブーム」が起き、あっという間に主流が入れ替わって行く時期でした。

「ニンジャガン」は移動するターゲットに多くのバリエーションがあるので、あちこち狙って忙しいプレイ感は、ビデオのガンゲームに近かったように思います。当たり判定が甘く、ずいぶんいい加減に狙ったつもりでも的中と判断されるので、楽しいです。

(つづく)


大阪レゲエ紀行:エレメカ研究所(大阪・北区中崎町)その1

2023年04月09日 20時42分20秒 | ロケーション

大阪は阿倍野区文の里に、60年代(もしくはもっと古い)のコインマシンが遊べる「エレメカ研究所」があることを知ったのは、今から3年ほど前のことでした。これはいずれ訪れなければと思いつつも、何しろ東京からではそう気軽に行けるものでもなく、もたもたしている間にコロナ禍による「ステイホーム」が始まって、ますます行くチャンスが遠のいてしまいました。

文の里での「エレメカ研究所」は入場料制で運営して「博物館」を謳い、風俗営業(風俗第5号営業=ゲーセン)の許可を取らずに営業していたのですが、警察はこれを認めず、そして当時の所在地は風俗店の営業許可が下りない地域であったため、閉鎖のやむなきに至ったのが昨年の初めころでした。
警察がどんな経緯でエレメカ研究所を把握し、どのように接触してきて、どんなやり取りがなされたかには興味が惹かれますが、何にせよ、無許可営業で引っ張られるまでには至らなかったのは不幸中の幸いでした。

文の里閉鎖後もオーナーは不屈の精神で北区中崎西に移転先を見つけ、苦労の末に風俗営業の許可も取って再オープンにこぎつけたのが昨年(2022年)の暮れでした。オーナーの頑張りには大きな賛辞を贈りたいと思います。

SNSで再開を知ったワタシは、3年前のように逡巡ばかりしていては結局行かずに終わってしまうと一念発起して、遂に先月念願の訪問を果たしてまいりましたので、今回から何回かに分けてその時の記録を残しておこうと思います。

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新大阪に到着したのが午前11時半頃。最寄り駅は谷町線中崎町とあったので梅田駅で乗り換えるルートを考えていたところ、SNSで「新大阪からなら、梅田駅の手前の中津駅から徒歩だと乗換えもなく早い」とアドバイスくださる方がいたので、それに従って現地に到着したのが12時15分頃でした。

エレメカ研究所の入り口。開店間もない時間だが、早くも中に数人の姿が見える。

店頭には場内での遊び方や看板、それにオバQのキディライドと、かつてキディライドのトップだったと思しきパンダの置物があります。

店頭の様子4枚。①場内での遊び方の説明と、手指消毒用アルコール。コロナ禍はまだ収まっていないのだ。 ②文の里時代から看板となっているオバQのキディライド。 ③エレメカ研究所の看板。 ④かつてキディライドの乗用部分だったと思しき部分。中村製作所(後のナムコ)が1973年にリリースした「ささぶねパンダ」と似る部分があるが形が異なる。謎。

オバQのキディライドは、文の里の頃からエレメカ研究所の看板として店頭に設置されていました。体重70㎏まで利用可能とのことです。キディライドの乗用部分と思しき部分は地面に固定されておらず、ワタシが滞在中に女子が一人、乗ろうとしてバランスを崩していました。もしかすると危険かもしれないので、固定するなり「乗らないでください」の注意書きを添えるなりした方が良いのではないかと思いました。

入り口の掲示にある通り、エレメカ研究所では硬貨(現金)とメダルを併用した運営が行われています。メダルは10円ゲーム用と100円ゲーム用の2種類があり、10円ゲーム用のメダルはメダル貸出機がありますが、100円ゲーム用のメダルは遊戯料金が100円のゲームのプライズとして払い出される以外には入手できません。

機械によっては硬貨とメダル共通の投入口を持つものもありますが、殆どの機械は現金の投入口の他にメダルの投入口を取り付ける改造が施してあります。今回は設置されている機種の中から、シングルロケ向けの、いわゆる「駄菓子屋ゲーム」と呼ばれるタイプを主としてまとめておきます。

店頭には表通りに向けて4機種が設置されていました。

店頭を飾る4機種。①タッチ! アクション(こまや 1980-81?) ②カエルのうた(こまや 1990) ③山のぼりゲーム(こまや 1981) ④ロボリング(阪急工芸 1972)

過去記事「初期の国産フリッパー・ピンボール機:こまや製作所製の2機種」でも述べましたが、こまやは安易な模倣に走ることなく、創意工夫に溢れた味のある機械を数多く作ったと思います。

店内はゲーム機の配置によって二つの通路が作られています。

入り口から見て左と右それぞれの通路。左の通路の壁側には接客カウンター、右の通路の壁沿いには比較的大型の機械が並ぶ。

駄菓子屋ゲームその1。①キャッチボール(メーカー不明、1998*) ②名称不明(メーカー、製造年不明) ③ロボット(KアンドU商会、1979) ④パイパイ45(メーカー、製造年不明) (*は、斯界では有名な「駄菓子屋ゲーム博物館」のウェブサイトによる情報)(③ロボットのメーカーと発売年が判明につき修正・23/4/10)

駄菓子屋ゲームその2。①森のゆうびんやさん(メーカー、製造年不明)  ②キセノン(サミー工業、1983-84) ③スーパーカーズ(メーカー、製造年不明)  ④スーパーカーズ(メーカー、製造年不明)

駄菓子屋ゲームその3。①日米対抗試合 (トークエレクトロニクス、製造年不明) ②W・ATTACK (メーカー、製造年不明)  ③Super Flight (三共、製造年不明) ④アイスホッケー (メーカー、製造年不明)

「駄菓子屋ゲーム」は、業界紙誌で紹介されたり広告が掲載される例が少なく、またワタシ自身も駄菓子屋ゲームにはあまり馴染んでこなかったため記憶に残る機械は数えるほどしかありません。そのためメーカー名や製造年どころか本来の名称すら不明のものさえあります(上記画像「駄菓子屋ゲームその2」の③と④などはその好例)。もし、上記画像に見える機械のうちメーカーや製造年をご存じの方がいらっしゃいましたら、コメント欄などでぜひともご教示いただけますようお願い申し上げます。

(つづく)


「三共」についての備忘録(7) 三共に関するエピソードあれこれ(後半)

2023年04月02日 17時57分50秒 | メーカー・関連企業

前回は三共と直接・間接に関係があった他社の名前がいくつも出てきて複雑になってしまいました。今回はこれら他社について、前回では言及しきれなかった補足を含んで情報を整理しておこうと思います。

・日本遊園設備:
'69遊戯機械名鑑」巻末の「各社の沿革と営業品目」によれば、創業は昭和30年(1955)4月。その後「アメリカ精機」を経て昭和39年(1964)3月に「日本遊園設備」となり、昭和40年(1965)11月に東京都昭島市に本社と工場を建設したとのことです。

事情通から伺ったお話でも日本遊園設備は昭島市にあったとしており、その点は符合します。しかし、ワタシの手元にあるフライヤー資料に記載されている所在地は「武蔵野市」とするものが7点、「中央区銀座東」とするものが2点あるのみで、「昭島市」とするものは1点もありません。おそらく本社の移転があったものと思われますが、そうだとしても腑に落ちない点が多く、謎です。

伺ったお話では、「日本遊園設備が解散した時」に、一派が児童遊園設備を設立し、別の一派がホープ自動車のAM事業立ち上げに加わったとしているのですが、それぞれからAM機器がリリースされた後も日本遊園設備の活動は続いており、食い違いがあるように思われます。

児童遊園設備及びホープ自動車の機器を掲載する'69遊戯機械名鑑に掲載された日本遊園設備の広告。「アポロ77」は渋谷の東急百貨店東横店の屋上で遊んでおり、秒読みの後轟音と共に打ち出されたボールがらせん状のレールを猛烈な勢いで遡っていく様子には痺れた。

・児童遊園設備:
児童遊園設備の名は、「'69遊戯機械名鑑」巻末の「各社の沿革と営業品目」に記載がありますが、沿革が延べられておらず、具体的な設立年は不明です。

児童遊園設備は、三共遊園設備(注・元情報では「三共精機」としているが、時期的には「三共遊園設備」のはず)とは協力関係にあったそうで、児童遊園設備が製造した「チューハンター」で使用したねずみの模型は三共遊園設備(前注に同じ)から購入したとのことです。

児童遊園設備は1968年に「王将」を売り出し、1970年10月に開催された第9回AMショウではプライズ機「タイガークレーン」を出展していますが、その後の動向を知る資料がなく、消滅した時期も不明です。

ワタシの手元にある児童遊園設備の資料としては最も新しい「タイガークレーン」(1970)のフライヤー。

・三鷹遊機:
事情通からのお話では、三鷹市新川にあった三鷹遊機は、児童遊園設備の下請け業者で、「王将」を組み立てていたそうです。王将のフライヤーに写る筐体は、売れなかった「爆撃」の筐体を流用したものだそうです。製品版の筐体のアートワークはパートのおばさんがマスキングテープを貼ってストライプを塗装していたので、その時々によってストライプ幅が違ったそうです。

児童遊園設備の「爆撃」のフライヤー。王将のフライヤーに使われた筐体はこれを流用していたとのことで、比べてみれば確かに同じものに見える。

現在、「三鷹遊機」のキーワードで検索をかけると、「三鷹遊機製作所」という事業所がヒットするのですが、その所在地は移転したのか、区画変更があったのか、それとも全く別の会社なのか、三鷹市新川ではなく三鷹市中原となっています。Googleのストリートビューでこの所在地を見ると、レンタルスペースと斎場が示され、AM機を作っていそうな施設は見当たりません。

・関東電気工業:

事情通のお話の中では全く言及されていませんが、三共遊園設備(または三共精機)および児童遊園設備とはなんらかの繋がりがあったと思われるメーカーです。

「'74-'75遊戯機械年鑑」巻末の「関連業者名簿」によれば、関東電気工業の設立は昭和33年(1958年)10月と古いのに、1972年に製造販売したフリッパー・ピンボール機「ターキーボール」(関連記事:初期の国産フリッパー・ピンボール機:ターキーボール(関東電気工業、1972))以前は全くどこにも名前が見つかりません。「ターキーボール」の広告の中で、関東電気工業のその他の製造品目として以下を挙げられています。

・闘牛A型(牛の鳴き声付)
・闘牛B型
・チューハンター
・レッドフォックス
・アイスホッケー
・王将(新型)
・その他ゲーム機使用変圧器各種

この中に「チューハンター」が含まれ、また「王将」に「新型」と付け加えている意味を考えると、児童遊園設備は1972年までには消滅しており、関東電気工業は児童遊園設備の知的財産を引き継いだと推理できそうです。

また、「レッドフォックス」は三共精機の製品として「'72コインマシン名鑑」に記載されており、この関係から、三共精機が1976年にリリースした二つのフリッパー機にも関わっている可能性を感じるのですが、現在のところその証拠となる資料は見つかっていません。

関東電気工業が自社名で売り出している製品は、「ターキーボール」以外では1974年(1973年かも?)にリリースした「早撃マック」しか確認できていないのですが、他にもあったのでしょうか。

早撃マックのフライヤー。ここにはメーカー名が記載されていないが、「'74-'75遊戯機械名鑑」には関東電気工業の製品として広告と共に記載されている。

・ホープ自動車:
自動車メーカーからAM機器事業に転向した企業です。自動車メーカー時代にヒットした軽自動車「ホープスター」は、後にスズキの「ジムニー」の原型となりました。1974年には社名を「ホープ」に変え、ナムコが販売していた「ワニワニパニック」の製造などAM業界の第一線で活躍しましたが、残念ながら2017年に破産、消滅しました。

事情通のお話では、ホープ自動車がAM部門を立ち上げる際に日本遊園設備の一派が加わった(具体的な時期は言及無し)とのことですが、ホープ自動車がAM事業に転向したのはまだ日本遊園設備が健在だった60年代前半から中ごろ(諸説あり)で、食い違いがあります。

今回伺ったお話の中には、ホープ自動車と児童遊園設備の関係がうかがわれるものもありました。

●バズーカは児童遊園の製造スタッフがホープ自動車に行って組み立てた。
(元情報では「児童遊園」は「ジドウユーエン」とカタカナで表記)

「バズーカ」がどんなものかはわかりませんが、ひょっとして軟式野球のボールを圧縮空気で発射して的に当てるアトラクションのことでしょうか。そのような娯楽設備は60年代から遊園地などにありましたが、ホープ自動車の製品としてそういうものがあったかどうかはわかりません。

もしくは、「レッツゴー・バズーカ」のことであれば、「'69遊戯機械名鑑」に掲載されているホープ自動車の広告に、「新発売」と謳って記載されています。この名鑑の具体的な刊行時期は不明なため、レッツゴー・バズーカの正確なリリース年はわかりませんが、1968年か、もしくは1969年のいずれかではありましょう。

「'69遊戯機械名鑑」に掲載されているホープ自動車の広告より、「新発売」と謳うレッツゴー・バズーカの部分の切り取り。「レッゴー」は単なる脱字だと思われる。

どちらであったにしても、児童遊園設備とホープ自動車には日本遊園設備と言う共通項があるので、昔のよしみで協力関係を結ぶことはあってもおかしくないと思います。

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三共とその周辺のメーカーに関して事情通の方から伺ったお話は以上です。
日本のAM機メーカーが世界のAM業界から注目を集めるようになるのは、78年のインベーダーブーム以降のことです。今回のシリーズでは、そこに至るまでに発生し、そしていつの間にか消えて行った数多くのメーカーのうちの一部に触れることになりましたが、まるで進化論の適者生存の流れを見ているようで大変興味深いものでした。

最後に、事情通の方とはまた別の方からSNSを通じていただいた、三共(遊園設備か精機かは不明)のプライズ機「メリークレーン」の画像をご紹介して、本シリーズを終わろうと思います。

三共のプライズ機「メリークレーン」。マーキーの左下には三共遊園設備の頃より一貫して使用しているシンボルマークがはっきりと描かれている。

この筐体のマーキーに描かれている女児は、過去記事「「三共」についての備忘録(4) 三共精機のAM機」でご紹介した「アクロバット」に描かれている女児と同じモチーフであるように見えます。

三共は他にも、パンチングボールの「ボクシング」とエレメカ機の「ミニボクシング」で同じボクサー像を使い回したという例があります。

左が「ボクシング」、右が「ミニボクシング」。どちらが先に作られたかは不明。なぜかワタシは、このボクサー像のモデルは、日本人初の世界王者となった白井義男さんだと根拠なく信じ込んでいる。

こちらは同じボクシングテーマですので流用も理解できます。しかし、メリークレーンとアクロバットにはそのような共通項は見られず、作られた順番としては「メリークレーン」の方が先だと思われるのですが、なぜ大幅に加筆までして使い回したのかは、きっと永遠に明らかにはならない謎であろうことが残念です。

(このシリーズ・終わり)