オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

初期の国産メダルゲーム機(6) ユニバーサル その2a

2018年04月27日 00時03分36秒 | 初期の国産メダルゲーム機
ワタシの手元に、ユニバーサルの会社案内1982年版と1984年版があります。これらには、それまでにユニバーサルが世に出した製品のリストが掲載されています。


ユニバーサルの会社案内1982年版に掲載されている、かつて発売した製品のリスト(部分)。「昭和45年」=1970年、「昭和48年」=1973年、「昭和49年」=1974年。

ワタシは、過去記事「初の国産メダルゲーム機の記憶」以来、拙サイトにおいては「初の国産メダル機は1974年にセガが発売したファロ」と主張してきましたが、このリストを信じるならば、「ゴールドパンサー」が1973年に発売されたとあります。また、1974年にも少なくとも3種のメダルゲーム機を発売したとしており、ワタシのこれまでの主張が事実なのかという疑念が生まれてきてしまいました。

しかし、ユニバーサルが74年に発売したとしている3機種は、業界誌「アミューズメント産業」を見る限りでは、いずれも1975年または1976年にその広告が掲載されています。掲載時期と販売開始時期は必ずしも一致しているとは限らないし、またワタシは当時の業界誌紙の全てを参照できているわけではないのでそれ以前から広告が掲載されていた可能性もありますが、それでも、遅くとも1974年3月号に広告が掲載されたセガのファロよりも早いということはないという確信に近い記憶があります。

ただ、「ゴールドパンサー」には引っ掛かります。ネット上を検索すると該当する画像が一つだけあり、それは一見したところ、「ウィンターブック」(関連記事:初期の国産メダルゲーム機(4) 競馬ゲームその2・1975年の競馬ゲーム)の類似機種で、「ダービーゲーム」と言われていたGマシン(関連記事:初期の国産メダルゲーム機(3) 競馬ゲームその1・ハーネスレース(セガ, 1974))のバリエーションのようにも見えます。そして、ワタシもこの盤面には見覚えがありますが、しかしそれはメダル機ではなくプライズ機であったように記憶しています。「ゴールドパンサー」については今後の宿題として、近いうちに国会図書館で過去の業界誌をひっくり返して調べてみようと思います

なお、上図における昭和49年(1974年)の「ステークス・レース」と「ダブル・オア・ナッシング」も、その名前からメダルゲームと思われますが、このゲーム機は私の記憶にありません。どなたかご存知の方がいらっしゃいましたらご教示いただければありがたく存じます。それと、昭和51年(1976年)の「ミニ・ルーレット」と昭和52年(1977年)の「スーパーマシン」は、コナミの「ピカデリーサーカス」(関連記事:【小ネタ】一人用メダルゲーム「ピカデリーサーカス」とセガのファロ)の類似機種です。

今回も前置きが長くなってしまいましたが、これよりユニバーサルの会社案内が1974年と1975年に発売したと言っている機種について覚えていることを記録していこうと思います。

◆ニューウィンターブック(New Winter Book, 1975)
前掲の会社案内では昭和49年(1974年)の発売となっていますが、業界誌「アミューズメント産業」での広告の掲載は1975年3月号となっています。3月号ということは発売自体は2月であり、原稿の入稿時期も考慮すると、1974年に発売された可能性は否定できませんが、例えそうであったとしても、1年前の1974年3月号に同誌に広告が掲載されたセガの「ファロ」より早いということはないと思われます。ワタシがこれを初めてにして唯一見たのは、1975年の5月、オープン直後のダイエー碑文谷店のゲームコーナー(関連記事:さよならダイエー碑文谷店)でした。


業界誌「アミューズメント産業」1975年3月号に掲載されたニューウィンターブックの広告。

内容については、過去記事で前述の「初期の国産メダルゲーム機(4) 競馬ゲームその2・1975年の競馬ゲーム」で触れていますので省略します。

◆ニューケンタッキーダービー(New Kentucky Derby, 1975)
この機種も、会社案内では昭和49年(1974年)の発売となっていますが、「アミューズメント産業」誌での広告の掲載は、前述の「ニューウィンターブック」と同じ1975年3月号となっています。そして、ワタシがこれを都立大学駅近くのゲームセンター「キャメル」(関連記事:柿の木坂トーヨーボール & キャメル)で見たのは、1975年以降のことでした。


ニューケンタッキーダービー。業界誌「アミューズメント産業」1975年3月号(前述ウィンターブックの広告が掲載された同じ号)に掲載された広告。

これも前述の過去記事「初期の国産メダルゲーム機(4) 競馬ゲームその2・1975年の競馬ゲーム」で触れていますので、内容は省略します。

◆スーパースター(Super Star, 1975)
この機種も、前述2機種と同じく、会社案内ではやはり昭和49年(1974年)の発売とされていますが、アミューズメント産業誌の1975年12月号には、同年の秋に開催されたAMショウの出展機種紹介記事にて紹介されており、さらに、翌年の1976年3月号には広告が掲載されています。また、ワタシがこの機械を都立大学駅近くにあった「トーヨーボール」(関連記事:柿の木坂トーヨーボール & キャメル)に入荷したところを見たのは、間違いなく早くとも1975年以降です。




業界誌「アミューズメント産業」1976年3月号に掲載されたスーパースターの広告(上)と、筐体部分の拡大(下)。

遊び方は、3列のフルーツシンボルのランプが、左から右へと一つずつ順次点灯(右端に達したら左端に戻って以下繰り返し)していき、最終的にどのフルーツシンボルが点灯して停止するかを当てるゲームです。

ワタシはこのゲームのルールをあまり覚えておりませんでしたが、広告の文面を読んでなんとか思い出したところでは、一つのシンボルにつきメダルを3枚までベットできたように思います。例えばチェリーシンボルに1枚ベットすると、最上段の列のチェリーのみが当たりとなりますが、中段と下段はゲームに関係しません。さらにチェリーに2枚目のメダルをベットすると、上段と中段のチェリーが当たりとなりますが、最下段は関係しません。続けて、一つのシンボルのマックスベットである3枚目をチェリーにベットすることで、全ての段のチェリーが当たりとなる、というルールだったような気がします。シンボルは全部で6種あり、それぞれについて同様の要領でベットします。

スロットマシンのマルチペイラインタイプも、ベットするたびに有効となるペイラインが増えるので、それと同じようなものとも言えますが、スロットマシンはとにかく何でもいいから当たりの目が出れば良いのに対し、「スーパースター」では、出現率が異なるシンボルの中から当たりとなる目を自分で選ばなければならず、しかもメダル1枚で遊ぶ限りでは大当たりが望めないということからも、ワタシはこのゲームを面白いと思えず、遊んだ記憶がありません。ひょっとすると、全てのシンボルにマックスベットすればそれなりに面白くなったのかもしれませんが、当時のワタシはメダル1枚を惜しみながらベットするようなプレイヤーだったので、そんな度胸はありませんでした。

一度も遊んだことがないと言いましたが、しかしゲームサウンドだけは強く印象に残っています。スーパースターにはおそらくリズムボックスが内蔵されており、ベット受付中とゲーム進行中では異なるリズムが刻まれていました。そしてこの機械は、客の有無に関わらず自動的にゲームが進行するので、近くにいれば嫌でもそのリズム音を繰り返し聞かされます。まだリズムボックスというものの存在を知らなかった当時のワタシは、その高音質の心地よいリズムに驚いたものでした。

なお、筐体上部のビルボード部分にもフルーツシンボルが円形に並んだランプが3つあります。これは、一つのシンボルにマックスベットして、そのシンボルがすべての段で点灯した場合に与えられる大当たりのフィーチャーに関するものだったような気がするのですが、定かな記憶ではありません。もしかしたら、単なる結果表示である疑いも(ほとんどナンセンスではありますが)感じます。

ユニバーサルの初期のメダルゲームについては、もう少し言及しておきたいものがあるのですが、今回は前置きが長かったため、残りは次回とさせていただきます。

(つづく)

初期の国産メダルゲーム機(5) ユニバーサル その1・沿革

2018年04月22日 17時30分04秒 | 初期の国産メダルゲーム機

ユニバーサルは、タイトーと並び、日本にメダルゲームという市場が誕生した早い時期からメダルゲーム機の開発を始めていました。この二社は、セガによって国産初のメダルゲーム機が発売された1974年の翌年から、オリジナルのメダルゲームの発売を始めています。今回は、そのうちのひとつであるユニバーサルについて記録するつもりだったのですが、本題に入る前に一つ、気になる案件を片付けておきたいと思います。

ユニバーサル」は、支配体制が変わったというわけでもなさそうなのに、これまでに何度か社名を変更しています。特に若い人には「アルゼ」と呼んだ方が通りが良いかもしれません。そのアルゼは、現在は「ユニバーサル・エンターテインメント」に社名変更されていますが、ラスベガスで行われるGlobal Gaming Expo(G2E)では未だに「アルゼ」のブランドで出展しており、何がどうなっているのかよくわかりません。


G2Eショウ2017におけるアルゼのブース。でかでかと「ARUZE」と掲げられている。

というわけでワタシは大きく混乱をきたしているので、この機会に整理しておこうと思いたって、現在の「ユニバーサルエンターテインメント株式会社」のウェブサイトから沿革を調べてみました。

◆ユニバーサルの沿革
 (ユニバーサルエンターテインメント公式ウェブサイトより抜粋のうえ要約)
1969年12月 ユニバーサルリース株式会社設立。ジュークボックスのリースを行う
1970年10月 遊技機の製造を開始
1971年10月 社名を「株式会社ユニバーサル」に変更
1973年06月 販売部門を「ユニバーサル技研株式会社として分離独立
1975年05月 「ユニバーサル技研」を「ユニバーサル販売株式会社」に社名を変更
         栃木県小山市に工場建設、各種ゲームマシンの製造を開始
1979年12月 開発部門が分離独立(→ユニバーサルテクノス株式会社)
1980年03月 パチスロの開発に進出
1988年04月 鳥取県に工場を取得しAM機の生産を開始
1993年04月 株式会社ユニバーサルユニバーサル販売株式会社が合併
1998年04月 ユニバーサルテクノス株式会社とユニバーサル販売株式会社を合併して
アルゼ株式会社」に社名変更(←1993年の合併後の社名は「ユニバーサル販売」だった?)
2000年10月 ARUZE USAの株式取得
2004年06月 2年間の期限付きでネバダ州のゲーミング機器メーカーライセンス取得
2005年03月 ネバダ州よりWynn Resortsの株主として適格と承認される
2006年07月 ネバダ州のメーカーライセンスが無期限となる
2009年11月 「株式会社ユニバーサルエンターテインメント」に社名変更


ユニバーサルの社名の変遷図。おそらくはここに出ていない関連会社も(特に海外で)あるのではないかと思う。

G2Eに出展しているアルゼは、正しくは「Aruze Gaming America」社というようなのですが、この沿革にはその記述がありません。わずかに、「ARUZE USAの株式取得」とあるだけです。しかしながら、実態はユニバーサルの関連会社であることは間違いないので、とにかく、拙ブログにおいては、「ユニバーサル」と言った場合は、特に注意が無い限り、アルゼも過去の社名も、あるいは関連会社も全部ひっくるめた名称ということにいたします。

これもやはり沿革には書かれていませんが、ユニバーサルは1980年代からカジノ向けスロットマシンを開発しており、この時に、ユニバーサルのGary HarrisとRandy Adamsという二人の米国人技術者によってリールマシンに「ステッパーモーター」が導入されました。これは、1964年にバーリーがリールマシンに起こした革命(関連記事:米国「Bally(バーリー)」社に関する思い付き話(2))以来のスロットマシンの大革命となりました。このころのユニバーサルのスロットマシンは、もしかすると今でもラスベガスのダウンタウンにある「エル・コルテス」というカジノに設置されているかもしれません。しかし、当時のユニバーサルは、ある件で業界を揺るがす大事件を起こしてしまい、その後業界を追われていたようなのです。現在、ラスベガスのG2Eショウに、「ユニバーサル」ではなく「Aruze Gaming America」として出展しているのは、ひょっとして「ユニバーサル」の名前では出てきにくくなっているからかも、などと勝手に想像しています。

いい加減長くなってきてしまいました。今回は前置きとしてここまでにして、次回、いよいよ本題に移りたいと思います。と言ってもそれほど多くの事が語れるわけではないんですけれども。

(つづく)


ヘンなゲーム機「GRAND PRIX FOUR」(SEGA, 1977-8?)の記憶(2)

2018年04月15日 20時04分51秒 | ピンボール・メカ
メダルゲームとしても、通常のAMゲームとしても運用できると謳う「グランプリ・フォー」のフライヤーには、メダルゲームで遊ぶときのルールが述べられています。


フライヤーより、ゲーム料金とオッズ表の部分。

グランプリ・フォーでは、メダルを4枚から2枚おきに最大16枚までベットできますが、ミニマムベットではメダルの払い出しがない、単なるAMゲームとして遊ぶだけになります。メダル10枚の貸出料金が200円だったこの時代に、メダル1枚で遊べるようにはできなかったという事情は理解できます。それにしても、このオッズ構成は変です。ベット数が低いうちは、例え配当が得られるだけのゲーム結果を出しても、ベットしたメダル数よりも必ず少ないメダルしかもらえません。メダルが増える配当を得るためには最低でも10枚のメダルをベットする必要があります。

おそらく、「グランプリ・フォー」は、「スロットレーシングでメダルゲームを作ったらイケるんじゃね?」という単純な発想から開発が始まったのだと思います。しかし、その時点では、スキルゲームと払い出しのあるゲームとは相性が悪いということがまだよく理解されておらず、また、ゲーム料金の設定と機械の売値の関係もそれほど深く考えられてはいなかったのではないでしょうか。

いざ開発が進んでこれらの矛盾点が明らかとなるにつれ、さまざまな議論が重ねられたことは想像に難くありません。しかし、もともと無理のあるコンセプトだったために迷走し、最終的には「メダルゲーム&AMゲーム両用」という、腰の定まらない機械となってしまったのではないかと思います。

結果的に、「グランプリ・フォー」が日の目を見ることはありませんでした。ワタシは30年ほど前に、この「グランプリ・フォー」の開発に携わったという方から少しだけお話を伺ったことがあります。その方は、ワタシが「メダルゲームが好きだ」と言うのを聞いて、「俺も昔(その時点で10年くらい前のことになる)メダルゲーム作ってたけど、お蔵入りになっちゃってさ。『グランプリ・フォー』っていうんだけど」とおっしゃっていました。せっかく作ったのに発売できなかった機械というものは世の中にいくらもあることとは思いますが、「グランプリ・フォー」の場合は、コンセプトの揺れから、メダルゲーム機としては魅力の薄い、しかしAMゲーム機としては(当時の常識としては)異例なほどに大きくまた値段の高い機械となってしまったのだと思われます。今さらそれを批判しても仕方がないことですが、失敗作が生まれる一つのケースとして、含む教訓は多い機械であるように思います。


「グランプリ・フォー」の「救援車」(真ん中のコースにある赤い車)。スピードの出し過ぎでスロットから外れて操作が不能になった場合は、コールボタンを押してこの救援車を呼び、近づいてきたら「アームオープンボタン」を押してコースに戻してもらうという操作を要する。実際にどのような動作を行ったのかは知る由もないが、別のプレイヤーが同じようなタイミングでコースアウトした場合の動作を考えると、ゲームシステム的に問題が大きそうに思う。


コースの途中にある踏切。汽車がコース上を通過するときは遮断機が下り、プレイヤーの車がこれにぶつかると、それまでの周回数がリセットされてしまうとのこと。

最後に、ちょっとだけ余談。グランプリ・フォーでは、メダルだけでなく100円硬貨が併用できるとも言っていますが、現在は、メダルと現金が併用できるメダルゲーム機は、業界団体の自主規制によって禁じられています。とは言え、子供用のメダルゲーム機であれば、10円硬貨を併用することは許容されています。また、子供用ではないのに一見メダルと現金が併用できているかのように見えるメダルゲーム機も増えていますが、それらは、「メダル貸出機を備えたメダルゲーム機」という理屈でこの規制をすり抜けています。

(おわり)

ヘンなゲーム機「GRAND PRIX FOUR」(SEGA, 1977-8?)の記憶(1)

2018年04月08日 16時21分36秒 | ピンボール・メカ
ここしばらく初期の国産メダルゲームの話が続いております。まだもう一つ二つ、このシリーズで記録しておきたいことはありますが、今回はちょっと一息入れるつもりで、「初期の国産メダルゲーム機(3) 競馬ゲームその1・ハーネスレース(セガ, 1974)」のコメント欄でkt2さんからリクエストをいただいた「グランプリ・フォー」について記録しておこうと思います。




グランプリ・フォーのフライヤー。A3二つ折りの表紙側(上)と中側(下)。

「グランプリ・フォー」(GRAND PRIX FOUR)は、 セガが1977年頃に発表したアーケードゲーム機で、「スロットカー」をコインオペレーションにしたものです。スロットカーとは、コースに設けられた電路から電気の供給を受け、コース上の溝(スロット)に沿って模型の車を走らせるおもちゃです。プレイヤーはコントローラーを操作して電路の電圧を変えることで、模型自動車がスロットを外れてしまわないようにスピードを調整して遊びます。


グランプリ・フォーのフライヤーより、スロットカーのプレイフィールド部分。

ウィキペディアによれば、スロットカーはイギリスで鉄道模型から派生して作られたもので、日本へはアメリカを通じて1963年に入って来たとのことです。日本では1960年代の半ばころにはブームとなり、「スロットレーシング場」なるものがいくつもできたそうで、当時のエピソードはワタシが好きな漫画の一つである「こちら葛飾区亀有公園前派出所」でも一度取り上げられたことがありました。

セガは、このスロットカーをコインマシンにしました。これだけならなんとなくやってできないことは無いような気はします。しかし、セガはこれを、単なる再ゲーム機能付きのメカゲームにするだけでなく、メダルゲームとして運用することもできるようにしてしまいました。それが「グランプリ・フォー」でした。




フライヤーより、メダルゲームで運営する時のコントロールパネル(上)と、AMゲームとして運営する時のコントロールパネル(下)の部分。

しかし、フライヤーのコントロールパネルの図を見ると、メダルゲーム用とAMゲーム用とでは仕様が異なるようで、ロケーションに設置する際には始めにどちらの用途として設置するかを決めておくことを前提としているように見受けられます。スイッチ一つで簡単に稼働モードを変更できるならともかく、購入時点で選択を迫られるのは、オペレーターにとっては負担だったのではないかと心配になります。

(つづく)

初期の国産メダルゲーム機(4) 競馬ゲームその2・1975年の競馬ゲーム

2018年04月01日 14時34分40秒 | 初期の国産メダルゲーム機
1975年とは、日本で初の国産メダルゲーム機が発売された年の翌年です。この年に発売された国産競馬ゲーム機は、ワタシが把握している限りでは6機種があります。

◆ケンタッキーダービー(Kentucky Derby, UNIVERSAL,1975)
ケンタッキーダービーは、業界誌「アミューズメント産業」の75年3月号にその広告が掲載されています(これが初出かどうかは不明)。筐体の画像を見ればわかるとおり、馬は「ハーネスレース」のような模型ではなく、ランプの点灯で表現されていました。


「アミューズメント産業」75年3月号に掲載されたケンタッキーダービーの広告。

ゲームは5頭立ての連複のみで、1か所にメダル3枚までベットできました。オッズはゲームの結果が決まった後に、5種の中から一つがランダムに決定されます。このような形式は、日本でGマシンとして人気を博した「ウィンターブック」(関連記事:セガのスロットマシンに関する思いつき話)やその国産模倣品が採っていたやり方です。ワタシは詳しいオッズを覚えておらず、持っている画像も不鮮明ですが、最低が2倍、次が4倍というところまでは見えます。

ケンタッキーダービーは、払い出し機構にホッパーを採用していました。もしかすると、国産メダルゲーム機でのホッパー使用メダルゲーム機第一号かもしれません。

◆ダークホース(Dark Horse, TAITO, 1975)
同じ1975年、タイトーが発売した「ダークホース」の外見は、ユニバーサルのケンタッキーダービーと驚くほどよく似ています。


「ダークホース」のフライヤー。

広告の文面もそっくりです。

・ケンタッキーダービーの広告の文面
「1-2着の連勝馬が一致した時ODDSの表示された配当が出ます」

・ダークホースのフライヤーの文面
「1着馬と2着馬が一致した時、オッズに示された枚数だけメダルがペイアウトされます」


さらに、オッズを決定するシステムもケンタッキーダービーと同じように、5種類のオッズのうち最終的に点灯したオッズが配当となります。

ただ、一つ異なる点として、ケンタッキーダービーが5頭立てだったのに対し、ダークホースは6頭立てでした。そのため連複の組み合わせは15通りとなり、その分オッズの設定もケンタッキーダービーよりも高く、5倍、10倍、20倍、30倍、40倍のいずれか一つがレース後に点灯しました。

ワタシはこのダークホースを、都立大学駅にあった「キャメル」というゲームセンター(関連記事:柿の木坂トーヨーボール & キャメル)で何度か遊んでいます。しかし、当時のワタシはメダル1枚を惜しみながらベットするようなプレイヤーだったので、1レースに何か所にもベットするような度胸はなく、当たった記憶はありません。

◆EVRレース(EVR RACE, Nintendo, 1975)
EVRレースは、日本初のビデオ競馬ゲームです。「EVR」とは、「Electronic Video Recording」のことで、ビデオデッキにまだVHSやベータなどという規格がなかった時代のビデオ規格です。任天堂レジャーシステムはこのEVRを使用したゲームとして、「ワイルドガンマン」とこの「EVRレース」を、1975年に発売しました(関連記事:任天堂@ゲームセンター)。


任天堂レジャーシステムのEVRレース。

EVRレースは殆どのメダルゲーム場に設置され、セガの「ハーネスレース」と同等かそれ以上の大ヒットとなったように思います。そして、あの「ハーネスレース」のコピーと思しき機械を作ってきた「フジ・エンタープライズ」社は、今度も「ビデオレース(VIDEO RACE, 1976)という類似品を出してきました。


業界誌「アミューズメント産業」1976年7月号に掲載されたフジ・エンタープライズ社の「ビデオレース」の広告。

任天堂レジャーシステムはその後も「EVRベースボール」(1976)や実写版の「EVRレース」、またメダルゲームではない「スカイホーク」(1976)でEVRシステムを使い倒していました。まだビデオゲームの表現力がお粗末だった時代ならではの、懐かしいシステムです。

◆「ザ・ダービー」(The Derby, sigma 1975)
1975年7月、sigmaはのちに同社の看板ともなる「ザ・ダービー」シリーズの第一号機「V0(ブイゼロ)」を自社ロケで稼働させました。

競馬ゲーム機の変遷を特集した業界誌「コインジャーナル」96年11月号の記事によると、sigmaが競馬ゲームの開発に着手したのが1972年だそうです。sigmaの創設者である真鍋勝紀(敬称略・以下同)が思い描く、メダルゲーム場の目指すべき姿を実現するため、開発費に糸目をつけず、制御には横河ヒューレットパッカードのミニコンピューターを搭載していました。その結果、「ザ・ダービーV0」の価格は5千万円と言われるまでになりましたが、実際にはsigmaのロケに設置された2台しか生産されず、販売されることはありませんでした。当時のハリウッドのSF映画に出てきても違和感がないような洗練された筐体デザインとなったV0は、遊戯機械年鑑1976版(日本アミューズメント出版社刊)で、「世界で最も大きな、最も高価なゲームの最高峰」と謳われました。


「ザ・ダービーV0」の筐体。

V0の詳細は過去記事「NASAが発明したゲーム機「ウィナーズ・サークル」を参照していただくとして、これに端を発するsigmaの「ザ・ダービー」シリーズは、「マークII」、「マークIII」、「マークIV」とモデルチェンジを重ねて、sigmaの顔となります。

このうち「マークIII」は海外のカジノにも設置され、ラスベガスではワタシが見た限りでも、The D(旧フィッツジェラルド)、ストラトスフィア、サハラ(現SLS)、ラスベガスヒルトン(現ウェストゲート)、ニューフロンティア(現存せず)、ニューヨーク・ニューヨーク、MGMグランド、エクスカリバーに設置されているところを見ています。The DとMGMグランドでは現在もなお稼働中で、特にThe Dでは、通常は写真撮影が禁じられているカジノ内に、画像とメッセージをFacebookに投稿できる端末を「マークIII」の傍ら設置して、そのアピールに努めています。


ラスベガスのダウンタウンにあるカジノホテル「The D」に設置されている、facebook投稿用端末で撮影した「マークIII」の画像。カジノで遊んでいるプレイヤーまでばっちり写る。

◆ニューウィンターブック(New Winter Book, Universal, 1974)
「ウィンターブック」(Winter Book)とは、米国のH. C. EVANS & Co.が1946年から1950年代にかけて製造したギャンブルゲーム機で、その後も「BANG TAILS」などいくつものバリエーションが作られ続けました。競馬をテーマとしてはいますが、ゲーム性はどちらかと言えばルーレットに近く、1から7までの任意の数字にベットしてスタートレバーを引くと電光ルーレットが回り、停止した番号とベットした番号が一致すると当たりとなります。的中時のオッズは、各番号のオッズが描かれたリールが回転し、停止した時の表示に従います。前述の「ケンタッキーダービー」や「ダークホース」は、このシステムを踏襲・アレンジしたものと言えます。

sigmaの真鍋勝紀(敬称略・以下同)はウィンターブックを「最高傑作」とべた褒めしたほどで、日本初の本格的なメダルゲーム場である「ゲームファンタジア・ミラノ」が開業した際にも複数のウィンターブックが設置されている様子が、当時のアミューズメント産業誌の記事にも見えます。


ゲームファンタジア・ミラノの開店を報じるアミューズメント産業1973年2月号の記事に掲載された画像。3台のウィンターブックが見える。

真鍋はアンティークのスロットマシンをいくつもコレクションしており、WINTER BOOKが現役を引退した後も、そのコレクションに加えられて長く保管されていました。


真鍋コレクションのウィンターブック(BANG TAILSバージョン)。


ワタシはその実態を知りませんが、ウィンターブックは日本のアンダーグラウンド市場で人気を博したらしく、国内の複数のゲーム機メーカーが模倣品を作りました。ユニバーサルにはその時の記憶が強く残っていたらしく、1975年に「ニューウィンターブック」(New Winter Book)を発売しました。


アミューズメント産業1975年3月号に掲載されたニューウィンターブックの広告。オリジナルとよく似た雰囲気を再現しているのは、日本国内でオリジナルが普及したことを証明するものだろうか。

「ニューウィンターブック」がアンダーグラウンド市場に設置されたのかどうか、ワタシは知りません。70年代のダイエー碑文谷店のゲームコーナーには2台も設置されていました(関連記事:さよならダイエー碑文谷店)が、ほかのロケーションではあまり見た記憶もなく、本当に真鍋が言うような傑作なのか、また多くの模倣品を生むほどの優れたヒットゲームだったのか、今でも疑問を強く感じています。しかし、状況証拠を見る限り、それはワタシが単に寡聞だというだけのことなのでしょう。