オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

「ファロ(FARO)」シリーズの記録(1) NEW FAROとFARO II

2023年05月28日 23時56分16秒 | スロットマシン/メダルゲーム

前回、前々回で、「拙ブログでは従来より初の国産メダルゲーム機は「ファロ」と述べてきたが、それは誤りで、『シルバーフォールズ』が正しい」と訂正いたしました。この結論に至るきっかけとなった情報を下さった方は、同じ時期にまた別の写真も送って下さっていて、それは私が国産初と思い込んでいた「ファロ」とはまた別の「ファロ」でした。

「ファロ」は1974年に初代が発売されて以降、80年代までにいくつもの後継機が作られているのですが、ワタシの記憶ではどんな機種がいつ発売されたかが極めてあやふやになってしまっています。ちょうどいい機会なので、今回と次回の2回に分けて、「ファロ」シリーズについて記録しておこうと思います。

まず、先述の送っていただいた写真を見てみます。

「シルバーフォールズ」が国産初のメダルゲーム機である証拠を見せてくださった方から同じ時期に送られてきた写真。大型ゲーム機の部品に見える。

この写真にはセガの大型メダルゲーム機の部品と思しきもの二点が写っており、そのうち手前の方の左上には「NEW FARO」と書かれています。

この画像を送ってきてくださった方は、「『ファロ』の次は『ファロ II』だと思っていた。自分の持つ資料には『NEW FARO』は見当たらないのだが、何か心当たりはないか」とおっしゃっていました。しかし残念なことに、ワタシもこれまで「NEW FARO」の名を見聞した覚えがありません。

ワタシもこの方と同様、セガが1977年夏に売り出した「ファロ II (FARO II)」が「ファロ」の二代目と認識していました。初代は、(表面上は)機械動作のない「電光ルーレット」だったのに対し、「ファロ II」は大きな円盤を回転させて目を決定します。また初代は筐体の背面を壁に向ける前提の構造で5席でしたが、「FARO II」は回転盤を表裏両面から見えるようにして、片面に3席、合計6席のセンターピース(フロアの中央に置ける)構造でした。さらに、初代の盤面は36分割で最大倍率は30倍だったところが、「FARO II」の盤面は72分割で最大倍率は60倍にパワーアップしていました。

ファロIIのフライヤー。

手持ちの資料を調べてみると、セガが1977年5月に発行した価格表には「ファロ」のみ掲載され、翌1978年5月発行の価格表では「ファロ」と「ファロ II」が掲載されています。と言うことは、「NEW FARO」は「ファロ II」よりも遅い時期の製品と考えられそうです。そうとなれば当たるべき資料は1978年以降に絞られ、さらに後継機が出るまでには少なくとも1年くらいは間隔が空くだろうと推察して、ゲームマシン紙の1979年7月1日号から順にゲームマシンアーカイブで虱潰しに追っていったところ、1980年9月1日号のセガの広告に「ニュー・ファロ」を発見しました。

ゲームマシン1980年9月1日号に掲載されたセガの広告から、「ニュー・ファロ」の部分。

これを見ると、頂いた写真ではわからなかった筐体は「FARO II」の使いまわしのようです。広告には「3人用」とあります。実は「FARO II」も片面のみ3席バージョンは用意されていたので、「NEW FARO」は、おそらく売価を抑えるために、その3席仕様で作られたものと思われます。

そしてゲームマシン紙の次の10月15日号では第18回AMショウの特集記事があり、その「各社出展内容一覧」にも「ニューファロ」の名前がありました。

ゲームマシン1980年10月15日号の「各社出展内容一覧」から、セガの部分。「④メダルマシン」の中に「セガ・ニューファロ」の名が挙がっている。

時期が特定できれば他の資料でも見つけることは簡単で、「'80遊戯機械総合年鑑」にも収録されていることを発見しました。この年鑑は、冒頭で「79年10月から80年8月までの間に製造、販売、あるいは発表された機種を収録(要旨)」としており、「ニューファロ」のゲームマシン紙の広告が80年9月1日号であったことを考えると、ギリギリ滑り込みでの収録であったようです。

「NEW FARO」がお蔵入りとならず世に出たことは確かなようですが、やはりワタシは見た記憶がありません。1980年と言えば、スペースインベーダーに端を発するビデオゲームブームによりメダルゲームの営業面積の縮小傾向がまだ続いていた時期だったので、3席限定で売価を抑えてもなお、普及する余地がなかったのかもしれません。その結果、当時現役だった我々マニアですら知るチャンスがなかったのだと思われます。

(つづく)


初の国産メダルゲーム機:シルバーフォールズ

2023年05月21日 18時27分06秒 | 初期の国産メダルゲーム機

前回の記事でご紹介した通り、セガが自認する(大型)メダルゲームの国産第一号()は「ファロ」ではなく「シルバーフォールズ」であることが明らかになりました。

シルバーフォールズ。セガが1974年に頒布したメダルゲーム機の総合カタログより切り取った画像。

ワタシは過去記事「初の国産メダルゲーム機の記憶」で、「(初の国産メダルゲーム機は)1974年の春頃にセガから発売された『ファロ』と『シルバーフォールズ』になろうかと思います」と述べていますが、その本文では「ファロ」の説明しかしておらず、「シルバーフォールズ」はまるっきり無視しています。そしてその後もワタシは事あるごとに「ファロ」を初の国産メダルゲーム機と述べてまいりました。

しかしそれが誤りであることが判明した今回は、改めて国産初のメダルゲーム機として「シルバーフォールズ」を記録しておきたいと思います。

)拙ブログでは、「国産メダルゲーム機」とは、国内メーカーによってメダルゲーム営業に供することを目的として作られた「メダルゲームネイティブ(そんな言葉があるかどうかは知らない)」のゲーム機を指しており、メダルゲームとして稼働していても本来がメダルゲーム営業以外の市場に向けて作られたゲーム機は除外しています。

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とは言うものの、ワタシはシルバーフォールズはコインプッシャーであること以外ほとんど知りません。今までは「あー、はいはい、こんなプッシャーもありましたねー」で終えていたので、これは大いに反省しなければなりません。

それでも手持ちの資料を改めて調べていると、新たに気づくことがありました。セガが頒布したフライヤーで、「シルバーフォールズ」と「ファロ」は、総合カタログでしか見たことがありません。そのうち、1974年の早い時期に頒布された二つ折り4ページのメダルゲーム総合カタログでは、「シルバーフォールズ」が表紙を飾っています。

1974年に頒布されたセガのメダルゲーム総合カタログの表紙。「シルバーフォールズ」が大きく採り上げられている。

ここに見られる画像が、ワタシが持つ最大の「シルバーフォールズ」画像です。まずはこれを観察してみました。

上記総合カタログ表紙より、シルバーフォールズの拡大図。

この画像によると、「シルバーフォールズ」は、

①8人用。
②プレイフィールドは円形で8等分に区切られている。
③プッシャーボックス(コインを押し出す機構)は円形。

であることが見て取れます。こうしてじっくりと見て初めて気づいたのですが、「シルバーフォールズ」のプッシャーボックスは回転軸が偏心した円運動をしているようです。円板カムの動きというものでしょうか。それまで日本で見られた英国クロンプトン社製のプッシャーボックスは直線運動でしたから、これはオリジナリティの高いアイディアだと思います。

このように円形のプッシャーボックスで同じような動きをするプッシャーは、90年代の後半に発売されたこともありました。

円形のプッシャーボックスの円運動でメダルを押し出すプッシャー「ドリームターボ」。製造元がよくわからないのだが、Gマシンで良く知られたところだったような気がする。

ワタシはこれと非常によく似たプッシャーを1995年頃に米国で見かけており、「ドリームターボ」はそれをパクったものと疑っていますが、いずれにしても、その20年も前に同じアイディアのプッシャーをセガが作っていた事実は、ワタシにとって全く新しい知見でした。

ただ、「シルバーフォールズ」が普及しなかったことと、「ドリームターボ」以降同様の機構を持つプッシャーが継続して現れなかったことから、このような機構はアイディアではあるけれど、あまり面白さには繋がらなかったと言わざるを得ないとは思います。

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ところで、「シルバーフォールズ」の装飾はアラビアをテーマとしており、プッシャーボックスの上には4体のベリーダンサーの人形が置かれており、その上部には円形の飾り看板が付いています。セガの社内報での記事では、「(プッシャーボックスの上にある)照明装置に書かれている、何やらアラビア風の文字の意味、おわかりですか・・・。」とあります。

セガの社内報で「照明装置」としている部分の拡大図。

確かにそこにはアラビア文字のようにも見えるものが書いてあります。しかし解像度が低く、本当にアラビア文字であるかどうかも判別できません。社内報では「(解答は24頁)」と続くのですが、ワタシが見せていただいた画像はこの1ページのみで、24ページはありません。一体ここには何が描かれていたのでしょうか。

謎の文字も気になりますが、それ以上にワタシのマニア魂を揺さぶったのは、「照明装置」に描かれている謎の「模様」です。

ワタシのマニア魂を揺さぶった「照明装置」の謎の模様(赤円内)。

この模様はひょっとしてアレではないかと思い当たり、セガが1973年にリリースしたピンボール機「アリババ」(関連記事:初期の国産ピンボール機:Ali Baba(SEGA、1973))のフライヤーを見ると、二つ折り4ページの裏表紙側に、フォルムが非常によく似たアラビア女性の絵がありました。

セガのピンボール機「アリババ」(1973)のフライヤー(裏表紙の部分)。左上のカットが「シルバーフォールズ」の「照明装置」に見える模様とフォルムがそっくりであるように思われる。

「シルバーフォールズ」の画像でこれよりも鮮明なものが無いのが残念ですが、発売年は「アリババ」が1973年「シルバーフォールズ」は1974年(ひょっとすると1973年の遅い時期かも)ですので、同じアラビアンをテーマとした「シルバーフォールズ」に、「アリババ」のフライヤーで使用したカットを流用したものと思われます。だからどうしたと言われても困るのですが、マニアと言うものはこういう些細なトリビアに反応するようにできてしまっているのです。すみませんね。


【衝撃の小ネタ!】国産初のメダルゲーム機、実はファロじゃない!?

2023年05月14日 18時44分16秒 | 初期の国産メダルゲーム機

先日、オールドゲーム関連のコミュニティでは有名なある方より、セガの古い社内報をデジタルカメラで撮影した画像のほんの1ページを見せていただく機会があったのですが、そこにはこれまでのワタシの認識を覆す新事実が書かれていました。

 

見せていただいたセガの社内報の一部。

ここには、「新製品紹介 セガ・シルバー・フォールズ 大型メダルゲーム機の国産第一号」との見出しで、新製品「シルバーフォールズ」が紹介されています。

これがいつ発行された社内報なのかは不明とのことですが、「メダルゲームが(中略)本格的に人気が盛り上がったのは、昨年から」と記述されているところから、おそらくは1974年、早ければ1973年関連記事:「メダルゲーム」という業態の発生から確立までの経緯をまとめてみた)に発行されたものと思われます。他にも「セガも昨年大阪でアポロ・ベガスを開場し」ともあり、その時期が特定できればより正確にわかるはずですが、残念ながら私は突き止めることができませんでした。その後の調査で、アポロ・ベガスがオープンしたのは1972年7月とのことでした。従って、シルバーフォールズの発売年は1973年であることが判明しました。2023年11月27日加筆

本文には、

そこで誕生したのが、大型メダルゲーム機(マスゲーム機とも呼ばれています)の国産第一号”セガ・シルバー・フォールズ”なのです

開発に当っては、国産第一号とのことで、様々な苦労があったようです

と、二カ所で「国産第一号」と書かれています。

ワタシの手元にある資料のうちセガのメダルゲームが現れる最も古い媒体は、「アミューズメント産業」の74年3月号です。

アミューズメント産業74年3月号に掲載されているセガの広告。ファロとシルバーフォールズが見える。

ワタシは長年この画像を頼りに、「国産初のメダルゲームはファロ」と決めつけてしまっておりました。ここには「ファロ」と「シルバーフォールズ」の両方が掲載されていますし、またこれよりも古い媒体にシルバーフォールズのみ掲載されているものがあった可能性もあるにも拘わらず、です。

正直に申し上げると、ワタシは、「ファロ」はメダルゲームのある場所ならほとんどどこにも見られた一方、「シルバーフォールズ」はあまり見かけなかったことから、いくらか無理があることを承知の上で、シルバーフォールズを無視していました。それが今になって、よもやまさかシルバーフォールズを国産初とする確かな資料に出くわすとは思いもしておりませんでした。

ワタシはこれまで拙ブログにおいて複数回にわたり、「国産初のメダルゲームはファロ」と断言してしまっています。まずはその一番最初となる「初の国産メダルゲーム機の記憶(2016年3月)」を修正しなければなりません。その他の部分については思いつき次第順次修正していく所存です。やはり、インチキをすると後でしっぺ返しが来るものでありますね。しまったなあ。


大阪レゲエ紀行:エレメカ研究所(大阪・北区中崎町)その5(最終回)

2023年05月07日 19時40分46秒 | ロケーション

エレメカ研究所探訪記録の最終回のテーマは「リプロダクト」です。「リプロダクト」とは、通常は「複製品」の意味で使われることが多いですが、「再生」の意味でも使えるようです。エレメカ研究所には、オリジナルのままでは到底稼働が叶わないオールドゲーム機に手を加えて動作できるようにしてある機械が結構たくさんあります。例えば前々回の記事で採り上げた「コインパンチ」も、プレイフィールド部分はオリジナルのままですが、キャビネットは独自に作成されたものです。他にもおそらく、外見からはわからないけれども筐体内部でリプロダクト行われている機械もあるものと思われます。

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エレメカ研究所の最も奥には、水族館の水槽を思わせる大きな赤い箱があります。ウィンドウの上部には、「Helicopter」との銘板が取り付けてあります。

「Helicopter」の銘板が付いたゲーム機。


プレイフィールドの拡大図。中央のインストラクションには、「コインを入れますと、飛行可能ランプ(緑)が点きます。およそ50秒 / 緑ランプが点いている着地点に着地してください / 着地しますと確認ランプ(赤)が点き、しばらく / して、確認ランプ(青)が点きますと / 認定ランプが点きます / 3つ認定ランプが点きますとコインが出てきます」と書かれている。

この「Helicopter」の銘板は、セガが1968年にリリースした「Helicopter」のマーキーから持ってきたものと思われます。

Helicopter (Sega, 1968)のフライヤー。

エレメカ研究所のHelicopterは、操作するヘリコプター、ジオラマ、操作系部品までかなり手が加えられており、その違いはフライヤーの絵でもいくらかは察せられますが、Youtubeのこちらの動画を見る方がよりわかることと思います。

この動画と見比べると、エレメカ研究所の機械は殆ど原形を留めていないとさえ言えるかもしれません。しかし、なんとか動く状態で展示したいという強い思いを感じます。オリジナルのまま動けばそれが理想ではありましょうが、動かない機械をどこまで弄って構わないかは人により様々な考えがあり、最終的にはオーナーの意向に沿うものであるべきかと思います。

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コインを投入する娯楽機が黄金時代を迎えるのは1920年代の終わり頃からのことです。「ディガ―マシン(Digger machine)」と呼ばれるクレーンゲームは、その中でも早くから登場していました。エレメカ研究所には、おそらく1930年代のものと思われるアメリカ製の古いディガーマシンがあります。

エレメカ研究所のディガ―マシン。「今の『UFOキャッチャー』の元祖」との説明がある。

ただしこの機械は、オリジナルから機構部分のみを取り出し、その動作を見ることができるようにしてあるもので、実際に菓子類を掴み取るところまではできません。それでも、100年近く前に作られた機械が動くところを見ることができるのは大変に興味深いものです。

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もう一つ、リプロダクトを記録しておこうと思います。こちらは上記二つと違い、もはや「魔改造」の域に達していると言っても良いのではないかと思います。

エレメカ研究所の「魔改造」ゲーム機。バックグラスには「国盗りレース」とある。

バックグラスには「国盗りレース」と書いてあるので、たぶん国盗りレースと言うゲームなのだと思いますが、実はこのバックグラスは、1980年レジャックから発売された「国盗り合戦」という10円ゲーム機に使用されていた表示パネルに手を加えたものです。

「国盗り合戦(レジャック、1980)」の筐体。wikipediaより。

そして筐体は手作りで、プレイフィールドは関西精機の「ミニドライブ」を流用したものであるように見えます。

「ミニドライブ(関西精機、1958)」の筐体。ただしミニドライブは何度かリメイクされており、「国盗りレース」のベースとなっているのは別のバージョンかもしれない。

「国盗りレース」の筐体には、「最右・左からの切り返しはは一旦車を真っすぐにしてください」とイラスト入りの説明書きが張り付けてありました。しかし、ワタシが訪問した時は調整中とのことで遊ぶことはできませんでした。この、どこから流用したのか見当が付かないハンドルでの操作感を試してみたかったのですが、残念です。それにしても、ここまで自力でやってしまうエレメカ研究所のオーナーの努力には本当に頭が下がります。

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実はエレメカ研究所は、かつて大阪駅ビルでレトロゲームを多く設置しているとして斯界では有名だったゲームセンター「ZERO」のオーナーが、ZEROを閉めた後に始めたロケだったのだそうです。

ワタシがZEROを訪れたのは2019年の春(関連記事:大阪レゲエ紀行(7・最終回)) DAY 2・その2:大阪駅前第2ビルB1「ZERO」
のことで、ZEROが無くなってしまったら「ウルトラガン」、「ホームランゲーム」、「バッティングゲーム」、「アレンジボール」などの貴重なオールドゲームはどうなってしまうのかと心配していましたが、こちらに移設され、今も健在で稼働していました。公的な機関がこれらの文化遺産を保存する気が無いとなれば、民間の篤志家の頑張りに頼るしかありません。どうぞ皆様も機会を作ってエレメカ研究所にお参りに行き、いくらかなりともお布施をいただけますようお願い申し上げて、このシリーズを終えたいと思います。

大阪レゲエ紀行:エレメカ研究所シリーズ・おわり