オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

ゲームファンタジア・ミラノ:メダルゲーム発祥の地

2017年09月26日 22時35分29秒 | ロケーション
(本記事は、2020年5月22日一部修正しました)
多忙のため更新が遅れております。今週末から今年最後(のはず)のラスベガス巡礼が控えており、今、更新しておかないとまた少し先になってしまいそうなので、なんとか頑張って更新します。

1971年12月18日、メダルゲームというジャンルを確立したsigma社により、新宿歌舞伎町の東急ミラノビルに、日本初の本格的なメダルゲーム場「ゲームファンタジア・ミラノ(以下、GFミラノ)」がオープンしました。

業界誌「アミューズメント産業」72年3月号の特集記事によれば、「地に真赤なジュウタンを敷いたミラノは、まるでお城にでも行ったかのような錯覚さえおぼえる」このロケの設備投資には1億円がかけられたとのことです。当時の1億円と言えば、現在の2.2億円くらい(大卒初任給の当時と現在の比較による推計)になります。ゲーム場が大型化し運営に大資本が関わることが当たり前の昨今ではたいした事もないように聞こえますが、この当時では破格の事であったことは想像に難くありません。

GFミラノは、運営会社であるsigma社がアルゼに吸収され、社名も「アドアーズ」に変更されたころから、「日本初!! メダルゲーム発祥の店」と謳うようになっていました。<修正ここから>実際は、sigma社は1968年から葛飾区新小岩のボウリング場で実験運営を始め、その翌年に渋谷と、さらに翌年に大田区池上のボウリング場でも実験を展開しています(関連記事:「メダルゲーム」の曙を見た記憶「メダルゲーム」という業態の発生から確立までの経緯をまとめてみた)が、GFミラノは既存の施設の付帯施設として行ってきた実験運営を離れ、単独店舗として本格運営に入ったという点で<修正ここまで>実質的にはあながちウソと言うわけでもないとは思います。


GFミラノの店頭に掲げられていた「メダルゲーム発祥の店」の看板。でも、この謳い文句に何かを感じるのはワタシのようなヘンなマニアだけで、「そうか、ではここでメダルゲームでもやってみるか」と思った人はいなかったと思う。

残念ながら、GFミラノ(最終的にはアドアーズミラノ)は、2014年12月23日を最後に、43年と6日の歴史に幕を閉じてしまいました。わずかなりとも救いに感じるのは、ゲームセンターがバタバタと閉店し、アーケードゲーム業界の市場規模縮小が言われて久しい中、GFミラノの閉店の理由が、東急ミラノビルの閉鎖に伴うものとされているところです。

70年代中ころから80年代には、ここの2F(3Fだったか?)にもピンボールビンゴ専門店「BINGO-IN」がありました。そしてまた、sigmaの旗艦店ということもあって、ワタシは、おそらく1978年ころから閉店まで、しばしばこの店舗で遊んでいたのですが、不思議なことに昔のことはあまり覚えていません。印象に残っていることと言えば、78~79年ころ、スギウラという高校時代の友人(関連記事:新宿・ゲームファンタジア・リトルサーカス&ビンゴイン・サブナードの記憶)がここで短期間バイトをしていたこと、フォーチュンコイン社製と思しきビデオスロット(関連記事:ワタクシ的ビデオポーカーの変遷(3) 米国内の動き)や、BINGO-INで「Bally Computer "21"」(関連記事:ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(2)それ以前のビデオポーカー)、そしてなぜか写真ですら残っていない「ザ・ダービー・マークII」を遊んだことくらいのものです。

以下の画像は、GFミラノの店内に掲げられていた、初期のGFミラノの店内を示すパネルを、閉店前日に訪れて撮影しておいたものです。


GFミラノの入口。この画像が開店当時のものかどうかは不明だが、「ルーレットパーティ」の看板とアーチ状のエントランスには覚えがある。


sigmaとメダルゲームの歩みをブリーフィングしたパネル。


店内の様子その1。人っ子一人いないところを見ると、開業直前の様子だろうか。左の壁沿いにセガのダルマ筐体のスロットマシン(関連記事:セガのスロットマシンに関する思いつき話)が並んでいるのが見える。これがオリンピアかどうかは、この写真では判別できない。


店内の様子その2。左側に見えるバーリーの「5-Line Pay(1970)」は、当時としてはほぼニューマシンと言っても差し支えないものだったはず。


このゲーム機は、セガが1975年に発売した「Group Bingo」。ということは、この写真は開店直後に撮影されたものではない。なお、Group Bingoは、セガが1989年に発売した「Bingo Circus」の元ネタである。


上段右の「GOLDEN BALL」は、英国ストリーツ社製のペイアウトゲーム(製造年不明)。sigmaが1980年代終わりころにリメイクしているが、ヒットはしなかった。下段はピンボールビンゴに興じる人たち。


THE DERBY Vφ(関連記事:NASAが発明したゲーム機「ウィナーズ・サークル」)に興じる人たち。これも稼働は1975年からなので、開店当初に撮影されたものではないことがわかる。

これらの写真を見ていると、ワタシが最も馬鹿だった頃を過ごした場所としてむやみに懐かしくなります。他にもいろいろな写真がきっとあったことと思われますが、今でもどこかに保管されているのなら、なんとかウェブ上で良いので公開してほしいものです。

「アメリカンパチンコ」・ジェミニ

2017年09月18日 13時10分01秒 | 風営機
パチスロの嚆矢であるオリンピアが稼働を開始した時期は1960年代の半ばでしたが、当初こそ耳目を集めたものの、その後人気は尻すぼみとなり、70年代半ば以降は殆ど見られなくなっていたように思います。しかし、市場から消えゆくオリンピアと入れ替わるかのようなタイミングの1977年、市場に新たなスロットマシン型風営機「ジェミニ」が登場しました。

 
ジェミニ(マックス商事・1977)のフライヤーその1




ジェミニのフライヤーその2。右上に「Ballyの伝統を受け継ぐ確かなマシーン」の文字が見える。ジェミニのフライヤー画像の提供はいずれもウッキーさま。

二匹目のどじょうを狙うには冷めているオリンピア市場に、どうして新たな風が起こったのかはわかりません。2001年に刊行された「月刊Amusement Japan別冊 完全保存版 PACHISLOT2001」に、ジェミニの開発に携わった人へのインタビュー記事が掲載されています。そこでは、回胴式の風営機を開発しようと決意した動機として、「(自分たちは)元々はバーリーのスロットマシンを輸入販売していたが、これを使用した賭博営業を行う者がおり、このままではスロットマシンは警察の取り締まりを受けて潰れてしまうと危惧した。これを単なるギャンブル機で終わらせたくなかった」と述べられています。

しかし、これは綺麗ごとに纏められているように思います。ゲーム機による賭博行為は1970年代初頭から流行を見せており(関連記事:ロタミントの記憶 / セガのスロットマシンに関する思いつき話)、ゲーム機賭博による検挙数が毎年増加していたこの時期にスロットマシン類を輸入販売する業者は、顧客の中に違法な賭博営業を目的とする者が含まれていることは織り込み済みだったはずです。ともあれ、ジェミニは当初から風営機としての認可を得て合法的に稼働することを前提に開発されており、そして実際そうなりました。

ジェミニの外観は、バーリーのスロットマシンそのものですが、それもそのはずで、フライヤーの「Ballyの伝統を受け継ぐ確かなマシーン」の言葉通り、ジェミニのキャビネットや主要部品の殆どが米国バーリー社から提供されていたものでした。おそらくは、自らが本来バーリーの製品を輸入している業者だった縁を頼ったのだと思います。

 
バーリーの5-Line Pay Progressive(1972)とQuick Draw(1966)のフライヤー。ジェミニのキャビネットは5-Line Pay、フロントドアはQuick Drawで使われていたもの(ただしボタンスイッチはそれぞれ全く異なる原理による)を流用したことは疑いようがない。リールを覆うガラスのデザインなどはほぼ丸々オリジナルをなぞっている。

また、似ているのは外観だけでなく、内部機構もバーリー製品の流用でした。


バーリーが1980年頃に発行したフライヤーから、当時のバーリーのリールメカニズムを示す画像。ジェミニのフライヤーに見られる内部の画像とほぼそっくりそのままである。

もちろん、パチスロ(実はこの当時はまだパチスロという言葉はできておらず、「アメリカンパチンコ」あるいはその短縮形で「アメパチ」などと呼ばれていた)とするにはスキルストップボタンの設置が必要であるため、オリジナルにはない機構も必要となります。


ジェミニのリールユニット(画像提供:S川さま)。リールに仕込まれた磁石で現在位置を検知する装置(1)と、リールの回転を維持する補助回転装置(2)が追加設置されている。

この時のバーリー側の担当者が、「スロットマシンキング」の異名を持ち、拙ブログでも何度か名前が出ている「ウィリアム・サイ・レッド」(関連記事:ワタクシ的ビデオポーカーの変遷(3)米国内の動き・他)で、日本側の技術的な相談にも親切にアドバイスしたと、前述の「月刊Amusement JapanJapan別冊 完全保存版 PACHISLOT2001」に書かれています。

ジェミニを作った人たちは、業界団体を立ち上げるために、バーリーから得た部品を同業他社にも供給したそうです。そのため、アメリカンパチンコはどこのメーカーのものも似たような印象の機械となりましたが、そのうちパチンコ台を設置する島のサイズに合わせた筐体が開発されるようになり、これを境に回胴式遊技機は「パチスロ」と呼ばれるようになって、現在に至っています。

なお、ジェミニのフライヤー画像をを供給してくださったウッキーさまもブログをお持ちでらっしゃいますので、ご紹介しておこうと思います。「ウッキーののほほん絵日記」http://ukeyman.blog91.fc2.com/

新宿・ゲームファンタジア・リトルサーカス&ビンゴイン・サブナードの記憶

2017年09月09日 11時29分18秒 | ロケーション
副都心新宿に、「新宿サブナード」と言う地下街があります。今回は、かつてこのショッピングモールにあったゲームセンターの記憶を記録しておこうと思います。

半年ほど前、「ゲーム紙モノコレクターの浅野」さまより、「歌舞伎町のゲームファンタジア・カスタムのポスターを入手したが詳細がわからない。何か情報はないだろうか」と言う趣旨のコメントをいただきました(関連記事:メダルゲームの曙を見た記憶)。

「ゲームファンタジア・カスタム」は、業界に「メダルゲーム」と言うジャンルを確立させたsigma社が、渋谷のボウリング場で始めたメダルゲームの実験店舗に付けた屋号ですが、歌舞伎町にも同名のロケがあったとは聞いたことがなかったので、俄然興味を抱きました。しかし、この時点では情報らしい情報は思い当たりませんでした。

そこで、件のポスターを見てみれば何かヒントがあるかもしれないと思い、浅野さまに画像を送っていただけまいかとお伺いしたところ、すぐにメールで送ってきてくださいました。



ゲームファンタジア・カスタムのポスターの画像。大きいので、上下に分けて撮影されている。「機械ゲーム」などと言う珍妙な表現は、まだメダルゲームの概念が一般に浸透する途上段階で、そもそも「メダルゲーム」という言葉自体がまだ生まれていなかった時代に、sigmaの担当者が苦心して捻り出したコピーなのであろう。(画像提供:ゲーム紙モノコレクターの浅野さま)

ご提供いただいたポスターを見ると、「新宿サブナード・歌舞伎町入口・ロマンの森ビルB1・B2」とあります。全く聞いたこともないビルなのでさっそくググってみましたが、「”ロマンの森ビル”との一致はありません。」と言われてしまいました。しかし、「サブナードの地下1、2階」という条件は、ワタシが70年代半ば頃から90年代終わり頃にかけて良く行っていたゲームセンター「ゲームファンタジア・リトルサーカス」及び「ビンゴイン・サブナード」の立地と符合します。これらの店舗から階段を上って地上に出れば、目の前は靖国通りで、すぐ脇には歌舞伎町一番街の入り口のアーチがありました。

これらを手がかりに手持ちの資料をひっくり返してみたところ、業界誌「アミューズメント産業」の76年2月号に、「アミューズメント施設拝見 ビンゴイン・サブナード店 リトル・サーカス」という記事を発見しました。これには、「sigmaが、ゲームファンタジア・カスタムを大幅に改装し、新たな2店とした」と記述されています。更にダメ押しとして、「これまでの宣伝テーマも”機械ゲームの小宇宙”という抽象的なものであった」とも記されており、浅野さまが入手されたポスターの主体は、ゲームファンタジア・リトルサーカス及びビンゴイン・サブナードの前身という理解で間違いないとの結論に達しました。また、記事中には、「サブナードの開設にあわせたオープン以来注目を集めていた」とあるので、この「ゲームファンタジア・カスタム」は、サブナードが開業した1973年9月に同時に開業したものと思われます。


「アミューズメント産業」76年2月号に掲載された「アミューズメント施設拝見」の記事。入口に置かれたナイスボディなクラウンのポップのモデルはマリリン・モンローで、等身大だそうだ。


同記事より、リトルサーカスの店内の様子。正面に写っている「DEAD HEAT」は、タイトーが1975年に発売した、ビデオによるカーレーステーマのメダルゲーム。この写真撮影時には最新のマシンだった。


同記事より、ビンゴインの店内の様子。店内はミニスイートのホテルの部屋のように段差で二分割されており、上下のフロアを併せて20台ほどのビンゴ機と、いくらかのスロットマシン類が設置されていた。

ワタシは、1976年から1977年頃のリトルサーカスで、その後のsigmaの象徴ともなる「THE DERBY」の1号機である「Vφ(1975)」(関連記事:NASAが発明したゲーム機「ウィナーズ・サークル」)を遊んだり、また、おそらくは米国RAVEN社のキノマシン(類似機種の画像はこちら)を発見したものの遊び方が良くわからず悔しい思いをしたりしていたものでした。

リトルサーカスは、時代によって、メダルゲームよりもビデオゲームが主となることもあり、ワタシが初めてスペースインベーダーを見たのもこのリトルサーカスでした。ワタシは、それは1977年の暮れのことだったように記憶しているですが、後の資料でスペースインベーダーの発売年を「1977」としているものを見たためしがなく、自信が無くなっています。

高校卒業後の1978年から1979年にかけては、「スギウラ」という、なぜかわからないがやたらとカネ回りの良い高校時代の友人と二人で、徹夜でビンゴ・ピンボール(関連記事:都立大学駅前のビリヤード場「アサヒ」とピン・ビンゴ)に興じることも良くありました。その時に店内で良く流れており耳に残っていたBGMが、「Boney M」というグループの「Rasputin(邦題は「怪僧ラスプーチン」)」であることを知ったのは、比較的最近の事です。今、youtubeでこの曲を聴くと、当時の感覚がまざまざとよみがえります。

sigmaのロケは、18歳未満の入場を禁じ、落ち着いた雰囲気の大人の遊び場を志向しており、他社のロケとは一線を画していました。そのため、メダルの貸し出し料金はよそよりも高かった(35枚1000円。のちにビンゴインのみ50枚1000円に値下げした)にも拘らず、ワタシは社会人となってからも、このふたつのロケには時々行きました。

リトルサーカスとビンゴインが入っているビルは、先述の通り靖国通りに面しており、その正面の壁面の地上3Fから4Fにかけてと思しき部分には、sigmaのロゴが大書された看板が掲げられていました。以前、たまたまこのロケで働いていたという方とお話をする機会があった際には、「sigmaの創立者である故真鍋氏は生前、都心の一等地でたいへん目立つこの看板を維持するためにも、リトルサーカスとビンゴイン・サブナードは絶対につぶさないと言っていた」というお話も聞きました。しかし、2000年にパチスロメーカーのアルゼがsigmaに資本参加し、真鍋氏の影響力が弱まると、ゲームセンター業界全体の退潮傾向に伴い、リトルサーカスとビンゴイン・サブナードはどちらも閉店して看板も降ろされてしまいました。ワタシが最後にこの建物を見た昨年の段階では、その場所には消費者金融の看板が掲げられていました。

なお、ゲーム紙モノコレクターの浅野さまは、フェイスブックにてもオールドゲームに関するいろいろな情報を発信されてらっしゃいますので、ご興味のある方は一度ご覧いただければと思います。
https://www.facebook.com/asano.tirasi

それはポンから始まったのだけれども(5) ポストスペースインベーダーの頃

2017年09月03日 21時04分14秒 | ビデオゲーム
1979年の晩夏頃には、スペースインベーダーのブームも沈静化します。しかし、この一大ブームに乗ってビデオゲームに参入するメーカーが増え、第二のスペースインベーダーを狙ったタイトルが続々と世に送り出されるようになっていたこともあって、ビデオゲーム人気は一定の水準を保ち続けます。

当時のビデオゲームメーカーとしては、アイレム シグマ ジャトレ セガ タイトー ナムコ ユニバーサル レジャック(後のコナミ) 新日本企画(後のSNK) 電気音響 日本物産 任天堂レジャーシステム 豊栄産業(後のバンプレスト)などが記憶に残っています。この他にも、表には名前が出ない、もしくは目立たぬまますぐに消えて行ったメーカーも少なからずあります。また、アタリ(ATARI)をはじめ、グレムリン(Gremlin)やエキシディ(Exidy)といった米国メーカーの製品もまだ多く残っていました。

ワタシはインベーダーブームがそろそろ終焉を迎える頃、TVで「ポストインベーダーを探る」という趣旨の報道を見ました。マスコミがゲーム業界の動向を取り上げた例は過去にもなかったわけではありませんが、今ほど社会に認知されていなかったゲーム業界がこれほど注目されるということはやはりまれなことです。

その報道では、ポストインベーダー候補の一つとして、「与作」(新日本企画・1979)(フライヤーはこちら)というビデオゲームを紹介していました。

この当時、日本国内では北島三郎さんが歌う「与作」という歌が大ヒットしており、これにかこつけた企画であったことは間違いないでしょう。そして時期をほぼ同じくして、「与作とドン平(ウィング・1989)」(フライヤーはこちら)や、「与作とゴン平(ジャトレ・1989)」、「与作吾作(ショウエイ・1989?)」など、たいへん紛らわしいタイトルのゲームもありました。

当時のワタシは、繁華街に行けばゲームセンターを虱潰しにハシゴするくらいゲームに耽溺していましたが、しかし、これら「与作」を名乗るゲームが設置されていないロケも珍しくなく、実際、遊んでも面白いわけでもありませんでした。これを取材したTV局(確かNHKだったように思いますが不確実)は、ゲームの良し悪しがわからないまま大ヒット曲のネームバリューに騙されただけだったように思います。

結局のところ、スペースインベーダーに並ぶようなブームは日本では二度と起きませんでしたが、それでも今では想像もつかない規模のヒット作と言ってよいタイトルはいくつか出てきました。

◆「ヘッドオン(Head On)」(Gremlin/SEGA・1979)
後に「ドットイート」と呼ばれるジャンルの嚆矢となる「ヘッドオン」は、米国グレムリン社が開発し、日本ではセガが扱っていたゲームです。「パドル&ボール」でもなく「シューティング」でもない、新たなゲーム性を持ったヘッドオンは多くのプレイヤーが熱中しましたが、ワタシは滅法ヘタだったので、もっぱら上手な人のプレイを後ろから見て満足していました。

 
元祖のフライヤーを持っていないので、これは続編のHEAD-ON PARTⅡのフライヤー。

◆「ギャラクシアン(Galaxian)」(namco・1979)(フライヤーはこちら
namcoはこれ以前に「ジー・ビー(GEE BEE・1978)」(フライヤーはこちら)、「ボムビー(BOMB BEE・1979)」(フライヤーはこちら)というパドル&ボールゲームを作っており、ギャラクシアンは同社が開発した三作目のビデオゲームであるにもかかわらず、初めて100%RGBカラーのオブジェクト(ビデオゲーム用語で、画面上を自在に移動させることができる表示物、またはそれを実現する技術のこと。パソコン用語の「スプライト」は同義語)を採り入れ、それによって実現した滑らかな動きを見せる美麗なカラー画像はnamcoの技術力の高さを見せつけるものでした。一つのロケーションに何台も設置されるほど大ヒットし、ポストインベーダーの最右翼と目されたこともあったように思いますが、社会に与えた影響と言う点では、スペースインベーダーに肩を並べたとまで言えるものではありませんでした。

◆「平安京エイリアン」(電気音響・1979)(フライヤーはこちら
東京大学の学生が開発したとして注目されましたが、そのような話題性だけでなく、碁盤の目に区切られた区画を行き来するエイリアンを、プレイヤーである「検非違使」が落とし穴を掘って捕え、そのまま生き埋めにすることで駆除するという戦略に重点が置かれたゲームは、従来の反射神経を要するビデオゲームとは異なり、非常に斬新で、大ヒットしました。「平安京」と「検非違使」という歴史的な概念を、このゲームで認識したという中高生も多かったのではないでしょうか。

メーカーである電気音響社は、ワタシが知る限り、これ以外のビデオゲームを発表していません。数年後には大手電子部品メーカーである「村田製作所」の傘下に収まり、そのまま吸収合併されました。生涯成績が1打席1打数1安打4打点(満塁ホームラン)で引退してしまった野球選手に例えたいメーカーです。

◆「パックマン(PAC-MAN)」(namco・1980)(フライヤーはこちら
スペースインベーダー以降現在に至るまでのビデオゲーム中、最大のヒット作は何かと言えば、ワタシはパックマンだと思います。日本でのヒットの度合いとしてはヘッドオンと同等か少し上回る程度でしたが、米国では「80年代のミッキーマウス」とまで形容されるほどの大ヒットとなりました。今も多くの人の記憶に強く残っているタイトルで、デビューから37年を経たつい先ごろには、カジノ向けのスロットマシンのテーマにも採用されました(実は10年くらい前にも一度、スロットマシンのテーマに採用されかけましたが、ネバダ州の当局が「子供が興味を持つキャラクターをテーマとするギャンブル機は認可しない」として、その時はお蔵入りとなりました。同じ時期に、米国のアニメ「サウスパーク」をテーマとしたスロットマシンも同様に認可されなかったことがあります。


アインスワース社の「PAC-MAN(2017)」。キャラクターだけでなく、サウンドも当時の効果音が随所に使われている。

なお、パックマンの英文表記は、当初は「PUCK MAN」でしたが、「P」を「F」に書き換えるというイタズラが発生したため、「PAC-MAN」に変更されたといういきさつがあります。

namcoはこの後も、ラリーX(RALLY X・1980)、ギャラガ(GALAGA・1981)、マッピー(MAPPY・1981)、ディグダグ(DIG DUG・1982)、ゼビウス(XEVIOUS・1983)、リブルラブル(Libble Rabble・1983)、ドルアーガの塔(The Tower of DRUAGA・1984)、ドラゴンバスター(DRAGON BUSTER・1985)など、独創的で完成度の高いビデオゲームを立て続けに世に送り出しました。そしてナムコはまた、当時はまだ添え物扱いだったゲーム中のサウンドさえも丁寧に作り込んで、現在に続く「ゲームミュージック」というジャンルの先駆けとなった点も注目しておくべきです。YMOの細野一臣氏がこれに注目し、史上初のゲームミュージックを収録したレコード(当時はまだCDは出始めたばかりで、普及していなかった)が発売されたのは1984年の事でした。

1980年代は、ゲーム製作者が面白いと思うあらゆる発想がビデオゲームになり得た時代であったように思います。その結果、当然ハズレも多かったことでしょうが、長く人の記憶に残る、良い意味で「異形」のゲームも数多く開発されました。

現在は、ゲームの原案を考えるにもマーケティングなどと言うものを気にしなければならず、さらに現在は、通信対戦やトレーディングカード、あるいはパソコンやモバイルデバイスとの連携など新たな要素が必須となっており、昔とは異なる遊びに進化しています。

変わったのはプレイヤーも同様で、90年代以降あれだけ隆盛を誇った対戦格闘ゲームでさえ、今はほとんど顧みられることもありません。しかし、メーカーがどんなに頑張っても、二度と80年代のような状況に戻ることはないでしょう。そしてそれが時代の流れというものであることも理解しますが、古いおやじゲーマーとしては寂しさを禁じ得ません。どこか、ラスベガスにある「Pinball Hall of Fame」みたいな、オールドファンの聖地となるような場所を作ってくれないかなあ。

(このシリーズ終わり)