オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

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【衝撃!】国産初のフリッパーゲーム機に従来の説を覆す大発見? 

2023年12月10日 17時44分43秒 | ピンボール・メカ

前回までラスベガス巡礼の記録を7回に渡って掲載している間に、拙ブログではおなじみのカナダのCaitlynから、「このオークションに友人と入札しようと話し合っているのだが」と、日本のネットオークションに関する相談を受けました。そのオークションはワタシにとっても非常に興味深いものだったので、「ワタシもオークションに協力したい」と返答し、まずはその時点でビッドできる最低額で入札しました。オークションはそのまま終了直前まで平穏に進んでいたのですが、終了15分前くらいから動きが活発になり、最終的には我々が想定するよりもはるかに高い額に跳ね上がってしまって、残念ながら勝つことはできませんでした。

オークションサイトのスクリーンショット。終了寸前まで1100円だったものが最後に51000円まで高騰して終了した。

このオークションで出品されているのは、「スーパーホームランゲーム」というゲーム機のフライヤーです。ワタシはこれまでこのゲーム機について見聞したことはありません。写真を見るとどうもフリッパー機のようです。Caitlynは「ひょっとするとこれは1965年発売の『クレイジー15(こまや)』(関連記事:初期の国産フリッパー・ピンボール:「クレイジー15ゲーム」)よりも古いものではないか」と言っていますが、オークションページの商品説明にはこのフライヤーが作成、頒布された時期が特定されていません。

「スーパーホームランゲーム」は、得点の表示を、機械式のリールではなくランプの点灯で行っているようです。このようなピンボール機は、米国では1940年代から1961年までの間に製造されています。しかし、その事実だけでは「スーパーホームランゲーム」が「クレイジー15」よりも古いとする根拠にはなりません。

フライヤーは二つ折り4ページで、表紙、見開いた状態、裏表紙の3つの画像があります。表紙の冒頭では「日本遊戯機械生產史上に一大エポックを劃する/”最豪華遊戯の決定版”/スーパーホームランゲーム/PH-51型」と謳って、ピンボールに興じている人たちの写真が掲載されています。

フライヤーの表紙の画像。(推奨サイズでなるべく大きく表示するため歪みを補正してトリミングしてある=以下同じ)

ここで気になるのは、「日本遊戯機械生史上」の言葉です。これはつまり、「スーパーホームランゲーム」は日本国内で製造していると言っているように読めます。

続く2枚目の画像はフライヤーを見開いた図で、左ページは製品のアピール、右ページは機械の各部名称の説明図となっています。

フライヤーを見開いた内側の画像。フリッパーを「バット」と呼んでいる。

この見開きの左ページでも、「日本遊戯機械の革命」、「アメリカン遊戯の王座ピンボールマシンの日本版」と述べて、国内で製造されたものであることを示唆しています。

最後の画像はフライヤーの裏表紙で、ここでも「幾多の苦心と技術的ハンデーキヤツプを乗越へ遂にここに結実した弊社が斯界に誇る遊戯機械の最豪華版」と、自社で開発製造していると読める宣伝文句が謳われています。

フライヤーの裏表紙部分。

裏表紙にはさらに、社名や関連施設及びその所在地と、「直営宣」としている「アタミセンター」の画像が掲載されています。「アタミセンター」は二階建てで、ネオンサインの背後の壁には何か文字が見えるのですが、やっと判読できたのは「高級喫茶」と「階上」の二つだけでした。ただ、このことから、アタミセンターはもともと娯楽施設であったことが推察されます。

フライヤーには年代を特定できる具体的な記述がないので、ワタシは裏表紙に記載されている三つの所在地に注目してみました。もし町名変更などで現存しない地名があれば、このフライヤーは少なくともその名が消える以前に作られたことなります。

すると、「アタミセンター」の所在地として記述されている「熱海市浜町(はまちょう)」が現存しないことを発見しました。現在、「浜町」の名は、「浜町観光通り」と「浜町通り」の二つの道路と、「渚町」と「銀座町」が属する町内会の名称としてのみ残っており、町名としては残っていません。しかし、「浜町」がなくなった時期がどうにも特定できません。

ならばということで「渚町」と「銀座町」がいつできたかを調べたところ、「銀座町」については詳しいことはわかりませんでしたが、「渚町」は「クレイジー15ゲーム」が売り出された後の昭和42年(1967)の住居表示実施により成立していることが判明しました。これでは「スーパーベースボール」の方が古いと主張する証拠もしくは傍証にはなりません。残念ながら地名から特定することはできませんでした。

次に、フライヤーに書かれている日本語に注目してみました。フライヤーの文言には、拗音や促音を大文字で記述する歴史的仮名遣いと、「」や「」と言った旧字体が見えます。

仮名遣いが現代仮名遣いに改められたのは昭和21年(1946)、漢字が新字体に改められたのは昭和24年(1949)に、それぞれ内閣の告示があったとのことで、どちらも「クレイジー15」よりも圧倒的に早いです。ただ、これら旧日本語は告示の直後に完全に無くなったわけではなく、古い人の中には告示後も歴史的仮名遣いや旧字体を使い続ける人もいたので、完全な証拠にはなりません。とは言え、「スーパーホームランゲーム」が「クレイジー15」よりも古いものである可能性を思いつくには十分な状況証拠とは言えそうです。

Caitlynの考察によれば、「スーパーホームランゲーム」は、どうも米国製ピンボール機をコピーしたもののようです。詳しくは彼女自身のブログ1950年代~ スーパーホームランゲーム [PH-51型] by 東洋プレーイングマシン」で述べられていますので、拙ブログをご高覧下さる皆様にもぜひご覧いただきたいと思います。

そして、どちら様でも、この「スーパーホームランゲーム」及びメーカーである「東洋プレーイングマシン」について何かご存じのことがございましたら、ぜひともコメント欄にてご教示いただけますようお願い申し上げます。


全てが謎に包まれたゲーム機「V-マックス」(サニー東京、1969以前)

2023年09月17日 21時16分37秒 | ピンボール・メカ

日本のAM業界は、かつて娯楽機メーカーが発表・発売した遊戯機のリストを毎年発行していました。発行者はその当時のAM業界団体(正確には業界団体に関連する団体または出版社)ですが、業界団体はこれまで何度も再編を繰り返しており(関連記事:AM産業と業界誌の謎(3))、一貫していません。また、誌名も「遊戯機械年鑑」、「コインマシン名鑑」、「遊戯機械総合年鑑」と、たびたび変更されています。ここでは、これらをまとめて単に「年鑑」と呼ぶことにします。

現在ワタシが確認している最古の年鑑は「’69遊戯機械名鑑」です。奥付を見ると、発行は当時の業界団体である「全日本遊園施設事業協同組合」の「全日本遊園編集局」で、定価は1600円と書かれていますが、発行年が記載されていません

「’69遊戯機械名鑑」の表紙。広告も含んで200ページ以上あるが、発行年月日が記載されていない。

実はこれが厄介で、誌名に「’69」と謳われているからと言って、実際にこの年鑑が売り出された時期が1969年であるとは言い切れません。何か突き止める手掛かりはないかと年鑑に掲載されている企業の広告を見ると、「昭和44年(注・1969年)8月まで笠原では大型娯楽機を217基製作いたしました」と謳うものがあるかと思えば、「スピードとスリルで1970年の人気独占!」と謳うものもあります。

もう一つ厄介なのは、この’69版の年鑑には、明らかに1968年以前に発表・発売された機械も含まれています。例えばセガの「パンチングバッグ」は、セガ自身が1966年に発行した「値段表」に掲載されています。つまり、この年鑑は機械の初出時期を調べる資料にはなりません。

「’69遊戯機械名鑑」に掲載されているセガのパンチングバッグ(左下)。しかし、これはセガが1966年に発行した値段表に掲載されているもので、1968~1969年に発表・発売されたものではない。

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例によって前置きが長い拙ブログですが、今回採り上げるテーマは、その「’69遊戯機械名鑑」に記載されている「V-マックス」(サニー東京、製造年不明)というゲーム機です。前置きで述べたように、初めて発表・発売された時期は、この資料だけではわかりません。

上は「’69遊戯機械名鑑」86ページ。左上に「V-マックス」が見える。下は「V-マックス」の部分を拡大したもの。

わからないのはこの機械の初出年だけでなく、どんなゲームなのかもまるで見当が付きません。見れば箱型筐体の右側面には手前に引くレバーがあり、更に台の下にはコイン状のものがあふれていて、スロットマシンの一種のように見えます。しかし、日本のAM業界にメダルゲームというジャンルが定着するには1972年関連記事:「メダルゲーム」という業態の発生から確立までの経緯をまとめてみた)まで待たなければならず、1969年と言えば、やっと、後にメダルゲームの盟主となるsigmaの真鍋勝紀氏が、新小岩と渋谷のボウリング場の一角でメダルゲームの実験店舗を始めたばかりの頃です。V-マックスが掲載されているページには、隣に「ニュー・オリンピア」が掲載されているので、風俗営業機であった可能性も考えられますが、これまでパチスロの歴史に関する資料でこの「V-マックス」に触れているものを見た経験がありません。

なお、製造年はわかりませんが、サニー東京は「V-MAX 8」というゲーム機も売り出しており、こちらはプライズ機のようです。

拙ブログに時々コメントをくれるカナダのエレメカ研究家、Caitlyn Pascalのウェブサイト「外国人のためのエレメカアーケードゲームガイド」よりいただいた「V-MAX 8」の画像。フライヤーから切り取られた部分の画像のように見えるが、これもどんなゲームなのかよくわからない。

「V-マックス」は、1971年9月に刊行された「’72コインマシン名鑑」にも掲載されていて、ある程度の期間に渡って販売されていたようですが、他の情報が全くありません。どなたか、「V-マックス」についてご存じのことがございましたら、ぜひともお話をお聞かせいただけませんでしょうか。


セガのエレメカ機「MOTOPOLO」 (1968)

2023年06月25日 13時45分02秒 | ピンボール・メカ

ポロ(polo)」とは、ホッケーとよく似たスポーツですが、ホッケーと違うところは、選手は馬に乗って競技を行う点にあります。起源は古く、紀元前のペルシャで軍事訓練として行なわれ、19世紀になって英国で現在のルールが制定されたのだそうです。

ポロの馬をオートバイにした「モーターサイクル・ポロ」は20世紀に入ってからやはり英国で考案され、現在は「モトボール (Motoball)」と呼ばれてフランスを中心とする欧州で人気があるらしいです。

セガは1968年、このモーターサイクル・ポロをテーマとする「モトポロ (MOTOPOLO)」を発売しました。

「MOTOPOLO」のフライヤーの表裏。「セガの誇る技術陣が遂に開発!!」と謳っている通り、そのメカは当時としては相当の工夫があったと思われる。

実際のモーターサイクル・ポロでは、ボールは足で蹴りますが、モトポロでは足の代わりに横向きのU字型の針金がバイクの左右両脇に取り付けられています。

モトポロのバイク。両脇に横向きのU字型の針金が取り付けられている。

バイクの操作は、プレイフィールドの下に隠れているX-Yプロッターのような機構で行っています。この機構はセガが後の1970年代初頭に発売した「アタック」や「ルナレスキュー」(関連記事:(予定変更)70年代のセガのエレメカゲーム「ATTACK」とそのシリーズ 及び 大阪レゲエ紀行:エレメカ研究所(大阪・北区中崎町)その2)でも応用されていますが、「MOTOPOLO」のメカ動作はそれらよりもずっと速いです。

ただ、この機構だと同一のプレイフィールドに2つのバイクを置くことができません。そこで「モトポロ」ではバイクを動かす機構を自陣と敵陣にそれぞれ1台ずつ置き、2台のバイクは決して交わらないようになっています。いうなれば、「モトポロ」は「エアホッケー」を機械の操作で行っているようなゲームです。余談ですが、ウィキペディア英語版の「Air hockey」には、「1968年、セガはエアホッケーに似た「モトポロ」と言うエレメカゲーム機をリリースした」との記述があります。

(参考画像)エアホッケー(ブランズウィック、1971)のフライヤー。このゲームについてもいつか言及したい。

ところで、「モトポロ」は米国にも輸出されているはずなのですが、パクりパクられが常のコインマシン業界にあってそのコピーを見たことが無いのは、ワタシが単に寡聞だからなのでしょうか。なお、「モトポロ」は「'69遊戯機械名鑑」にも掲載されていますが、同書には似たゲーム内容でもっと単純な仕組みの「ホッケーゲーム」や「アイスホッケー」が掲載されており、こちらに食われたということはなかったでしょうか。

「'69遊戯機械名鑑」に「MOTOPOLO」とともに掲載されている「ホッケーゲーム」と「アイスホッケー」。これらのルーツも米国にありそう。

この「モトポロ」は、2023年6月現在、「デックス東京ビーチ」内の「台場一丁目商店街」にある「一丁目プレイランド」にプレイヤブルな状態で設置されています。二人プレイ専用で、一人ではゲームとして楽しむことができないのが難点ですが、他にもピンボール機や80年代以前のビデオゲーム機もありますし、また一丁目商店街自体が昭和の雰囲気を再現することを意識した施設なので、レトロゲームファンには楽しめるスポットだと思います。

「一丁目プレイランド」の「MOTOPOLO」。状態はかなり良さそうに見える。


前回記事「謎のピンボール『Fathom (Bally, 1981)』」の後日談

2023年02月05日 21時14分32秒 | ピンボール・メカ

前回の記事「謎のピンボール『Fathom (Bally, 1981)』」で、「Fathomなんて記憶にない」、「ひょっとすると日本には輸入されていないのかも」などと述べたところ、二名の方より「日本にもあった」と教えていただきました。どうもありがとうございました。そしてお二人のお話では、設置されていたのは片や大阪のナムコランド、片や東京のプレイシティキャロットと、どちらもナムコのロケだった点で一致していました。

海外製品のディストリビューターを兼ねる大手メーカーがオペレートするロケでは、設置する機械の大部分を自社で取り扱う製品で固めるのが通例です。ワタシに見た覚えがなかったのは、Fathomはナムコがディストリビュートしており、セガやタイトーは自社ロケに導入しなかったからなのかなあと思うことで納得しておこうと思います。

なお、IPDBによれば「Fathom」がリリースされたのは81年8月とのことなので、1981年のAMショウ(81年10月開催)以降82年8月までに製造、販売、発表された機種を収録している「遊戯機械総合年鑑’82」に掲載されていてもおかしくはないものです。

遊戯機械総合年鑑’82のピンボールのページ。この中に「Fathom」はない。

折からのビデオゲームブームの影響か、遊戯機械総合年鑑’82には、ピンボールはわずか2ページ、8機種しか収録されていません。そしてワタシはこれら8種のピンボール機を(当然ながら)すべてどこかで見た覚えがあるというのに、よりによって「Fathom」だけがワタシの意識から避け続けていたのは、まったく狐につままれた思いです。

ところで、前回の記事で掲載した画像はCaitlynが送ってくれたものですが、多くの人が写っていたので「Fathom」の部分のみ切り取っていました。しかしその後Caitlynから、こちらならブログに掲載しても構わないとして、人が写っていない現場の画像を送ってくださいました。

Caitlynから送られてきた画像その1。左から「Flicker (Bally, 1975)」、「Card Whiz (Gottlieb, 1976)」、「Solar Ride (Gottlieb, 1979)、「Bobby Orr Power Play (Bally, 1978)」、そして「Fathom (Bally, 1981)。

Caitlynから送られてきた画像その2。左から「Dixieland (Bally, 1968)」、「Icarus (Recel, 1977)」、「Fathom (Bally, 1981)」、「Quicksilver (Stern, 1980)」、「Eight Ball De Lux (Bally, 1981?)」

ワタシはランプレーンや多階層を多用する機種よりも平面的なフィールドを好むので、ここにある機種はどれも大変魅力的に見えます。そして、よりによってワタシが知らなかった「Fathom」が2台もある意味が不明ですが、ここでプレイができるCaitlynが大変羨ましいです。


謎のピンボール「Fathom (Bally, 1981)」

2023年01月29日 18時32分37秒 | ピンボール・メカ

本日29日の未明、拙ブログではおなじみのカナダのCaitlynから、「今、ピンボールトーナメントに参加している。その風景を見せたくて」とのメッセージとともに2枚の画像が届きました。どうやら個人のピンボールコレクターが自宅の屋根裏部屋にマシンルームを作って、仲間を招いてプライベートのピンボール大会を行っているようです。画像には全部で10台のピンボール機が写っており、このような環境が持てることに大変羨望を感じるのですが、これらのコレクションのうち、1台だけ見たことも聞いたこともないマシンがありました。

Caitlynから送られてきた画像の中にあった、ワタシが見たことも聞いたこともない1台。まだCaitlynから画像の掲載許可を得ていないため、部分のみ切り出している。

スペインとかフランスとかベルギーなど欧州産の機械なら知らない機種があってもさして驚きませんが、このフロントドアはBallyが1972年以来使い続けているものです。ワタシは、米国の三大ピンボールメーカー(Bally、Gottlieb、Williams)の1960年台半ば以降の機械は殆ど把握しているつもりだったので、大変に当惑しました。そもそも、バックグラス部分を拡大してもタイトルの読み方すらわかりません。

バックグラス部分の拡大図。画質があまり良くない上に隠れている部分があり、詳細がよくわからない。隣は「Bobby Orr Power Play (Bally, 1978)」。FATHOMと同じフロントドアを持っている。

思い当たる可能性で検索を繰り返して、タイトルには「FATHOM」と書いてあることはわかりました。オンライン辞書で調べると、名詞的用法として「主に海で用いる長さの単位(6フィート)」、動詞として「(海などの)深さを測る」と言う意味で、その比喩的な用法として「推し測る」、あるいは「探る」などの意味があるようです。改めてバックグラスを見ると、ヘビか竜のような体の長い生物と、深海魚のような魚が描かれているように思えます。

メーカーとタイトルが判明すれば、IPDBで調べることができます。さっそく調べると、Ballyが1981年にリリースしたもので、3500台しか生産されていないことがわかりました。IPDBにはバックグラスの詳細がわかる画像やプレイフィールドの画像などもありますので、ぜひ上記ハイパーリンクから参照してみていただければと思います。

IPDBにはFATHOMのフライヤーも掲載されていました。その内容は、マンガでこの機械のストーリーを語る、ちょっと変わった形式のものでした。

FATHOMのフライヤーのおもて面(上)と裏面の冒頭(下)。このゲームのストーリーが、裏面の冒頭まで続くマンガで描かれている。画像はIPDBより拝借。

せっかくなのでマンガも読んでみようと、四苦八苦しながら超訳してみました。

********* 以下、フライヤーのマンガの超訳 ***********

FATHOMの謎 バミューダの沖合のどこかで
作・Greg Freres 画・Kevin O'connor

男:奴はなんだってこんなところに一人で潜ったりしたんだろう。奴は俺たちを待ってるだろうから行ってくるよ。
女:救助隊を待った方がいいと思うの。まだ酸素も残ってるだろうし。
男:心配ないよ。たぶん海底洞窟で迷っているんだろう。5分で戻るよ。救助隊が到着するのはその後さ。
女:胸騒ぎがする。ゆうべ土地の老人が海の妖精や人魚の話をしなければ良かったのに。
女:あんなのただの作り話よね。訪れるダイバーを楽しませるための・・・ え? あれは? あれは何?
女:何なのこの泡! 彼に何かあったんだわ! 救助隊はまだ? 助けて! 誰か助けて!
(次ページ)
女:たすけてええええ!!

救助隊は間に合うのか? 老人の話はただの作り話? FATHOMを遊んで謎を解明せよ!

********* フライヤーのマンガの超訳ここまで ***********

マンガはなんともスリルとサスペンスに溢れるところで終わり、先を知りたければFATHOMを遊べ、と言うストーリーにしています。まあ、これもアイディアだとは思います。

さて、ここまで調べはついたものの、やはりワタシにはこの機械に思い当たる記憶はありません。遊戯機械総合年鑑の81年版、82年版、83年版も調べてみましたが、いずれにも記載はありませんでした。生産台数は3500台と比較的少なく、ひょっとすると日本には輸入されていないのかもしれません。もし、この実機を見たことがあるという方がいらっしゃいましたら、いつごろ、どこでご覧になったのか、コメント欄でお知らせいただけると嬉しいです。

最後に余計な蛇足。フライヤーのマンガに描かれる女性キャラは、黄色いビキニと髪の色が一致しているから同一人物と理解するものの、コマごとにずいぶん顔が違います。アメコミはキャラの顔の描き分けがずいぶんいい加減だとはかねがね感じていましたが、この辺の感覚が日本とは違うのでしょうね、たぶん。

フライヤーのマンガに描かれる女性キャラ。ストーリー上ではこれらは全部同一人物とされている。