オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

【特報】パチンコ誕生博物館オープン(1)

2020年06月28日 22時05分24秒 | 歴史
今から12年前の2008年、「パチンコ誕生」という本が上梓されました。著者は版画家を本業とする杉山一夫さんという方です。


パチンコ誕生(杉山一夫著 創元社刊 ISBN978-4-4422-21013-1 3200円)。

この本には、杉山さんが独自のアプローチでパチンコのルーツを追求した過程とそれによって得た結論が記されています。それに至るまでの調査対象には、国内の遊技機はもとより、海外の遊技機とその特許資料にまで及んでおり、並々ならぬご苦労が察せられる大変な労作です。

杉山さんはパチンコ業界の関係機関などに同書を寄贈し、自身のコレクションを寄贈することまで含んで文化保存を訴えましたが、パチンコ業界は自らの産業を文化として保存、伝承しようという意思が極めて希薄で、杉山さんのプレゼンを聞くときは興味深そうな様子を見せるものの、その後具体的な行動を起こしてくれることはなかったそうです。そんな状況に業を煮やした杉山さんは、今年になって自宅を改造して「パチンコ誕生博物館」という私設博物館を開設し、今日6月28日にオープンされました。そしてワタシは本日、その観覧者第一号としてお伺いして参りました。





パチンコ誕生博物館のパンフレット(4ページ)。



パチンコ誕生博物館の絵葉書。

今回はその博物館の様子をご報告するつもりでおりましたが、本日はもう時間が無いため、とりあえず「パチンコ誕生博物館」のご紹介に留め、次週にもう少し詳しいご報告をしたいと思います。
なお、以下にパチンコ誕生博物館の情報を記載しておきますので、ご興味を持たれた方はぜひアクセスしてみてください。

パチンコ誕生博物館公式ウェブサイト
http://www.pachinko-tanjo.com/

開館日:毎週日曜日(1日3回の入れ替え制・公式ウェブサイトより要予約)
観覧料:500円

溜め込んだ資料類の将来を案じて憂鬱になるの巻

2020年06月21日 19時53分20秒 | その他・一般
コレクションをされている方々の中には、「ソレはどこかにあったはずだが、はて、どこにしまったっけか」というアイテムの一つや二つ、あることでしょう。ワタシも先日、10年ぶりくらいに押し入れを整理していたら、AMゲーム関連のコレクションをいろいろと「発掘」してしまいました。

発掘されたコレクションのほとんどは、既にデジタルデータ化しているフライヤー類だったので、最悪現物がなくなっても参照することは可能です。しかし、まだデータ化していないものもいくらか残されています。

データ化していないコレクションの中には、「スーパーソフトマガジン」全14冊があります。これは、「マイコンBASICマガジン」という月刊雑誌が、1983年11月号から84年12月号にかけて付録に付けていた冊子です。


ワタシが持つスーパーソフトマガジン全14冊。1984年7月だけなぜか2冊あるのは、うっかり重複して買ってしまったのだとは思うが、確かな記憶がない。

我が家にもスキャナー機能付きのプリンターはあるのですが、なにしろ一般家庭用の機械なので、動作が遅い、見開きではスキャンできないなど制約が多く、このすべてを自炊するというのはあまり現実的なアイディアとは言えません。

そこでコンビニに行き、店内の複合機で1冊だけスキャンしてみたところ、さすがに業務用機だけあって、見開きで見当を付けられるだけでなく、高速にスキャンできるので快適でした。しかし、1冊全部をスキャンすると540円の費用がかかります。この調子で全14冊をスキャンすると、トータルで7560円かかる計算です。家でスキャンする苦労を思えば我慢しなければならない程度の金額だとは思いますが、少し悔しい気はします。

さて、実は今回の話の本題はこれからです。1か月ほど前、孤独死したマニアのコレクションがゴミとして回収されることのむなしさをツイートした方がいらっしゃいました

これを読んだワタシは、他人ごとではないと感じました。ワタシの手元にも、然るべき人が見ればお宝と呼べるコレクションがいくらかあります。もしワタシが死んだら、これらはいったいどうなってしまうのだろうと心配になりました。

一度愛好家の手に渡ったコレクティブルアイテムが再び一般市場に放出されることはあまりありません。その愛好家が死んでしまったら、このツイッターの例のようにゴミとして焼却され、コレクションはこの世から完全に消滅してしまうことはよくあることだと思います。ワタシは最近、そうなる前に二束三文でもいいから誰かに売り払ってしまうという選択肢も考えます。先にご紹介したツイートのリプライには、価値がわからない遺族が法外に安い値段で売り払ってしまった話が出てきますが、お宝がゴミとして焼却されるよりもずっとずっとマシです。ただ、さらにその先の保証はありませんし、そもそも、ほとんどの人にとってはガラクタですから、買い手が見つかるかどうかも怪しいです。もし引き取ってくれる博物館でもあればタダで寄贈しても良いと思っているのですが、そんな心当たりはありません。

将来どうなるかはわかりませんが、いざというときのためにコレクションの目録でも整備しておこうと思います。

「パチンコ歴史事典」(ガイドワークス, 2017)を勝手に訂正する(2)

2020年06月14日 15時31分02秒 | 風営機
今回も、前回に引き続いて「パチンコ歴史事典」(ガイドワークス, 2017)で気になった点を勝手に訂正します。

今回訂正する箇所は、37ページです。2カ所あり、ひとつは「第三章 1957~1972」における「オリンピアマシン初登場」という段落の記事本文、もうひとつはこのページに掲載されている画像とそのキャプションです。どちらもオリンピアマシン(関連記事:オリンピアというパチスロの元祖についての謎)に関する記述です。

ひとつめの記事本文にはこう記されています(下線はワタシによる)。

オリンピアマシン初登場
 ところで、パチスロの前身機、『オリンピアマシン』が初輸入されたのもこの時代。1964年(昭和39年)にアメリカからスロットマシンとして輸入し、愛知県にある「中日シネラマ会館」という遊技場で稼働させたのが最初だと言われている。
 続く1965年(昭和40年)には東京・銀座に『東宝オリンピアゲームセンター』がオープン。翌年の1966年(昭和41年)ころまでには全国で20軒の専門店が開店したという。
 当時のレジャーの多様化と、スロットマシンの持つモダンな印象もあり、マスコミでは新しい遊技として取り上げられたが、人気は持続せず、やがて姿を消していくことになった。



パチンコ歴史事典の37ページ目。

ふたつめの、画像のキャプションにはこうあります(下線はワタシ)。

1964年に初輸入された「オリンピアマシン」(写真左)と、翌年の1965年に東京・銀座に開店した専門店「東宝オリンピアゲームセンター」(写真上)。


37ページの、オリンピア関連の画像部分のアップ。

まず、これらの記述は、オリンピアマシンは1964年に海外から輸入したものとしていますが、それは事実と異なると言わざるを得ません。なぜならば、警察はこれよりずっと以前に、スロットマシンは違法なギャンブル機であると言う結論を出しているからです。「パチンコ誕生」(杉山一夫著・創元社刊、2008年)という書籍の90ページに、昭和29年(注・1954年)11月18日付けの朝日新聞の記事が引用されていますので、孫引きさせていただきます。

スラップ・マシン トバクと断定
喫茶店で開帳、六人検挙

スラップ・マシンはトバクかどうか、と警視庁は法務省と研究中だったが、このほどトバク器と断定、十七日夜までに一味六人をトバク容疑で逮捕した。 (中略)
 この器械はタテ六十センチ、ヨコ三十センチぐらいの器械で、米軍用のものが流れてきたものらしい。十円玉を入れハンドルを引きリンゴ、モモなど同じ柄が三つ並ぶと十円玉十個がとび出てくる仕組み。
 二十六年三月業者から遊技器として営業許可の申請が出てそのままとなっていたが、このほど当局が研究しところ「技術性がない。まるっきり偶然性をねらう」ことがわかったので手入れとなった。


朝日新聞記事中の「スラップ・マシン」は、ひょっとすると「スロット・マシン」もしくは「スラグ・マシン」(関連記事:「メダル」と「メダルゲーム」という呼称についての備忘録(1))の誤記ではないかと思います。スロットマシン(リールマシン)が日本に入ってきたのは、戦後、米軍基地が日本に置かれてからのことだったので、多くの日本人にとって、まだスロットマシンというものに対する理解がほとんどなかったことによるものと思われます。

それはともかくとして、この朝日新聞の記事は、1954年、すなわちオリンピアが風俗営業機としての許可を得る昭和39年(1964年)の10年も前に、当局(警視庁と法務省?)によって、スロットマシンは違法なギャンブル機と結論付けられ、逮捕者すら出ていることを伝えています。そして、その後その判断が覆るような社会的変化があったわけでもないのに、輸入されたスロットマシンがそのまま風俗営業機オリンピアとして中日シネラマ会館で稼働するとは到底考えられません。

さらに、初めてのオリンピアマシンが本当に「輸入」されたものなのかという疑問があります。「1964年に初輸入された「オリンピアマシン」とのキャプションが付いたスロットマシンの画像は、現存するパチスロメーカーである「株式会社オリンピア」社(この会社自体は、1964年に風営許可を得たオリンピア・マシンの製造販売には関係していない)のウェブサイト中にある「遊技機産業の歴史」ページに記載されている「オリンピアマシン」の画像と同一です。そして株式会社オリンピア社はその画像に「写真提供:(C)パチンコ百年史(アド・サークル)/山田清一氏」との権利表記を付しています。

この「パチンコ百年史」は、「パチンコ歴史事典」に資料協力しているアド・サークル社の刊行物であるとのことですので、パチンコ歴史事典の記事を書くにあたっては大いに参照されていたことと思います。ワタシはこの本を読んだことが無いのであまりうかつなことは言えませんが、おそらくこの「パチンコ百年史」におけるオリンピアの記述にはあいまいな部分があり、それを「パチンコ歴史事典」ではライターの推測または憶測を交えて記事にしているのではないかと感じます。

そもそも、「パチンコ歴史事典」(と、株式会社オリンピアのウェブサイト)で「オリンピアマシン」として掲載しているスロットマシンは、セガが1960年前後ころから日本で生産を始めた「スター・シリーズ」の筐体(関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(3) セガのスロットマシンその1)であり、海外に輸出されることはあっても、海外から輸入されることは極めて考えにくいものです。そして画像の機械は、スキルストップボタンが付かない、オリンピアマシンに改造される以前の筐体であって、正しくオリンピアマシンと呼べるものではありません

もう一つの下線部、「1965年(昭和40年)には東京・銀座に『東宝オリンピアゲームセンター』がオープン」の部分についても疑問が残ります。昭和42年(1967年)1月9日付の報知新聞では、「昨年(注・記事の掲載時期から1966年のことと思われる)の暮れまでに全国に二十軒のゲーム場が開店した。十二月に開店した東京・有楽町の東宝オリンピア・ゲーム・センターは百台の機械を持ち(後略)」とあります。この記事を素直に読めば、東宝オリンピアゲームセンターがオープンしたのは1966年(昭和41年)の12月ということになります。

また、報知新聞による報道のおよそ3週間前、昭和41年(1966年)12月20日付のデイリースポーツでは、「人気呼ぶ遊びの”新兵器” オリンピア・スター」という記事を掲載しており、その中で「都内では銀座ニュートーキョー裏のビルに百台(注・これが東宝オリンピアゲームセンターだと思われる)、浅草新世界に九十台、新宿に2軒で三十台ずつだが、近日中に新宿劇場内にも開店、北海道や九州にも誕生が予定されているなど隆盛が予想されている」と記述されており、これらの報道から見て、東宝オリンピアゲームセンターの開業時期を1965年と認識することは難しいです。

以上から、「パチンコ歴史事典」37ページのこの部分は、以下のように勝手に訂正したいと思います(下線部が訂正箇所)。

オリンピアマシン初登場
 ところで、パチスロの前身機、『オリンピアマシン』が初登場したのもこの時代。1964年(昭和39年)に風俗営業機としての認可を受け、愛知県にある「中日シネラマ会館」という遊技場で稼働させたのが最初だと言われている。
 1966年(昭和41年)には東京・有楽町に百台のオリンピアマシンを設置する『東宝オリンピアゲームセンター』がオープンした他、全国で20軒の専門店が開店した
 当時のレジャーの多様化と、スロットマシンの持つモダンな印象もあり、マスコミでは新しい遊技として取り上げられたが、人気は持続せず、やがて姿を消していくことになった。


また、写真およびそのキャプションについても以下のように訂正しておきます(下線部が修正箇所)。


差し替え用のオリンピア画像

1964年に風俗営業機としての認可を受けた「オリンピアマシン」(写真左)と、1966年に東京・有楽町に開店した専門店「東宝オリンピアゲームセンター」(写真上)。

蛇足になるとは思いますが、ワタシは前回の記事でも申し上げた通り、風俗4号営業の業界が文化保存に無関心と言っても過言ではないほど極めて消極的な中、「パチンコ歴史事典」はたいへんに貴重な資料であると認識しています。ただ、何事も誤りが含まれてしまうことは避けられないので、後に続く者がそれを修正していくことはより資料的価値を高めていくことになると信じてこの記事を公開するものであることを、ご高覧下さる皆様には何卒ご理解いただきたいと思います。

(このシリーズ終わり)

「パチンコ歴史事典」(ガイドワークス, 2017)を勝手に訂正する(1)

2020年06月07日 22時23分14秒 | 風営機
パチンコ歴史事典」というムックがあります。2017年に「ガイドワークス」という出版社から発売されたもので、著者に相当する部分には「【監修・資料協力 アド・サークル】 パチンコ必勝ガイド編」とあります。


「パチンコ歴史事典」の表紙。写真の釘構成は「正村ゲージ」と呼ばれるもので、その後のパチンコのデファクトスタンダードとなる画期的なものだった。

編者とされている「パチンコ必勝ガイド」とは、1980年代末頃から続いているパチンコの攻略雑誌の老舗の一つです。元は「白夜書房」社から刊行されていましたが、その子会社が賭博行為を行う携帯電話サービスを提供したとして2012年に社長を含む3人が逮捕されたため、パチンコ・パチスロメーカーが同社の取材を拒否するようになり、白夜書房社からスピンオフしたガイドワークス社が発行するようにして存続させたと聞いています。

「監修・資料協力」の「アド・サークル」とは、パチンコ業界誌「月刊グリーンべると」などを発刊する出版社で、1964年に設立された老舗です。また、一昨年までは「王様手帖」という月刊のフリーペーパーを発行し、パチンコ店で配布されていました。ワタシも1970年代後半から1980年代前半くらいにかけて、かつて自由が丘にあった「バロン」というパチンコ店(現在は「すしざんまい」という寿司屋になっている)でこの王様手帖を入手し、結構な量をため込んでいたのですが、引っ越しのどさくさで紛失してしまいました。返す返すも残念でなりません。

ところで、パチンコ(パチスロも含む)という産業の始まりから現在に至るまでの推移を記した書籍類はそれほど多くはありません。その理由の一つには、業界の歴史を検証できるような資料があまり残されていないことがあると思います。

パチンコ業界は、今どうやってお金を儲けるかには熱心ですが、自身の産業を文化として捉え記録に残しておくという発想は極めて希薄なように見えます。業界団体の会報や業界誌紙には資料となる情報がいくらか残されていますが、数少ないパチンコの歴史本を見ても、業界関係の古老からの聞き取りや独自の調査など個人の努力により発掘された資料に頼っている部分が非常に大きいです。こんな状況ですから、パチンコのルーツも、「有力な説」はあっても、「定説」と呼べる確定した結論は出ていません。

「パチンコ歴史事典」は、このような厳しい状況の中、乏しい資料をかき集めて編み直し、その始まりから近年までの推移を200ページ以上にわたって詳しく伝えてくれる労作です。写真も多く、眺めているだけでも楽しい一冊で、少々高いですが、手元に1冊置いておきたい本です。

しかし。残念なことに、この「パチンコ歴史事典」には、必ずしも正確ではない記述が散見されます。この辺は、学術書ではなく、あくまでもパチンコ攻略雑誌の編集を本業とする人々の限界なのかもしれません。そこで今回は、目に余った部分を一カ所、勝手に監修・訂正してしまおうと思います。

問題とする個所は、1973年~1977年までの状況を述べる第4章の51ページから52ページにかけて記述されている、「アメパチと呼ばれたスロットマシン」の段落です。



「パチンコ歴史事典」の51ページ(上)と52ページ(下)。

この部分の記述は以下のようになっています(下線はワタシによる)。

アメパチと呼ばれたスロットマシン
 同じころ、パチスロも着々と後の浸透への下地作りが行われていた。前後するが1975年(昭和50年)には『オリンピアマシン』に次いで支持があったアメリカ・バリー社のスロットマシンが登場し、続く1977年(昭和52年)には初の国産アップライト型スロットマシン、『ジェミニ』が登場。
 『ジェミニ』は国産だが、筐体や主要部品には前述のバリー社の製品が流用されたこともあり、まだパチンコと同じサイズではなかった。(後略)


この文章はどう解釈するべきなのでしょうか。ここで書かれていることは、
 (1)1977年までの期間には、(パチンコだけでなく)パチスロでも(現在の発展の)下地作りが行われていた。
 (2)1975年にバリー社のスロットマシンが現れ、オリンピアに次ぐ支持を得た。
 (3)そして1977年、バリー社の製品を流用して作られた初の国産アップライト型スロットマシン、ジェミニが登場した。

という風に分解できると思います。しかし、米国のバーリー(拙ブログでは「バリー」ではなく「バーリー」と記述する)社のスロットマシンが、オリンピアマシンと同じ土俵である風俗第7号(当時の区分)営業に使われた例はありません。下線部の「オリンピアマシンに次いで支持があった」とは、どのような比較での評価なのでしょうか。

仮に、バーリーのスロットマシンがメダルゲーム機としてオリンピアに次いで支持があったという意味であったとしても、それは事実に反すると思います。AM業界でメダルゲームという業態が本格的に展開されたのは1972年のこと(関連記事:「メダルゲーム」という業態の発生から確立までの経緯をまとめてみた)であり、その頃は確かにオリンピアマシンもメダルゲームに転用されていましたが、スロットマシンの主役はバーリー製品であったように思います。

続く「『ジェミニ』は国産だが、筐体や主要部品には前述のバリー社の製品が流用されたこともあり」の部分についてはその通りなのですが(関連記事:歴史の語り部を追った話(4):現代パチスロの祖先とバーリーの関係・その2)、前述の「1975年のバリー」とは文脈的につながりません。

また、ジェミニを「初の国産アップライト型スロットマシン」と形容してしまうのも正しくないと思います。国産のアップライト型スロットマシンと言えば、セガが遅くとも1960年代に製造していますし(関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(3) セガのスロットマシンその1)、そもそもジェミニを「スロットマシン」と呼ぶのは、「メダル」を「コイン」と呼んでしまうことと同じレベルで好ましくないと思います。

と、ここまで考えてきて、この段落で述べたい真意は、1970年代にはパチスロ発展の下地作りが行われてきたという事だと思い当たりました。その嚆矢である「ジェミニ」が登場したのは1977年ですが、開発はもっと以前から行われていたはずで、さらに純粋な開発だけでなく警察から風俗営業の許可を得る手続きの期間もあったはずです。以上の意図を汲んで、ワタシはこの原文を、以下の通り修正したいと思います(下線部が訂正箇所)。

アメパチと呼ばれたスロットマシン
 同じころ、パチスロも着々と後の浸透への下地作りが行われていた。アメリカ・バリー社のスロットマシンを輸入していた業者が、バリー社と交渉して部品を調達し、警察とは風俗営業の許可を得る折衝を行った。そうして1977年(昭和52年)、オリンピアマシンに代わって新たに登場した『ジェミニ』は「アメリカン・パチンコ」もしくは「アメパチ」と呼ばれた
 『ジェミニ』は、バリー社のスロットマシンの筐体及び主要部品を流用していたため、まだパチンコと同じサイズではなかった。


(つづく・次回はもう一カ所、勝手に修正する予定)