オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

ピンボール・ホール・オブ・フェイム(ラスベガス)、移転か?

2018年08月26日 22時51分10秒 | ロケーション
多数の新旧のピンボールゲームをプレイヤブルな状態で公開する博物館として日本ばかりでなく世界のオールドゲームファンにとって聖地となっている「Pinball Hall of Fame(PHoF)」が、現在の所在地から移転する可能性が出てきました。

ラスベガス・レビュージャーナル紙は7月30日、PHoFのオーナー、ティム・アーノルド氏(62)は、ストリップエリアの繁華街の南端に、1.76エーカー(建物は約2500平方メートルを計画)の土地を購入したと報じました。

現在のPHoFはトロピカーナ通り沿いにあり、0.65エーカー(建物は約800平方メートル)の施設の中に200台ほどのピンボール機を設置していますが、ティムが所有するピンボール機は1000台あるとされており、それらはストレージに眠ったままになっています。これでは意味がないと考えたティムは、より広い土地を求めてこの土地を購入したとのことです。

ティムが新たに購入した土地は、ストリップエリアの繁華街の最南端に位置し、カジノホテル「マンダレイベイ・リゾート・アンド・カジノ」の最南端と、ストリップを挟んだ向かいになります。この空き地は、昨年の10月に全米最悪の銃撃事件となった「ラスベガス・シューティング」事件の被害を受けた空き地から1~2ブロック南になります。

ただし、新しいPHoFの計画はまだ確定しておらず、いつ着工されるかについてはまだ白紙状態とのことですので、当分の間は現在の場所で運営が続くようです。これからPHoFを訪れようとされる方は、事前に確認しておくことをお勧めします。


現在のPinball Hall of Fame(PHoF)。所在地は1610 E. Tropicana Ave.。ストリップからトロピカーナ通りを行き来するバス(201)で行くことも可能だが、降りるタイミングがつかみにくいので、タクシーで行く方が無難かも。距離は、ニューフォーコーナーから3㎞程度。帰りは降りるポイントを見失うことは無いと思われるので、バスでの移動でもむずかしくはない。


PHoFの店内の様子。古いエレメカ機やビデオゲームも若干ある。
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ゲームファンタジア・ミラノ:メダルゲーム発祥の地

2017年09月26日 22時35分29秒 | ロケーション
多忙のため更新が遅れております。今週末から今年最後(のはず)のラスベガス巡礼が控えており、今、更新しておかないとまた少し先になってしまいそうなので、なんとか頑張って更新します。

1971年12月18日、メダルゲームというジャンルを確立したsigma社により、新宿歌舞伎町の東急ミラノビルに、日本初の本格的なメダルゲーム場「ゲームファンタジア・ミラノ(以下、GFミラノ)」がオープンしました。

業界誌「アミューズメント産業」72年3月号の特集記事によれば、「地に真赤なジュウタンを敷いたミラノは、まるでお城にでも行ったかのような錯覚さえおぼえる」このロケの設備投資には1億円がかけられたとのことです。当時の1億円と言えば、現在の2.2億円くらい(大卒初任給の当時と現在の比較による推計)になります。ゲーム場が大型化し運営に大資本が関わることが当たり前の昨今ではたいした事もないように聞こえますが、この当時では破格の事であったことは想像に難くありません。

GFミラノは、運営会社であるsigma社がアルゼに吸収され、社名も「アドアーズ」に変更されたころから、「日本初!! メダルゲーム発祥の店」と謳うようになっていました。実際は、sigma社は1969年からメダルゲームの実験店の運営を開始しています(関連記事:「メダルゲーム」の曙を見た記憶)が、実質上という意味ではあながちウソと言うわけでもないとは思います。


GFミラノの店頭に掲げられていた「メダルゲーム発祥の店」の看板。でも、この謳い文句に何かを感じるのはワタシのようなヘンなマニアだけで、「そうか、ではここでメダルゲームでもやってみるか」と思った人はいなかったと思う。

残念ながら、GFミラノ(最終的にはアドアーズミラノ)は、2014年12月23日を最後に、43年と6日の歴史に幕を閉じてしまいました。わずかなりとも救いに感じるのは、ゲームセンターがバタバタと閉店し、アーケードゲーム業界の市場規模縮小が言われて久しい中、GFミラノの閉店の理由が、東急ミラノビルの閉鎖に伴うものとされているところです。

70年代中ころから80年代には、ここの2F(3Fだったか?)にもピンボールビンゴ専門店「BINGO-IN」がありました。そしてまた、sigmaの旗艦店ということもあって、ワタシは、おそらく1978年ころから閉店まで、しばしばこの店舗で遊んでいたのですが、不思議なことに昔のことはあまり覚えていません。印象に残っていることと言えば、78~79年ころ、スギウラという高校時代の友人(関連記事:新宿・ゲームファンタジア・リトルサーカス&ビンゴイン・サブナードの記憶)がここで短期間バイトをしていたこと、フォーチュンコイン社製と思しきビデオスロット(関連記事:ワタクシ的ビデオポーカーの変遷(3) 米国内の動き)や、BINGO-INで「Bally Computer "21"」(関連記事:ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(2)それ以前のビデオポーカー)、そしてなぜか写真ですら残っていない「ザ・ダービー・マークII」を遊んだことくらいのものです。

以下の画像は、GFミラノの店内に掲げられていた、初期のGFミラノの店内を示すパネルを、閉店前日に訪れて撮影しておいたものです。


GFミラノの入口。この画像が開店当時のものかどうかは不明だが、「ルーレットパーティ」の看板とアーチ状のエントランスには覚えがある。


sigmaとメダルゲームの歩みをブリーフィングしたパネル。


店内の様子その1。人っ子一人いないところを見ると、開業直前の様子だろうか。左の壁沿いにセガのダルマ筐体のスロットマシン(関連記事:セガのスロットマシンに関する思いつき話)が並んでいるのが見える。これがオリンピアかどうかは、この写真では判別できない。


店内の様子その2。左側に見えるバーリーの「5-Line Pay(1970)」は、当時としてはほぼニューマシンと言っても差し支えないものだったはず。


このゲーム機は、セガが1975年に発売した「Group Bingo」。ということは、この写真は開店直後に撮影されたものではない。なお、Group Bingoは、セガが1989年に発売した「Bingo Circus」の元ネタである。


上段右の「GOLDEN BALL」は、英国ストリーツ社製のペイアウトゲーム(製造年不明)。sigmaが1980年代終わりころにリメイクしているが、ヒットはしなかった。下段はピンボールビンゴに興じる人たち。


THE DERBY Vφ(関連記事:NASAが発明したゲーム機「ウィナーズ・サークル」)に興じる人たち。これも稼働は1975年からなので、開店当初に撮影されたものではないことがわかる。

これらの写真を見ていると、ワタシが最も馬鹿だった頃を過ごした場所としてむやみに懐かしくなります。他にもいろいろな写真がきっとあったことと思われますが、今でもどこかに保管されているのなら、なんとかウェブ上で良いので公開してほしいものです。
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新宿・ゲームファンタジア・リトルサーカス&ビンゴイン・サブナードの記憶

2017年09月09日 11時29分18秒 | ロケーション
副都心新宿に、「新宿サブナード」と言う地下街があります。今回は、かつてこのショッピングモールにあったゲームセンターの記憶を記録しておこうと思います。

半年ほど前、「ゲーム紙モノコレクターの浅野」さまより、「歌舞伎町のゲームファンタジア・カスタムのポスターを入手したが詳細がわからない。何か情報はないだろうか」と言う趣旨のコメントをいただきました(関連記事:メダルゲームの曙を見た記憶)。

「ゲームファンタジア・カスタム」は、業界に「メダルゲーム」と言うジャンルを確立させたsigma社が、渋谷のボウリング場で始めたメダルゲームの実験店舗に付けた屋号ですが、歌舞伎町にも同名のロケがあったとは聞いたことがなかったので、俄然興味を抱きました。しかし、この時点では情報らしい情報は思い当たりませんでした。

そこで、件のポスターを見てみれば何かヒントがあるかもしれないと思い、浅野さまに画像を送っていただけまいかとお伺いしたところ、すぐにメールで送ってきてくださいました。



ゲームファンタジア・カスタムのポスターの画像。大きいので、上下に分けて撮影されている。「機械ゲーム」などと言う珍妙な表現は、まだメダルゲームの概念が一般に浸透する途上段階で、そもそも「メダルゲーム」という言葉自体がまだ生まれていなかった時代に、sigmaの担当者が苦心して捻り出したコピーなのであろう。(画像提供:ゲーム紙モノコレクターの浅野さま)

ご提供いただいたポスターを見ると、「新宿サブナード・歌舞伎町入口・ロマンの森ビルB1・B2」とあります。全く聞いたこともないビルなのでさっそくググってみましたが、「”ロマンの森ビル”との一致はありません。」と言われてしまいました。しかし、「サブナードの地下1、2階」という条件は、ワタシが70年代半ば頃から90年代終わり頃にかけて良く行っていたゲームセンター「ゲームファンタジア・リトルサーカス」及び「ビンゴイン・サブナード」の立地と符合します。これらの店舗から階段を上って地上に出れば、目の前は靖国通りで、すぐ脇には歌舞伎町一番街の入り口のアーチがありました。

これらを手がかりに手持ちの資料をひっくり返してみたところ、業界誌「アミューズメント産業」の76年2月号に、「アミューズメント施設拝見 ビンゴイン・サブナード店 リトル・サーカス」という記事を発見しました。これには、「sigmaが、ゲームファンタジア・カスタムを大幅に改装し、新たな2店とした」と記述されています。更にダメ押しとして、「これまでの宣伝テーマも”機械ゲームの小宇宙”という抽象的なものであった」とも記されており、浅野さまが入手されたポスターの主体は、ゲームファンタジア・リトルサーカス及びビンゴイン・サブナードの前身という理解で間違いないとの結論に達しました。また、記事中には、「サブナードの開設にあわせたオープン以来注目を集めていた」とあるので、この「ゲームファンタジア・カスタム」は、サブナードが開業した1973年9月に同時に開業したものと思われます。


「アミューズメント産業」76年2月号に掲載された「アミューズメント施設拝見」の記事。入口に置かれたナイスボディなクラウンのポップのモデルはマリリン・モンローで、等身大だそうだ。


同記事より、リトルサーカスの店内の様子。正面に写っている「DEAD HEAT」は、タイトーが1975年に発売した、ビデオによるカーレーステーマのメダルゲーム。この写真撮影時には最新のマシンだった。


同記事より、ビンゴインの店内の様子。店内はミニスイートのホテルの部屋のように段差で二分割されており、上下のフロアを併せて20台ほどのビンゴ機と、いくらかのスロットマシン類が設置されていた。

ワタシは、1976年から1977年頃のリトルサーカスで、その後のsigmaの象徴ともなる「THE DERBY」の1号機である「Vφ(1975)」(関連記事:NASAが発明したゲーム機「ウィナーズ・サークル」)を遊んだり、また、おそらくは米国RAVEN社のキノマシン(類似機種の画像はこちら)を発見したものの遊び方が良くわからず悔しい思いをしたりしていたものでした。

リトルサーカスは、時代によって、メダルゲームよりもビデオゲームが主となることもあり、ワタシが初めてスペースインベーダーを見たのもこのリトルサーカスでした。ワタシは、それは1977年の暮れのことだったように記憶しているですが、後の資料でスペースインベーダーの発売年を「1977」としているものを見たためしがなく、自信が無くなっています。

高校卒業後の1978年から1979年にかけては、「スギウラ」という、なぜかわからないがやたらとカネ回りの良い高校時代の友人と二人で、徹夜でビンゴ・ピンボール(関連記事:都立大学駅前のビリヤード場「アサヒ」とピン・ビンゴ)に興じることも良くありました。その時に店内で良く流れており耳に残っていたBGMが、「Boney M」というグループの「Rasputin(邦題は「怪僧ラスプーチン」)」であることを知ったのは、比較的最近の事です。今、youtubeでこの曲を聴くと、当時の感覚がまざまざとよみがえります。

sigmaのロケは、18歳未満の入場を禁じ、落ち着いた雰囲気の大人の遊び場を志向しており、他社のロケとは一線を画していました。そのため、メダルの貸し出し料金はよそよりも高かった(35枚1000円。のちにビンゴインのみ50枚1000円に値下げした)にも拘らず、ワタシは社会人となってからも、このふたつのロケには時々行きました。

リトルサーカスとビンゴインが入っているビルは、先述の通り靖国通りに面しており、その正面の壁面の地上3Fから4Fにかけてと思しき部分には、sigmaのロゴが大書された看板が掲げられていました。以前、たまたまこのロケで働いていたという方とお話をする機会があった際には、「sigmaの創立者である故真鍋氏は生前、都心の一等地でたいへん目立つこの看板を維持するためにも、リトルサーカスとビンゴイン・サブナードは絶対につぶさないと言っていた」というお話も聞きました。しかし、2000年にパチスロメーカーのアルゼがsigmaに資本参加し、真鍋氏の影響力が弱まると、ゲームセンター業界全体の退潮傾向に伴い、リトルサーカスとビンゴイン・サブナードはどちらも閉店して看板も降ろされてしまいました。ワタシが最後にこの建物を見た昨年の段階では、その場所には消費者金融の看板が掲げられていました。

なお、ゲーム紙モノコレクターの浅野さまは、フェイスブックにてもオールドゲームに関するいろいろな情報を発信されてらっしゃいますので、ご興味のある方は一度ご覧いただければと思います。
https://www.facebook.com/asano.tirasi
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かすが娯楽場(大阪)の記憶

2017年01月29日 22時23分00秒 | ロケーション
ワタシは以前、ユナイテッド航空の囲い込み戦略に取り込まれ、ずいぶん長い期間、年に最低5万マイルを飛ぶという「マイレージ修行」を自分に課しておりました。

東京とラスベガス1往復で、当時は1万数千マイルが溜まりました。従って、1年に4往復すれば、概ね5万マイルに達します。特別なキャンペーンがあれば3往復でも達成できる年もありました。しかし、不慮の出来事により、事前に計算していた通りのマイルが稼げない年もありました。

あと少しマイルが足りないと言うときは、わざわざ他の都市を経由したり、ANAで国内旅行をするなどの工夫をします。2011年の場合は、羽田―大阪を往復しました。日帰りでも良かったのですが、せっかくの機会なので大阪で1泊しました。

ワタシは大阪には土地勘がなく、現地では、電車を利用して適当に知っている名前の場所をうろついたのですが、その中に天王寺が含まれていました。その天王寺で、ワタシはなんともレトロな雰囲気のゲームセンター、「かすが娯楽場」に出会ってしまったのでした。


かすが娯楽場(大阪・天王寺)の入り口付近。

軒先に連なるアサヒビールの提灯や、外壁に掲げられた光看板の「ボッちゃんもトウちゃんも」というコピーは、いかにも昭和を感じさせてくれます。


このコピーは昭和40年代のセンスのようにも思える。だが、それが良い。

これらだけでも十分郷愁をそそるものではありますが、外壁にはもう一つ、ワタシの脳の記憶の座の、奥深い部分を刺激する光看板がありました。


ワタシの脳の記憶の座を強く刺激した光看板。ルーレットをモチーフとしたと思われる円の中に、「KING OF KINGS」とある。

これは間違いなく過去にどこかで見ているはずのデザインでしたが、その場では元ネタが思い出せません。東京に帰ってからさっそく手持ちの資料を調べてみたら、その正体は結構あっさり見つかりました。


ユニバーサル「KING OF KINGS」(1977)。

業界誌「アミューズメント産業」77年6月号に、ユニバーサルが開発したメダルゲーム、「KING OF KINGS」の広告が掲載されていました。ルーレットというモチーフ、字体ともに、かすが娯楽場の看板と相当な部分で一致します。

「KING OF KINGS」は、1974年にセガが発売した初の国産メダルゲーム機「FARO」(関連記事:初の国産メダルゲーム機の記憶)を、実際にボールを転がして出目を決めるメカ式のゲームに翻案したような内容でした。ワタシの記憶では、それほど大きくヒットした機械でもないと思っていたのですが、一つのゲームセンターがそのデザインを看板に取り込もうと考えるくらいにはインパクトがあったのでしょう。ワタシが訪れたときのかすが娯楽場にはビデオゲームしか設置されていませんでしたが、70年代にはメダルゲームも設置してあったのかもしれません。

天王寺のこの界隈には、他にスマートボール場や、昔ながらのパチンコ台ばかり設置しているパチンコ店があり、いずれまた訪れてみたいと思わせてくれるところですが、現在のワタシはANAのスーパーフライヤーズカードを取得しており、マイル修行のついでにという動機がなくなってしまったので、なかなか次回のチャンスを得られずにおります。
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商業施設の屋上の記憶(2) 目黒近辺

2016年09月11日 17時26分44秒 | ロケーション
■目黒ステーションビル
運営元は不明。いわゆるJR(当時は国鉄)目黒駅の駅ビルで、現在「atre1」と名乗っているビルです。自宅からは若干遠かったものの、その気になれば徒歩でも行き来できない距離でもないので、1970年代の前半頃は、近所の友達同士でときどき行っていました。

メインのゲーム機はやはりピンボール機で、
・「BAZZAR」(Bally、1966) 二つのフリッパーの間隔が閉じる「Ziper Fliper」が特徴。
・「EXPO」(Williams、1969)
・「Doodle Bug」(Williams、1971)
・「KLONDIKE」(Williams、1971)
・「Olympic Hockey」(Williams、1972)
・「SPANISH EYE」(Williams、1972)
などが記憶にあります。


上記6機種のピンボール機のうち、SPANISH EYEとOlympic Hockeyの2機種。セガが1972年に発行したプライスリストより。

ピンボール以外で記憶にある機械で、現在画像を持っているものにはこんなのがあります。


「NIGHT RIDER」(セガ、1970):バイクのドライブゲーム。ゲーム中のBGMに、ポール・アンカの「ダイアナ」を流していた。



「Pro Bowler」(セガ、1972):テンピンボウリングをかなり忠実に再現したゲーム機(でも実は米国Williams社の同種製品のパクリ)。ゲーム料金が、当時としては高い1回50円(他のゲームは1回10円~30円だった)だったが、ボウリングブームのさなかだったこともあって良く遊んだ。


「DERBY DAY」(セガ、製造年不明):パチンコ型のプライズ機。3頭の馬がトラックを回り、自分がゲーム開始時に選んだ馬が一等でフィニッシュすると景品が出る。何もしないでいると、自分が選んだ馬は他の馬よりも遅くなるようにできている。弾いた球が通過したロールオーバーの数字の馬が早く進む。



「ATTACKⅡ」(セガ、製造年不明):レバーで戦車を操作して、三方の壁面に配置された、敵戦車が描かれたボタンのうち、点灯したものを砲身で突くと得点。一定の点数を獲得すると賞品のメダルが払い出された。

今思うと、セガの製品がやたらと多かったことに気づきます。また、この頃のセガが扱っていた輸入ピンボールはウィリアムズとバーリー、それにシカゴコイン各社の製品のみのようで、ゴットリーブ製品は扱っていませんでした。ということは、このロケーションの運営は、セガか、少なくともセガと密接な関係にあったオペレーターであったことが推察されます。

【余談1】
目黒ステーションビルの隣には「目黒ターミナルビル(現atre2)」という商業ビルが並立しており、この屋上のゲームコーナーにも何度か行っているはずなのですが、「KING TUT」(Bally,1969)というピンボールのゲーム料金が破格の10円(当時のピンボール機のゲーム料金は、新しい機種は30円、古い機種は20円が多かった)だったこと以外の記憶がほとんどありません。古代エジプトをテーマとしたこの機械のタイトルが「ツタンカーメン王」の意味であることを知ったのは、インターネットが発達した1990年代以降のことでした。
KING TUTの資料 (The Internet Pinball Databaseより)

【余談2】
目黒ステーションビルで遊んでいたある日、若い女性(多くは制服の女子高生だったように思います。当時のワタシから見たら全員がお姉さん)が大挙して屋上にやってきたことがあります。ゲームコーナーの外はイベント広場のようになっており、どうやらそこで某男性新人歌手の新曲キャンペーンが行われるということらしく、みなさん手に手にその歌手のレコードやポスターと思しきものを持っていました。ワタシと友人も、野次馬根性で、女性集団の外側から覗き込んでみましたが、イベントはなかなか始まらず、確かそのうち小雨も降り出してきたような気もします。業を煮やして「チケット(あるいはレコードだったか)買ってる人だけでも入れてよ」などと叫ぶ声も、一群の後方から飛んでいました。

しばらくしてから、イベントの主催者側と思しき人が出てきて、「××(目当ての歌手名)は、先ほどこのビルの3階までは来たのですが、危ないということで、本当に残念なんですが、戻られました」と言うような内容のイベント中止のアナウンスを、しどろもどろになりながらしておりました。元々さして興味があるわけでもなかったワタシ達はさっさと屋内に引っ込んだので、その後どうやって混乱を収拾したのかはわかりません。ともあれ、今も「野口五郎さん」という歌手の名を聞くと、この時のことが懐かしく思い出されます。あの時売り出していた曲は「青いリンゴ」だったな。

■セイフ―チェーン西小山
運営元不明。それどころか実は、この3階建て(うろ覚え。2階建てだったかも)のスーパーが「セイフ―」だったのか「セイユー」だったのかすら、今に至ってもはっきりしておりません。

ワタシが通っていた中学校の学区域の東端付近は、目蒲線(当時。現在の目黒線)西小山駅を最寄駅としていたため、この地域から通学している級友の家に遊びに行った折りに、そのセイフ―だかセイユーだかには数回行きました。1972年~74年のことです。

このゲームコーナーで記憶に残っているのは、たった三つのコインマシンだけです。一つは玉入れゲームの類で、手前のボール発射装置からテニスボールくらいの大きさのボールを発射して、奥にセットされている人の顔の形をした的の目または口に入れるというものでした。キャビネットには「これはオモシロイ!」という煽り文句と、「実用新案申請中」と言う掲示がありました。確かに、友人どもと一緒に騒ぎながらやっていれば、それなりにオモシロイものではありましたが、他で見たことはなく、それほど普及しなかったようです。

二つ目は、いわゆるクレーンゲームです。一度も獲れたためしはありません。

セガの「スキルディガ(Skill Diga)」。西小山で見たものと同型機かどうかは不明だが、昔のクレーンゲームは、現在主流の「UFOキャッチャー」とは違って、だいたいこのようなスタイルだった。なお、米国では、プライズを掴み取るクレーンゲームを「Digger(掘る人、掘る道具などの意)」と称することが多く、「ディガ(Diga)」は、それが転訛したものと思われる。

最後は、野球をテーマとするピンボールゲーム2機種です。このうち、特に記憶に残っているのは1機種で、打ち出した球がヒットのロールオーバーを通過すると、その球はそのまま盤上にあるダイヤモンド上の塁にランナーとしてセットされます。続いて打った球がまたヒットのロールオーバーを通過すると、ダイヤモンドが90度回転して、ランナーの球は進塁し、今打った球は新たなランナーとして1塁にセットされます。他に二塁打、三塁打、ホームランもあり、それぞれによって適切な角度だけダイヤモンドが回転しました。ホームインした球は自動的にダイヤモンドから外れ、得点表示となるエリアに送られました。また、ヒットのロールオーバーの左には玉が3つ入ると三振アウト、右には玉が4つ入るとフォアボールとなるポケットがありました。

このゲーム機の製造元と製造年は不明ですが、プランジャー(ボールを打ち出す竿)へのボールのセットは、プランジャーの下に付いているレバーを手で押して行う手動式でした。このような機構は1960年代初頭以前のピンボール機に見られるもので、従ってこの機械もかなり古いモノであるという見当はつきます。

そしてまた、このゲーム機は、前述の「これはオモシロイ」と謳っていた国産の玉入れゲームなどと比較すると、ゲームデザインや機械構造が格段に洗練されており、日本国内でゼロから作り上げられたものとは思いにくいです。

10年くらい前のあるとき、インターネットでゲーム関連のウェブサイトをあちこちうろついていたところ、この野球ゲームに良く似た機械が掲載されているメーカーのカタログを発見しました。


日本娯楽機が1936年頃に発行したカタログの部分。セイフ(ユ?)ーチェーンの屋上に設置されていた2種類の野球ゲームに良く似た機種が掲載されている。

日本娯楽機」の名は、これまで拙ブログに何度か出てきています。この2機種のうち、右側の「最新式野球ゲーム機」が、特に記憶に残っている方です。左の「高級野球ゲーム」も、ダイヤモンドの形に見覚えがありますが、どんな動作をしていたかは覚えていません。ただ、「最新式」の方が面白かったことは覚えています。

この日本娯楽機の創業者である遠藤嘉一氏は、1920年代はじめころから、衛生用品や菓子などの自販機、すなわちコインマシンを開発していたそうです。その後、海外の娯楽機を輸入して遊園場の運営に乗り出し、更に輸入したゲーム機をベースに自身でもゲーム機を開発していたとのことで、現代のパチンコのルーツは、遠藤氏がそうやって作ったゲーム機にあるという説も有力です。

その更に後日、あるきっかけから、動画サイト「YOU TUBE」に、米国のRockola社が1933年か34年に作っていた「WORLD SERIES」というゲーム機の動画がいくつかアップされているのを発見しました。
(以下はyoutubeに投稿されている「WORLD SERIES」の動画です。モバイル機器でのアクセスにはご注意ください。)
Rockola 1934 World Series Pinball Machine For Sale
Rockola World Series Pinball Machine

これらの動画に見られるWORLD SERIESは、ワタシの記憶とは異なる点もいくらかあります(ワタシの記憶違いの可能性もある)が、重要な部分は概ね一致しているように思います。Rockola(現Rock-Ora)社は、1927年に創業した米国のコインマシンメーカーですが、とりわけジュークボックスのブランドとしてたいへん有名です。かなり複雑で精緻な機械動作を要するジュークボックスを作るだけの技術があれば、この程度のゲーム機を作ることも容易であったろうと思われます。

ということは、ワタシが遊んでいたあの野球ゲーム機は、ひょっとすると、日本娯楽機が、Rockola社のWORLD SERIESを手本に作ったものなのかもしれません。そして更にひょっとすると、セイフ(ユ?)ーの屋上は、かねてからデパートの屋上遊園を手掛けていた日本娯楽機が運営していたのかもしれません。

現代の大型スーパーにもゲームコーナーを備える店舗は多いですが、設置されているゲーム機のバリエーションという点では、製品寿命の長かった昔の方が豊富であったように思えます。これも時代の流れで仕方のないことなのかもしれませんが、残念なことです。
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