オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

(今週も予定変更)JAEPOショウ2019に異変!

2019年01月27日 21時32分15秒 | メーカー・関連企業
去る25日(金)、幕張メッセで開催された、AM業界のトレーディングショウ「JAEPOショウ」を視察してまいりました。

会場の広さは僅か2スパンで、この業界の市場規模がいかに縮小しているかが伺われるところですが、それでも残っているメーカーたちはいろいろと知恵を絞って新しいアミューズメントにチャレンジしています。

今回のショウで最も人々の耳目を集めたのは、おそらく二つの会社からピンボール機が出展されていたことではないかと思います。これはおそらく、JAEPOショウの前身であるJAMMA/AOU両ショウを含んで、20年か、ひょっとするとそれ以上ぶりのことではないでしょうか。

今回出展されたピンボールは、ホットトイズジャパン社より米国Stern Pinball社の6機種と、バンダイナムコテクニカ社よりやはり米国Jersey Jack Pinball社の3機種です。




ホットトイズジャパン社のブース(上)と、バンダイナムコテクニカ社のピンボールが展示されていた一角。

AM市場におけるピンボール機は、1980年初期に一度危機的状況に陥りましたが、1984年にWilliamsが発売した「Space Shuttle」を機に再び回復し、その後はデータイーストの参入もあり、一定の人気は保っていました。しかし、1990年代には再び退潮傾向に入り、1996年にはGottliebが、1999年にはBallyと Williamsが相次いでピンボールから撤退して、ピンボールというジャンルはほぼ絶滅に近い状態となってしまいました。

しかし、ピンボール界のレジェンドと言われる「Gary Stern」氏が、データイーストピンボール社の流れを汲むセガピンボール社を買収しStern Pinball社として、ピンボールの日を消すまいと孤軍奮闘していました。そして2011年には「Jack Guarnieri」氏がJersey Jack Pinball社を立ち上げ、二つ目のピンボールメーカーができました。

とは言え、ラスベガスのダウンタウンにあるゲームアーケードの例(関連記事:ラスベガス半生中継・2018年10月 (7) DAY 7~帰国まで)を見ても見当がつくように、必ずしもAM市場でピンボール機が再び(というか三度)活況を呈するようになってきているわけでもなさそうです。ではなぜ今これだけのピンボール機が作られているかというと、オペレーターでだけはなく、個人がピンボールを購入できるルートを設けるようになったからであるようです。

ピンボールが殆ど生産が行われなくなった2000年以降は、好事家や篤志あるコレクターによってピンボールを集めたロケが世界のあちこちに作られ、それらはピンボールファンの聖地と目されて各地から同好の士がやって来ます。ピンボールとはかくも熱狂的なファンが世界に存在する、ある意味特殊なゲーム分野と言えましょう。そうであれば、個人が趣味で車やバイクを買うのと同じように、ピンボールだって個人需要があってもおかしくはありません。なお、ホットトイズ社が扱うピンボールの価格は、スタンダード版が120万円、プレミアム版が160万円とのことです。

そんな事情はともかくとして、いずれにせよ、ピンボールが復活するのであれば、ファンにとってはうれしいことです。住宅事情が悪い日本ではピンボール台を置ける家は少ないでしょうから、やはり設置されるとしたらゲーム場とか飲食店などになるでしょう。ここで問題になるのはメンテナンスです。メカの塊で消耗部品も多いピンボールは故障しやすく、そしてロケーションにはピンボールを修理するスキルを持つ係員はほとんどいなくなっているので、ホットトイズジャパン社とバンダイナムコテクニカ社には、どこまでバックアップ体制が取れるかも問われることになると思います。どうにかしてこの問題をクリアして、日本でもピンボールを復活させてもらいたいものです。

 
ホットトイズジャパン社によるStern Pinball社の機種から、スター・ウォーズスタンダード版(左)とビートルマニア(右)。スターウォーズにはこの他にプレミアムエディションがある。ビートルマニアは、最近のピンボールには珍しい、ランプレーンもマルチレベルもない、70年代のEM機のようなプレイフィールで、今回ワタシが最も期待していた機種だった。

 
同じくStern Pinball社の機種から、ガーディアンズオブギャラクシー(左)とバットマン(右)。バットマンは、TV放映時の映像がカラーで流れる。


Stern Pinball社の機種から、デッドプール。


バンダイナムコテクニカ社による、Jersey Jack Pinball社の3機種。左からウィザード・オブ・オズ、パイレーツ・オブ・カリビアン、それにホビット。

バンダイナムコテクニカ社は昨年に引き続いての出展ですが、これまでの日本のゲームセンターには無いゲームを精力的に紹介している会社です。確かに、今までと同じことをしていては縮小を続けるAM業界のV字回復は望めません。このような試みを、今後もずっと続けて行っていただきたいものです。

(予定変更)70年代のセガのエレメカゲーム「ATTACK」とそのシリーズ

2019年01月18日 21時57分03秒 | ピンボール・メカ
インフルエンザA型にかかってしまいました。療養の為あまり長い時間机に向かっていられないので、今回は予定を変更して、セガの昔のエレメカ機で最近Twitterで話題になっていた件について、参考画像を掲載して凌いでおこうと思います。

今回問題となるTwitterはこちらです。
https://twitter.com/kt2soundlab/status/1085132609678536705

「LUNAR RESCUE」が発売された時期は定かではありませんが、1970年代の早い頃にはあったように記憶しています。

このTwitterへの返信に、戦車バージョンの「ATTACK」と「ATTACK II」の違いにが気になるというつぶやきがあったので、フライヤーの情報をもとにワタシがお答えしたのですが、この時に画像を掲載することができなかったので、こちらに掲載しておこうと思います。

まずは、このシリーズの第一弾と思われる「ATTACK」のフライヤー。片面印刷。


次に、ATTACKのニューバージョンと思しき「ATTACK II」のフライヤー。こちらは両面印刷です。



最後に、最も遅いバージョンと思しき「LUNAR RESCUE」。これも両面印刷です。



それぞれの違いは、以下の通りです。

ATTACK ・・・・・・・ 一定の得点以上で賞品メダルを払い出す。
ATTACK II ・・・・・・ 一定の得点以上で賞品メダルを払い出すか、またはリプレイに切り替え可。
LUNAR RESCUE ・・・・ 一定の得点以上でリプレイ。

これよりまた療養の床に付きます。次回は本来の「サンブルーノ・アメリカン・アンティーク・ミュージアムの記憶(2/3)」に戻るはずです。

サンブルーノ・アメリカン・アンティーク・ミュージアムの記憶(1/3):プロローグ

2019年01月14日 20時45分50秒 | 歴史
もう一昨年となる2017年の4月29日に投稿した記事「新・ラスベガス半生中継 2017 年GW 初日。」において、ワタシはサンフランシスコ国際空港(SFO)のコンコースにアンティークのスロットマシンの展示が行われていたことに触れ、「帰国後はこれを拙ブログのネタにしよう」と述べていますが、結局今まで手付かずのままでした。大いに反省しつつ、今回やっとそのネタに着手します。

2009年11月17日のこと。この日、ラスベガスに向かっていたワタシは、飛行機の乗り継ぎのためSFOに降り立ちました。

SFOの、ユナイテッド航空の国内線が発着するターミナルに続くコンコースの両脇は、「SFOミュージアム」と称するサンフランシスコにちなんだ文物を展示するミニ博物館となっており、この時は「For Amusement Only」と題して、アンティークスロットマシンの展示が行われていました。


2009年、SFOのユナイテッド航空国内線ターミナルに続くコンコースに設置された、当時の展示テーマ「For Amusement Only」の看板。使用されている写真は、現代リールマシンの始祖とされる「リバティ・ベル (Fey, 1899)」。


この時のコンコース全体の様子。

「For Amusement Only」は、直訳すれば「娯楽専用」ですが、コインマシンゲーム業界においては「賭博に非ず」を意味する決まり文句で、当局による賭博機の取り締まりを回避する呪文として多くのコイン式ゲーム機に掲げられました。しかし、それが単なる建前に過ぎない場合も多かったことは、この展示を見れば明らかです。

実は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、サンフランシスコには多くのスロットマシンメーカーと、スロットマシンのオペレーターがありました。メーカーの一つで、現代リールマシンの始祖とされる「リバティ・ベル (Liberty Bell)」機を開発したチャールズ・フェイの工房の跡地には、現在はカリフォルニア州の史跡として記念碑が建てられています(ワタシのプロフィール写真がそれ)。展示の中には、このようなアメリカのスロットマシンの歴史のブリーフィングにもなっている口上もあったので、今後のために訳しておこうと思います。


今回の展示に関する口上。ごく簡単にではあるが、20世紀のスロットマシンに対する取り締まりやそれに対する業界が行った対処が要約されているので、この機会に訳して残しておく。
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(タイトル) 娯楽専用 機械世代のスロットマシンとその他のギャンブル機

(前文) この、男どもが好んで集まる場所ならどこにでもあった魅惑的な小さな機械のスロットに、5セント硬貨を投入しない者がいるだろうか? それらは町のほとんどすべてのサルーンとタバコショップに設置され、「タイガー」(カードゲーム)がドルを貪るのと同じ速さで5セント硬貨を貪った。   1896年2月2日 サンフランシスコモーニングコール紙

(本文)19世紀から20世紀の変わり目の、サンフランシスコのバーバリーコーストにあるサルーンからやってきたギャンブラーなら、今日のカジノにある現代的なスロットマシンを容易に理解するであろう。いかに新しい素材やテクノロジーが導入されていても、ゲームのコンセプトは100年以上前にサンフランシスコの発明家チャールズ・フェイが開発した初めての自動支払い機能を持つ3リール機から殆ど変化していない。硬貨を投入し、ハンドルが引かれる、またはボタンが押されると、リール(今は仮想リールだが)が回転し、停止して結果が決定する。

ヴィクトリア朝時代のサンフランシスコよりも、オープンかつ大規模にギャンブルが広まったところは世界のどこにもない。町の住人は、西部での新しい人生にすべてを賭けて移住してきた開拓者かその1世代後の者たちが殆どだった。サンフランシスコでは、競馬、スポーツ、カードゲーム、ホイールオブフォーチュン、更には突然始まる議論も含んで、起こりうることはほとんど何でも賭けの対象となった。20世紀の最初の1年目には、300台を超す機械が野放しで稼働し、人通りの多い歩道からは、魅了された客がサンフランシスコに急増していたサルーンやシガーストアに入って行った。

ギャンブル機の人気が高まる間、彼らはまた批評家からの批判も受けることになった。破壊された機械の山の前で市民のリーダーが定期的にハンマーを振り上げる間、社会活動家は家庭を破壊するとして機械を目の敵にした。業界は、ギャンブル防止条例を回避するために、係員によって飲み物やたばこと交換できるバウチャーが貰える「トレード・スティミュレイター(購買促進機)」や、ミント菓子やチューインガムを払出す販売機を作った。また別の機械は、なにがしかの技量を要するフィーチャーを付け加え、そしてそれらには「For Amusement Only (娯楽専用)」と目立つように表示された。

1909年、サンフランシスコの膨大な数のスロットマシンは市全体での禁止を招いた。この法律は2年間にわたって無視され、その結果マシンは州全体で違法とされた。1940年代の終盤には反ギャンブルの心情が一般的な潮流となり、議会が州境を越えてスロットマシンを運ぶことを禁じる法律を可決した時に最高潮に達した。共感する州議会議員はこの勢いに乗って、1州を除くすべての州で保有禁止法を可決した。1960年代にはスロットマシンはネバダ州だけが合法だった。1978年、ニュージャージー州は、州議会がアトランティックシティでの使用を合法としたことで、それらを許可する2番目の州となった。1988年、議会の法律はスロットマシンをアメリカインディアンのカジノでの利用を可能とし、今では28の州で稼働している。

今日のビデオスロットは、依然として人気があり、カジノの堅実な収入源ではあるが、前身であるメカニカルなスロットマシンにあった魅力と創意工夫――回転するドラムリール、コインボウルにコインが払い出される騒々しい音、それにおそらくもっとも重要である職人の創意工夫による多様なバリエーション――に欠けている。この展示は、機械的なギャンブルマシンの技術的及び芸術的革新を示す。単純な時計機構とバーテンダーによる支払いに頼る最も初期の装置から、精巧な彫り込まれた木、鋳鉄、または塗装されたアルミニウム筐体を備えた自動スロットマシンまで - それぞれが、新たなプレイヤーの、コインを投入して運試ししようとする意欲を競っている。

全ての展示品はジョー・ウェルチのサンブルーノアメリカンアンティークミュージアムの好意による。
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これらの展示には解説文が添えられており、その末尾には必ず「Courtesy of Joe Welch's San Bruno American Antique Museum (提供はジョー・ウェルチのサンブルーノ・アメリカンアンティーク博物館)」との一文がありました。帰国後にさっそく調べてみたところ、SFOにほど近い「サンブルーノ」というところで、「ジョー・ウェルチ」という人が、「American Antique Museum」という私設博物館を開いていることがわかりました。

これはいずれ訪問しなくては

ワタシは夢中になって展示を写真に収めたのですが、コンコースの左右の窓から入る外光で逆光になりやすく、またアクリル製の展示ケースへの映り込みが多くてなかなか良い画像が撮れません。苦労しながら200枚近くを撮影しているうちに、気が付けばいつの間にか飛行機の搭乗時刻を過ぎてしまっており、慌てて搭乗口に走ったけれども目的の飛行機は既に出発した後だったというマヌケな失敗を犯したのも、今となっては楽しい想い出です。


展示の様子の一部。(1)世界初の自動払い出し機能を付けたリールマシン、「Leberty Bell (フェイ、1899)」。 (2)リールマシンにフルーツシンボルが導入されたごく初期のころの「Counter OK Vendor (Mills, 1911)」。 (3)リバティ・ベルのようにカウンター上に設置するカウンタートップに対して、床に設置するフロアマシンと呼ばれるタイプの一つ。「Triplet (Caille, 1905)」。 (4)トレード・スティミュレイターの一群。ここにあるのは1927年から1951年の間に作られたもの。小さく軽いので、当局に踏み込まれてもすぐにカウンターから撤去できる。

(次回、「サンブルーノ・アメリカン・アンティーク・ミュージアムの記憶(2/3):本編」につづく)

ピンボールのアートワークの話(番外):Gottliebのもう一つの独自性

2019年01月03日 22時04分16秒 | ピンボール・メカ
明けましておめでとうございます。今年も細々と拙ブログを更新してまいります所存です。拙ブログの記述に誤りや情報などお気づきの点がございましたら、忌憚なくご指摘いただけますとなお一層ありがたく存じますので、今年もなにとぞよろしくお願いいたします

さて、2019年一発目は、昨年最後に掲載した一連の記事を少し引き摺ります。ワタシは、「ピンボールのアートワークの話(2):ポインティ・ピープルを描いた二人のアーティスト」において、「ゴットリーブと言うメーカーの(WilliamsとBallyの両社に対する)独自性をワタシに意識させた」と述べましたが、Gottliebには「ポインティ・ピープル」を採用しなかったということ以外にもう一つ、独自性を感じるポイントがあります。今回はそれについて述べます。

フリッパー・ピンボール機のプレイフィールドには、ボールを弾き飛ばすキノコ型をしたバンパーが付き物です。この機構は一般的には「ポップ・バンパー(Pop Bumper)」と呼ばれますが、本来はメーカーによって異なり、Gottliebは「ポップ・バンパー(Pop Bumper)」、Ballyでは「サンパー・バンパー(Thumper Bumper)」、そしてWilliamsでは「ジェット・バンパー(Jet Bumper)」(当初はBallyと同じく「サンパー・バンパー」と呼んでいた)と呼ぶのが正確なんだそうです。今回は面倒なので「ポップ・バンパー」に統一することにします。

このポップ・バンパーの上部の傘の部分を「キャップ(Cap)」と言って、いろいろなデザインがありますが、特に「スター・バースト(Star Burst)」と呼ばれるデザインは、ピンボールを意味する図象として広く認識されているように思われます。


スター・バーストデザインのポップバンパーのキャップ(チェリーの絵には特に意味はありません)。

このスター・バーストデザインのキャップは、BallyやWilliams、Chicago Coin、はてはなぜか日本のメーカーであるSEGAまでも使用していましたが、Gottliebだけは独自のデザインを使用し続けていました。

ポップバンパーの実際の使用例。
「Big Valley (Bally, 1970)」


「Suspense (Wiiliams, 1969)」


「Big Flipper (Chicago Coin, 1970)」


「Winner (SEGA, 1971)」


最後に「Mibs (Gottlieb, 1969)」


スター・バーストのキャップの部品が各社同じものなのかどうか、そこまではわかりません。しかし、ここまで見た目を統一しなくてもよさそうなものだと思います。現にGottliebは違うデザインで何の支障もなかったわけですし。何にしろ、それが良い事だったかそうでなかったかはともかくとして、この事実は、Gottliebは他社と一線を画するメーカーであるという印象をワタシに植え付ける原因の一つになりました。

なお、Williamsは、1973年代の半ばころから、新しいデザインのキャップを数種類用いるようになりました。Williamsにおけるスター・バーストデザインのキャップは、1974年にはまだ確認できますが、1975年以降の機種では、ワタシは発見できていません。

とまあ、今年もこんな調子でオールドゲームなどのどうでもいい話をぐずぐずと述べて参ろうと思いますので、多少なりともご興味が通じる方がいらっしゃいましたら、ご笑覧いただければ幸いです。