オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

ラスベガス半生中継2017年8月

2017年08月27日 22時57分17秒 | 海外カジノ
先週、今年二度目のラスベガスに行って参りました。格別の大当たりを出したという覚えもないのですが、泣きそうになるくらい負けが込むということもあまりなく、出発前と帰国後では手持ちの現金(ドル)の額が殆ど変らずに済みました。

ところで、拙ブログで現在進行中の「それはポンから始まったのだけれども」は、あと1回で完結する予定ですが、述べる内容の時代背景は、日本のコインマシン業界にビデオゲームというものが登場してからスペースインベーダーの少し後までを想定しており、最終回ではナムコのパックマンに言及して終わりにしようと思っています。

さて、そんなつもりを心に秘めて旅立った今回のラスベガスですが、この巡礼で二つ、新製品のスロットマシンを見つけました。一つ目は、サイエンティフィック・ゲーミング社の「SPACE INVADERS」です。


サイエンティフィック・ゲーミング社の「SPACE INVADERS」。リールの右上に、スペースインベーダーの砲台のマークが付いていると画面右のゲージにストックされていき、50個以上たまると、上の画面を使って昔懐かしのインベーダーゲームができる。

サイエンティフィック・ゲーミング社とは、拙ブログではおなじみの名前であるバーリーと、やはり米国の大手スロットマシンメーカーだったWMS、それにバーリーの子会社となっていたシャッフルマスターなどを、一昨年に買収して一つのグループにしてしまった会社で、しかし元々はバーリーの子会社だか関連会社だかだったというよくわからない大手ゲーミング機器メーカーです。

この「SPACE INVADERS」は、一昨年の9月に開かれたゲーミング業界のビジネスショウ「G2E」に出展されていたものですが、このたびようやく市場デビューできたようです。

もう一つは、アインスワース社の「PAC‐MAN」です。ワタシはこれを過去のG2Eショウで見た覚えがありません。もともとワタシはこのアインスワース社のゲームで面白いと思ったものがあったためしがなく、カジノで同社の新製品を見つけても一瞥をくれる程度で、遊んでやろうなどとは全く思えなかったのですが、パックマンテーマともなれば少しはやってみなければならないという気になります。やはりIPは大事で有効なのだと改めて思いました。


アインスワース社の「PAC-MAN」。リールが停まる時に、パックマンがドットを一つ食べるときの「ギュワ」という音がする。5リールの停止で「ギュワ、ギュワ、ギュワ、ギュワ、ギュワ」と連続で聞こえる。また、キャッシュアウトする時には、パックマンがモンスターに捕まった時の効果音が流れて、とても懐かしい気分になる。

しかし、スペースインベーダーにしろパックマンにしろ、ワタシ世代に対しては強く訴えかけるものがありますが、いまどきのナウなヤングの人たちにとっては、話には聞いたことがあるけれど、という程度のものではないかと思います。メーカーが想定するターゲットがどの層なのか聞いてみたいものです。

ただ、今回の2機種は、あまり劇的にお金が増える機械のようには見えません。スペースインベーダーはハイエナが有効なフィーチャーがあり、パックマンはミニマムベットでは遊べないボーナスゲームがあるなど、ちょっと首をかしげたくなる部分もあります。ともあれ、来月末日からまたラスベガスに行く予定があるので、その時にもう一度遊んでみようかとは思っています。

ラスベガスに行って参ります

2017年08月19日 12時57分08秒 | その他・一般
本日より24日まで、ラスベガスに行って参りますので、
ほぼ週一のペースで更新していた「それはポンから始まったのだけれども」シリーズは
一旦お休みいたします。

なんとか機会を見つけて現地のトピックがお伝えできればと思います。

それはポンから始まったのだけれども(4) Space Invaders invaded Japan in 1988-1989

2017年08月15日 22時50分15秒 | ビデオゲーム
タイトーが1978年に発売したスペースインベーダーは、後世の語り草となる一大ブームを巻き起こしました。


スペースインベーダーのフライヤー。当時、アップライト筐体は、タイトー製とバーリー・ミッドウェイ社製の2種類が出回っており、ビーム砲の操作系が、バーリー・ミッドウェイ筐体では二つのボタンで行い、タイトー筐体ではジョイスティックで行っていたように記憶しているが、このフライヤーはボタン仕様になっている。慣れの問題もあるとは思うが、素早い操作をするにはジョイスティックの方が圧倒的に優れていた。

年少者にとっては、それまでコインオペレーションのゲームと言えば遊園地や商業施設の屋上、もしくは繁華街にでも行かなければできない、一種のハレの日の特別なイベントであったのですが、このブームで客が激減したパチンコ店ばかりか、私鉄沿線の小さな商店街でも、にわかゲームセンター(そのような店舗は「インベーダーハウス」などと呼ばれました)に転業する一般商店が雨後の竹の子のように現れ、ビデオゲームはすっかり日常のものとなりました。

ワタシも、当時行きつけの喫茶店にテーブル筐体のスペースインベーダーが設置されたこともあって、もちろん熱中しました。そのうち、文庫本を読むと文字の並びがインベーダーの列に見えるようになって、「こりゃ、いかんなあ」などと自省することもありました。

このブームが社会に与えた影響がいかに大きかったかを表す逸話として、ネット上では100円硬貨を66億円も増産したという言説が見られます。また、日本中の100円硬貨が不足したという新聞報道を実際に読んだ覚えがワタシにもあります。その真偽についてはこちらで検証しているので参照していただければと思いますが、簡単にまとめると、その新聞記事はゴシップ的であると評価するものの、ブームのさなかに国内の100円硬貨の流通量にいくらかの異変が見られたこと自体は事実のようです。

スペースインベーダーは、従来の「パドル&ボール」ゲームのボールを弾に置き換えた、大胆なアレンジであったと思います。しかし、それだけではミスの要素がないため、消すべきブロックに相当するインベーダーキャラにも弾を発射させて、これを受けることでミスとするという、コペルニクス的と言うかコロンブスの卵的転回の発想により、シューティングゲームという新しいジャンルが登場したと、ワタシは考えています。

スペースインベーダーの大ヒットにより、自分のところだけでは需要に応じきれないタイトーは、いくつかの同業者にライセンス生産を許しましたが、類似品やデッドコピー品も大量に世に出回りました。当時のもう一つの大手メーカーであったセガも、「スペースアタック」(1979)を始めいくつかの類似品を発売していますが、当時としては珍しいカラー画像であったにもかかわらず、ヒットはしませんでした。のちにセガの人に聞いた話では、スペースアタックは、キャラクターの造形と、ヒットしなかったことに対する自嘲の意味も込めて、社内では「豚殺し」と呼ばれていたそうです。

 
セガ製のスペースインベーダーの類似品で、スペースアタックの続編となる「トリプルアタック」(1979)のフライヤー。これもヒットしなかった。

スペースインベーダーのブームは、1979年の夏ころより沈静化し始め、以降、ゲーム機メーカーは、ポストインベーダーの開発に迫られることになります。

(次回、たぶん最終回)

それはポンから始まったのだけれども(3) スペースインベーダー(1978)以前のヒットゲーム

2017年08月06日 18時24分07秒 | ビデオゲーム
前回の記事から若干前後しますが、1976年に発売された「BREAK OUT」(ATARI・1976)(フライヤーはこちら)は、PONGを凌ぐ大ヒットとなりました。熱中してやり込む中毒者が発生する、初めてのビデオゲームと言えるかもしれません。多くのコピー品が生まれたためか、日本ではオリジナルのタイトルで呼ばれるよりも、「ブロック崩し」と呼ばれるのが一般的でした。

BREAK OUTも、PONGのような「パドル&ボール」のゲームではありましたが、従来のこの種のゲームがたいてい2人で対戦するものだったのに対し、一人でも遊べるゲームだったことと、何層にも並ぶブロックの後方のスペースにボールを打ち込むと、勝手に大量のブロックを消してくれるという爽快感があり、またゲームの進行に従ってボールのスピードが増し、パドルはボールと同じくらいの大きさにまで縮小するので、スピード感とスキルアップが感じられるゲームだったことが、ヒットの要因だったのだろうと思います。

1977年頃になると、ブロック崩しのバリエーションである「CIRCUS」(Exidy・1977)が流行りました。ボールの代わりの人間を、パドルの代わりであるシーソーの空いている方で受けることでシーソーのもう片方にいる人間をジャンプさせ、上空で横3列に並んで互い違いに左右に移動する風船を割るというコミカルな世界観は秀逸で、これも多数のメーカーがコピーし、一般には「風船割りゲーム」と呼ばれてヒットしました。




数ある風船割りゲームのコピー品の一つ、セガの「SEESAW JUMP」(1977-8?)のフライヤーと画面部分の拡大。

風船割りゲームは、ゲームスタート時と、横一列の風船を全て割った時、それに人間を受け損なって死ぬ時にメロディが流れました。ワタシの記憶では、これ以前のビデオゲームでメロディが流れるビデオゲームが思い浮かばず、もしかするとこれが初のゲームミュージックを搭載したゲームではないかと考えています。これ以前のゲームでメロディが流れるビデオゲームをご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひともご教示ください。

PONG以降、スペースインベーダー以前のビデオゲームで、ブームになったと言って良いのは、このブロック崩しと風船割りぐらいのように思います。当時の他のゲームは、反射神経ゲームを時間制で遊ぶタイプが多く、戦略性が希薄なため、一時のてなぐさみにはなっても徹底的にやり込もうという意欲を掻き立てるものではありませんでした。しかし、メーカーも徐々にそのあたりに気づいてきたようで、米国Meadows社が1978年に開発し、日本ではタイトーが発売した「GYPSY JUGGLER」のフライヤーにはこんな文章が見られるようになります。

反射神経をかなり使いますが、なれるにしたがって技術が向上し、得点があがりますので、得点アップによって満足感が得られ、何度でもチャレンジしたくなる面白味があります

 
GYPSY JUGGLER(Meadows/タイトー・1978)のフライヤーの表裏。

GYPSY JUGGLERもパドル&ボールゲームで、ジャグラーを操作して卵でジャグリングをするという内容のゲームでした。ゲームスタート時には、一般ではサーカスの定番テーマミュージックとされているフチークの「剣士の入場」と言う曲の一節が流れたところから、ExidyのCIRCUSに多少なりともあやかろうとしたか、少なくとも何らかの着想のヒントを得ている部分があると思われます。GYPSY JUGGLERはまた、ゲーム中に卵を落してしまうと、割れた卵からヒヨコが現れ、ピヨピヨと鳴きながら画面の端に去っていくという演出がありました。このような、ゲームとは直接関係しない部分にわざわざ手間をかけるようになったのも、このころからだったように思います。

タイトー自身も、サーカステーマからインスパイアされたと思しき「TRAMPOLINE」(1978)というゲームも出しています。シーソーをトランポリンに変え、人間をジャンプさせて上空の星を消し、更に空中ブランコに掴まらせてうまく別のブランコに飛び移らせるとボーナス得点が入るという内容でした。

 
TRAMPOLINE(タイトー・1798)のフライヤー。渋谷センター街のゲームセンターでこれに硬貨を投入したところ、基板が壊れているらしく、動作が全く滅茶苦茶でゲームにならなかったことがあった。来るべきコンピューター社会でコンピューターが暴走することの恐ろしさを漠然と感じた。

GYPSY JUGGLERもTRAMPOLINEも、さほどのヒットとはなりませんでした。しかしこの辺りから、タイトーはビデオゲームのヒットの要素を掴んだように見えます。そして同じ1978年、タイトーは、日本の風俗史に残るブームを起こすこととなる「スペースインベーダー」を発売します。

(もう少し続けられそうなのでつづく)