オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

かすが娯楽場(大阪)の記憶

2017年01月29日 22時23分00秒 | ロケーション
ワタシは以前、ユナイテッド航空の囲い込み戦略に取り込まれ、ずいぶん長い期間、年に最低5万マイルを飛ぶという「マイレージ修行」を自分に課しておりました。

東京とラスベガス1往復で、当時は1万数千マイルが溜まりました。従って、1年に4往復すれば、概ね5万マイルに達します。特別なキャンペーンがあれば3往復でも達成できる年もありました。しかし、不慮の出来事により、事前に計算していた通りのマイルが稼げない年もありました。

あと少しマイルが足りないと言うときは、わざわざ他の都市を経由したり、ANAで国内旅行をするなどの工夫をします。2011年の場合は、羽田―大阪を往復しました。日帰りでも良かったのですが、せっかくの機会なので大阪で1泊しました。

ワタシは大阪には土地勘がなく、現地では、電車を利用して適当に知っている名前の場所をうろついたのですが、その中に天王寺が含まれていました。その天王寺で、ワタシはなんともレトロな雰囲気のゲームセンター、「かすが娯楽場」に出会ってしまったのでした。


かすが娯楽場(大阪・天王寺)の入り口付近。

軒先に連なるアサヒビールの提灯や、外壁に掲げられた光看板の「ボッちゃんもトウちゃんも」というコピーは、いかにも昭和を感じさせてくれます。


このコピーは昭和40年代のセンスのようにも思える。だが、それが良い。

これらだけでも十分郷愁をそそるものではありますが、外壁にはもう一つ、ワタシの脳の記憶の座の、奥深い部分を刺激する光看板がありました。


ワタシの脳の記憶の座を強く刺激した光看板。ルーレットをモチーフとしたと思われる円の中に、「KING OF KINGS」とある。

これは間違いなく過去にどこかで見ているはずのデザインでしたが、その場では元ネタが思い出せません。東京に帰ってからさっそく手持ちの資料を調べてみたら、その正体は結構あっさり見つかりました。


ユニバーサル「KING OF KINGS」(1977)。

業界誌「アミューズメント産業」77年6月号に、ユニバーサルが開発したメダルゲーム、「KING OF KINGS」の広告が掲載されていました。ルーレットというモチーフ、字体ともに、かすが娯楽場の看板と相当な部分で一致します。

「KING OF KINGS」は、1974年にセガが発売した初の国産メダルゲーム機「FARO」(関連記事:初の国産メダルゲーム機の記憶)を、実際にボールを転がして出目を決めるメカ式のゲームに翻案したような内容でした。ワタシの記憶では、それほど大きくヒットした機械でもないと思っていたのですが、一つのゲームセンターがそのデザインを看板に取り込もうと考えるくらいにはインパクトがあったのでしょう。ワタシが訪れたときのかすが娯楽場にはビデオゲームしか設置されていませんでしたが、70年代にはメダルゲームも設置してあったのかもしれません。

天王寺のこの界隈には、他にスマートボール場や、昔ながらのパチンコ台ばかり設置しているパチンコ店があり、いずれまた訪れてみたいと思わせてくれるところですが、現在のワタシはANAのスーパーフライヤーズカードを取得しており、マイル修行のついでにという動機がなくなってしまったので、なかなか次回のチャンスを得られずにおります。

フリッパー・ピンボールに関する重箱の隅 「フリッパー」と「Gottlieb」

2017年01月22日 20時37分15秒 | ピンボール・メカ
「ピンボール」と聞くと、一般的にはこの画像のようなゲーム機を想起する人が殆どだと思います。



Fire Ball(Bally、1972)

それはそれで間違いではないのですが、しかし実は、「ピンボール」はかなり広い範囲をカバーする言葉で、例えば過去に言及したピン・ビンゴ(関連記事:都立大学駅前のビリヤード場「アサヒ」と「ピン・ビンゴ」)もピンボールの一種ですし、また日本の「パチンコ」や「スマートボール」だってピンボールの概念に含まれます。要するに、「ピン」と「ボール」で構成されたゲームはたいていピンボールと思って差支えないくらいの言葉です。

と言うわけで、上記画像のようなゲームを特定して指したい場合は、「フリッパー・ピンボール(Flipper Pinball)」という言葉が使われることがあります。今回の記録は、このフリッパー・ピンボールの名の由来となる「フリッパー」に関するものです。

「フリッパー」とは、プレイフィールド上のボールを弾き返すためにプレイヤーが操作する装置のことです。細長い涙滴型をしており、キャビネットの両側面に設置してあるボタンを押すと、鈍端を軸に鋭端が一定の角度で跳ね上がる(=Flip)ことからそう呼ばれています。


Domino(Gottlieb、1968)のフリッパー。そのサイズから「2インチ」と呼ばれる。


Trail Drive(Bally、1970)のフリッパー。そのサイズから「3インチ」と呼ばれ、現在の主流となっている。初めて登場したのは1968年。


初めてフリッパーを装備したピンボール機は、米国Gottlieb社の「Humpty Dumpty(1947)」とされています。実際には、それ以前から「フリッパー」を装備するゲーム機はありましたが、それらはいわゆる「フリッパー・ピンボール」とは趣が異なるものでした。Gottliebはこのゲームを「フリッパー」と名付けたいと考えていましたが、1932年に既に同名のゲーム機が存在していたため、断念せざるを得ませんでした。

ところで、ピンボールにフリッパーが搭載される以前の時代、ピンボールは偶然によるゲーム(= A Game of Chance)、すなわちギャンブル機とみなされ、アメリカの多くの州で禁じられましたが、フリッパーは、ピンボールは熟練のゲーム(= A Game of Skill)であり、ギャンブルではないと主張する根拠とされました。

このことからもわかるように、ギャンブルと非ギャンブルの境目は、ゲームの結果が偶然(Chance)と技量(Skill)のどちらで決まるものであるかが一般的な判断基準となっています。余談ながら、パチンコやパチスロがギャンブルゲームとみなされない理由の一つは、結果に技量が関与する余地が存在する熟練のゲームだと解釈されているからです。

Williams社やBally社といった他の大手ピンボール機メーカーは、かねがねギャンブル機開発にも手を染めていましたが、Gottlieb社はひたすら非ギャンブルのアミューズメント機の開発に徹していました。その意味でもフリッパーは同社のプライドでもあったようで、フリッパーの絵と「SKILL GAME」という文言が入った図柄をトレードマークとして登録し、これは1960年代から1970年までのGottlieb社のフリッパー・ピンボールのバックグラスには(おそらく必ず)描かれ、それ以降も、1980年までフライヤーに掲載し続けました。


Gottlieb社が登録したトレードマーク。現在はその権利が放棄されているが、200ドルほど支払えば、いくらかの条件はあるものの、再登録して使えるようになるらしい。


KING & QUEENS(Gottlieb 1965)のバックグラス。下段中央に「FLIPPER SKILL GAME」のトレードマークがある(赤円内)。


CIRCUS(Gottlieb 1980)のフライヤー。赤円内にトレードマークがある。

Gottlieb社のこの主張はいささかくどいようにも見えますが、例えばニューヨーク州などはピンボール機を1975年まで禁止していたなど、ピンボール機に対する偏見は比較的最近まであったので、同社としては意地にかけてそう言い続けていたのではないかと思います。

現在、フリッパー・ピンボールの市場は縮小し、今でも開発を継続している企業は、ほとんどGottlieb社Chicago Coin社(ご指摘により修正・20.04.02)の流れを汲むStern Pinball社一社になってしまっています。これというのも、フリッパー・ピンボール機は故障が多くメンテナンスが大変な割にゲーム時間が長くて商売としてうまみがないとみなされ、設置したがるロケーションが減ったのが大きな原因のようです。しかし、ファンはその灯を消すまいと奮闘しており、フリッパー・ピンボールを敢えて主たる設置機種とするロケーションは世界各地にあり、それらの中にはファンの聖地と化しているものもあります。その様子はまるで、絶滅危惧種を懸命に保護する人々の戦いのようにも見えます。

「メダル」と「メダルゲーム」という呼称についての備忘録(3)メダルの種類

2017年01月15日 22時26分11秒 | 歴史
現在、メダルゲームのメダルには、だいたい2種類あります。

ひとつは、メダルゲームの先駆けとなったsigma社がゲームに使用していたメダルで、径は米国の5¢硬貨とほぼ同じで、現在「5¢メダル」と呼ばれているものです。



sigmaのロケで使用されていた5¢メダル(表裏)。海外の現金のデザインを模しているらしい。

sigmaはその後紆余曲折を経て2000年にアドアーズ社となり、店舗で使用するメダルの仕様を変えましたが、5セントメダルは現在もナムコ社とタイトー社のメダルゲーム場で使われています(同じ会社のすべての店舗が同じ仕様のメダルであるかどうかは確認していません)。

しかし、sigma社に追随した同業他社のほとんどは、5¢メダルよりも径の大きい、現在は「25¢メダル」と呼ばれるメダルを使用していました。その名の通り、径は米国の25¢硬貨とほぼ同じです。


1972~73年ころ、メダルゲームに新規参入したロケ-ションでよく見られた25¢メダルの表裏(ただし別の個体。「Bally」の字体が微妙に異なる?)。中心に米国Bally社のロゴが見られるのは、当時のメダルゲーム機のほとんどがBally社製であったことと無縁ではないと思う。「ONLY FOR AMUSEMENT」と「NO CASH VALUE」の文言は、その後国内で作られたメダルの多くで見かけた。

25セントメダルは現在の殆どのメダルゲーム場で採用されています。大資本による大型ロケーションであれば、店舗や会社ごとにオリジナルのメダルのデザインを持つ余力がありますが、個人営業で資金力が弱い店舗は、メダルの鋳造会社が予め用意した出来合いのデザインを刻印したメダルを使うことが良く行われていました。

5¢メダルにしろ25¢メダルにしろ、米国の硬貨を元に作られているらしいところは共通しています。これは、初期のメダルゲームの主流機種が米国から輸入したスロットマシンであったため、付属のコイン識別機をそのまま使用できるようにしたためではないかと推測されますが、真相はわかりません。

しかし、25¢硬貨は、実は日本の10円硬貨とほぼ同じサイズであるため、メダルゲーム機の中には10円硬貨も受け付けてしまう機械が散見されました(実際、アメリカのパーキングメーターに10円硬貨を投入したことがあるというけしからん人に出会ったこともあります)。これは、メダル単価が1枚20円だった時代では、半額で遊べてしまうことになるだけでなく、投入された10円硬貨がコインチューブやコインホッパーに溜まれば、ゲームの結果で現金が払い出されることになり、警察から賭博とみなされてしまう可能性もあるため、業界にとっては迷惑なことであったでしょう。

そんなわけで、昔のメダルは、一般の自販機で偽貨として使われないよう、現行のどの通貨よりも大きい30㎜φ以上とするか、さもなくば強磁性体であること(つまり、磁石にくっつく素材であること)が求められたりもしていました。現在は、コイン識別機の精度が格段に向上しており、他店のメダルを使用したり、メダルを自販機で使用することはまずできません(精度が上がりすぎて、逆に正規のメダルなのに受け付けてくれないというトラブルを招くことさえあります)。

ところで、オリンピアゲームで使用されていたメダルの径はさらに大きく、米国の50セント硬貨とほぼ同じです。


オリンピアで使用されていたメダル。

オリンピアを運用するメダルにこのサイズが選ばれた理由はわかりません。オリンピアが稼働を始めた1966年、アメリカでは50セント硬貨を投入するスロットマシンというものはほとんどなかったと思います。しかし、当時、セガは自社のスロットマシンをヨーロッパに多く売っていました。そして、英国で1970年まで使用された1ペニー硬貨の径もまたほぼ同じ(むしろ50¢硬貨よりもより近い)であるところから、もしかするとそれが理由なのかもしれません。

手に持ってみると、5¢メダルは25セントメダルよりかなり小さく感じるのですが、実際は3㎜程度の差しかありません。オリンピアのメダルは25¢メダルよりも6.5㎜ほど大きく、これだけのサイズならメダルと呼んでもあまり違和感は感じない気もします。


小さい順に5¢メダル、25¢メダル、オリンピア用メダル。

◆メダルギャラリー1:オリンピアのメダル
(1)
(2)
(3)

(1)は、ワタシが中学生のころ、大岡山のオリンピアセンター(関連記事:スキル・ボール(初の国産ピン・ビンゴ)と大岡山のオリンピアセンターの記憶)で遊んだときに使われていたメダルのデザインです。現在ワタシの手元にいくらかあるオリンピア用メダルのほとんどがこれです。

(2)は両面同じデザインです。SEGAの刻印が見えます。ワタシの手元にあるこのデザインのメダル数はあまり多くありませんが、レアと言わなければならないほどでもありません。

(3)は、片面に守礼門、片面に沖縄が刻印されています。ひょっとして沖スロに関係しているのでしょうか。ワタシの手元では、まだこれ1枚しか発見されていない、レアなメダルです。「ユニバーサル」の刻印も気になります。パチスロメーカーのユニバーサル(またはアルゼ)社と同一である可能性は高いと思いますが、裏は取れていません。

◆メダルギャラリー2:ジョイパック25¢メダル


「ジョイパック(JoyPack)」とは、映画館、パチンコ、キャバレー、ゲームセンターなどを運営する企業である恵通観光のブランド名です。同社は現在はヒューマックスという名で娯楽提供企業の大手となっています。1975年頃から80年代前半ころまで、東横線都立大学駅前にあったメダルゲーム場「キャメル」(関連記事:柿の木坂トーヨーボール&キャメル)もここの運営だったため、ゲームで高得点を出すと、同系列の映画館(自由が丘劇場)の招待券がもらえたりもしました。ただこの映画館は、正月には必ず寅さんシリーズがかかりましたが、それ以外ではしばしば成人映画がかけられるような映画館でもありました。

◆メダルギャラリー3:セガ(旧ロゴ)25¢メダル


ゲーム機メーカーのセガ社のロゴが現在のものになったのは1976年頃で、それ以前のロゴは、このメダルの刻印に見られるデザインでした。日本のゲーム機メーカーがメダルゲームに本腰を入れるようになるのは1974年頃からですから、このメダルが製造されていたのはそれから76年のロゴ変更までの間と思われます。もしかするとレアなものかもしれません。

「メダル」と「メダルゲーム」という呼称についての備忘録(2)

2017年01月14日 16時31分38秒 | 歴史
◆前回のあらすじ:
1969年、sigmaが始めた「カスタム方式」は、業界では「シグマ方式」と呼ばれた。業界が疑問視したsigmaのチャレンジは成功をおさめ、1972年、これを模倣する同業他社が現れたころから、業界ではシグマ方式を「メダルイン・メダルアウト方式」と呼ぶようになるが、必ずしも統一された呼称ではなく、「コインゲーム」と呼んだ例も残っている。

1973年、メダルイン・メダルアウト方式に参入する業者の増加に伴い、業界団体は、警察庁の指導を得て、メダルイン・メダルアウト方式による営業が賭博や青少年の非行などに繋がることを予防するために遵守する方針である「メダルゲーム場運営基準」を策定しました。この当時、ゲームセンターはまだ風俗営業ではなく、警察による監督管理を受ける業種ではありませんでしたが、以前から存在していたゲーム機による違法な賭博を取り締まるのは警察であるため、業界は敢えて警察の懐に飛び込んで健全営業に徹することをアピールし、金の卵を産む鶏を守るとともに、警察からの必要以上の干渉を避けようとしたのでしょう。これが「メダルゲーム」という呼称を広める助けになったであろうことは想像に難くありません。そしてこの言葉は、1974年中にはほぼ完全にAM業界に定着します。

ところで、ゲーム機メーカーのタイトー社がメダル機の開発・販売に参入するのはその翌年の1975年からですが、自社が開発するメダルゲーム機のことを、「ミモ」と呼んでいたようです。これは、メダルイン・メダルアウト(Medal In Medal Out)の頭文字を取ったものです。


タイトー社が1980年に発売した「マジックルーレット」のフライヤー。最上段に「Taito Mi-Mo Machine」の文字が見える。TAITO社は1986年までメダルゲームのフライヤーのデザインを概ね統一していたが、1981年の途中からこの部分を「MEDAL GAME MACHINE」に変更している。

1981年以降、タイトー社のフライヤーから「Mi-Mo」の文字は消えましたが、1990年代のはじめ頃、タイトー社の若い社員と話をする機会があった時に、その人が当たり前のように「ミモ」と口にしていたところを見ると、社内用語としてはしぶとく残っていたようです。そのタイトー社は、現在は残念ながらメダルゲーム機の開発から撤退しており、もはや「メダルイン・メダルアウト」の名残を聞く機会はほとんどなくなってしまいました。

一方、パチンコ業界では、AM業界にメダルイン・メダルアウト方式が出現する以前に、既に「メダル」を使用する「オリンピア」機を擁していましたが、オリンピアが新たなレジャーとして注目を浴びた1966年の時点で、「メダルはメダルと呼び、コインと呼んではいけない」という了解事項がありました。


デイリースポーツ1966年12月21日に掲載されたオリンピアゲームの紹介記事の一部。「コインと呼んではいけない」との記述がある。

これは、「コイン」という言葉には「硬貨(=通貨)」の意味があるため、ギャンブルではないオリンピア遊技機の用語として適切でないということで、業界が取り決めたのか、はたまた監督官庁である警察から指導があったのかは定かではありませんが、とにかくゲームに使用するコイン状のものはメダルと称することになっていたようです。このとき、「トークン」あるいは「スラグ」が採用されなかった理由はわかりません。もしかしたら、馴染みのない外来語では浸透しないと考えたのかもしれませんし、また、沖縄で事実上のギャンブル機であった「スラグマシン」を連想されることを避けようとしたのかもしれません。いずれにせよ、メダルゲームができた初期のAM業界では、風俗営業界では常識であったこのような意識がまだ希薄だったようです。

現在でも、メダルゲームのことを「コインゲーム」と呼んでしまう人がときどきいますが、少なくとも業界的にはこの呼称はNGです。


◆これまでのまとめ
1966 風営機「オリンピア・スター」が話題に。トークンは「メダル」と呼ぶ。
1969 sigma、渋谷にゲームファンタジア渋谷カスタムをオープン(3月)。
1970 sigma、大田区池上にゲームファンタジア・カスタムをオープン。
    sigma、自らの運営方法を「カスタム方式」と命名(正確な時期は不明)。
1971 sigma、新宿歌舞伎町にゲームファンタジア・ミラノをオープン(12月)。
1972 カスタム方式を模倣する同業他社現る。
    AM業界は「カスタム方式」を「メダルイン・メダルアウト方式」と呼ぶも、
    「コインゲーム」と記述する業界誌の記事も存在し、まだ共通の
    了解事項とはなっていなかった。
1973 AM業界、警察の指導を受け「メダルゲーム場運営基準」策定。
    大阪府警、「メダルゲーム場の営業指導要領」を発表。
    「メダルゲーム」という言葉が現れるが、まだ定着と言うには至らない。
1974 セガ、初の国産メダルゲーム機「ファロ」「シルバーフォールズ」の広告に
    「SEGAマークのついたメダルゲーム機です!」とのコピーを使用(1~2月)。
    業界誌紙の記述も「メダルゲーム」でほぼ統一される。
1981 タイトー、自社のメダルゲーム機のフライヤーから「Mi-Mo」の記述を外す。

このシリーズはもう1回だけ続きます。

「メダル」と「メダルゲーム」という呼称についての備忘録(1)

2017年01月14日 00時02分31秒 | 歴史
日本のAM業界には「メダルゲーム」というジャンルがあります。しかしこの呼称は、英語を母語とする人たちには何のことなのかさっぱり見当もつかない、意味の通じない言葉です。

「メダルゲーム」の「メダル」は和製の用法で、英語で同様の概念を言う際には、「トークン(token)」または「スラグ(slug)」とするのが正しいようです。そう言えばセガ社は、1974年頃に発売していたメダル貸出機の商品名を「スラグ・ディスペンサー」と称していました。また、米国が統治していたころの沖縄で流行したスロットマシン遊技機(今でいうパチスロの「沖スロ」の原点らしい?)は、現地では「スラグ・マシン」と呼ばれていました。


1974年頃のセガのメダルゲームカタログより。筐体には「メダル貸出機」とあるが、商品名は「セガ・スラグ・ディスペンサー」と表記されている。

また、「メダルゲーム」という呼称は、その業態が発生した当初からあったわけではありません。今回は「メダル」及び「メダルゲーム」という用語が生まれた経緯をメモしておこうと思います。

1969年3月、sigma社は、換金できない専用トークンでスロットマシン類を遊ばせる営業の実験店「ゲームファンタジア渋谷カスタム」を、渋谷のボウリング場の一角に設けました(関連記事:メダルゲームの曙を見た記憶)。

この「カスタム」には、「洗練された雰囲気を好む都会人向けにカスタマイズされた娯楽場」という意味が込められており、sigma社はこの運営方法を「カスタム方式」と名付けました。なにしろこの時代は、TVのクイズ番組で「夢のハワイ旅行」などという惹句が謳われるほど、多くの日本人にとって海外はまだまだ遠い存在だったので、カジノのスロットマシンがずらりと並ぶロケーションは、憧れの海外の雰囲気が感じられたことでありましょう。

しかし、カスタム方式が現れる以前から、日本には既に海外のギャンブルゲーム機を使用した賭博営業が新聞沙汰になるほどには浸透していたので(関連記事:ロタミントの記憶)、多くのAM業界人は、換金できないsigmaのこのチャレンジには大いに懐疑的でした。業界はカスタム方式を「シグマ方式」と呼びましたが、この呼称は、誰もsigmaに追随する者がおらず、sigmaただ一社が孤軍奮闘していたことを示しているようにも思われます。しかし、そんな業界の冷ややかな見方をよそに、プレイヤーは喜んでシグマ方式を受け入れ、その結果sigma社は、都内にシグマ方式の店舗を次々と新規開店しました。

1972年になると、そろそろシグマ方式が商売として成立する見極めがついたのか、ついにこれを模倣する同業他社が現れ始めます。このことから、ワタシは、今で言う「メダルゲーム」というジャンルが業界に確立されたのは1972年と考えています。

「シグマ方式」が一般化すると、そのような業態は「メダルイン・メダルアウト方式」と呼ばれるようになりますが、「コインゲーム」と呼ばれることもありました。また、トークンの呼称についても、少なくとも1973年時点では、元祖のsigma社でさえ「コイン」と称していた例が見られるように、この時点ではまだ「メダル」「メダルゲーム」という用語は定着していませんでした。


AM業界誌「アミューズメント産業」1972年3月号の一部。メダルゲームを「コインゲーム」と呼んでいる(傍線部)。


「アミューズメント産業」1974年1月号より。sigma社「ゲームファンタジア・イエローサブマリン」の店内の様子の写真。メダル貸出機に「ゲーム・コイン貸出機」とある。余談だが、画面左に見えるスロットマシンが米国ミルズ社製である。ワタシはメダルゲームとしてミルズ社の機械を見た覚えがなく、これは非常にレアな証拠写真だと思う。

長くなりそうなので、以下次回に続く。